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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第10章 アンチ・カミサマ
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 平戸との会話で多少気分の晴れた悠太は、特にすることもないので、そそくさと帰宅の順を選んだ。電車に揺られ、改札口を通過し、何気なくFlyへと目を向けた瞬間、少年は軽い既視感に襲われた。窓際のテーブル席に、一組の若い男女が映っていたのだ。道路側に背を向けているのが真飛。その向かいに座って両肘をつき、計算づくの角度で顎を乗せているツインテールの少女……。

 入穂だ。正体に気付いた悠太は、店に入るかどうか迷った。真飛の性格からして、入穂にいつまでもまとわりつかれるのは迷惑だろう。そう思う一方で、自分が恋路の邪魔をしてよいものか、判断がつかなかったのである。いくら真飛が友人とは言え、そこにアプローチしている女性を妨害する権限はないはずだ。そう考えた悠太は、心の中で真飛に謝りつつ、自宅への道を選んだ。

 国道から外れ、住宅街へ足を踏み入れると、地元の小学校が見えてきた。人口が一万を切る田舎町にしては立派な建物で、悠太と瑠香が一緒に通っていたのも、ここである。閑散とした校庭が、垣根越しに広がっていた。その横手を過ぎかけたところで、悠太は謎の視線を感じる。

 振り向くと、小学生らしき女の子が立っていた。体格から、そう断じたのである。

 制服姿の高校生など珍しくないだろうと、悠太は再び背を向けようとした。

「仮屋お兄ちゃん?」

 悠太は歩を止める。慣性で若干つんのめりなりながら、悠太は少女を眼差した。初見では気付かなかったが、少女は手に何かを持っていた。……小さな、白い傘だった。コンビニに行けば一本五百円で買えるような、安っぽい代物だ。

 はて、天気予報は雨だったかと、悠太は空を仰視した。真夏の豊かな雲を除けば、一面に晴天が広がっていた。

 少年は首を捻ると、疑わし気に少女を見下ろした。

「僕に何か用?」

 少女ははにかむように頷くと、手に持っていた傘を差し出した。

 意味の分からぬプレゼントに、悠太は目を白黒させる。

「えっと……今は雨も降ってないし……」

「あのね、ヤコウってお兄ちゃんが、これ返してあげるって」

「ヤコウ……?」

 聞き慣れぬ響きだ。上の名前なのか、下の名前なのかすら判然としない。

 しばしの間、悠太は記憶を辿った。そして意外な時間軸に、その答えを見つける。

「……八向和馬くんかい?」

「そんなの知らない」

 少女は無邪気にそう言うと、傘の柄を押し付けてくる。状況を把握できぬまま、悠太はその品を受け取った。

 その途端、少女はパタパタと靴音を鳴らして、来た道を駆け去ってしまった。

「……」

 夏風に吹かれたところで、悠太は我に返った。手中の物体を、念入りに観察する。悠太では杖代わりにもならない、子供用の傘であった。

 ふと留め具の部分に、一枚の紙切れが挟まっていると気付いた。それを壊れ物のように引き抜くと、プリントされた文字が透けて見える。……手紙だ。そう直感した悠太は、折り畳まれた紙片を慎重に広げた。

 

 悠太くん、お久しぶり。同窓生の八向です。と言っても、もう五年も会ってませんし、覚えてないかもしれませんね。君の新しい連絡先が分からないので、下の番号に電話してください。僕を失望させないでくださいよ。では、後ほど。

 

 080ーXXXXーXXXX

 

 熱に浮かされた心地で、悠太はその文面を三度読んだ。そして、全てを察する。これは、同窓生からの手紙ではない……使徒からのメッセージだ、と……。

 悠太は震える手で、ポケットから携帯電話を取り出す。ゆっくりと、ひとつひとつ、番号を打ち込み始めた。途中で入力ミスがあったものの、十一桁の数字は、程なく液晶へと並べられ、主人の決断を待っている。

 悠太は通話ボタンを押し、端末を耳に押し当てた。長い呼び出し音の後に、短い静寂が訪れる。悠太が唾で口内を潤す前に、若い男の声が聞こえてきた。

《もしもし……仮屋悠太くんですか……?》

 それが八向の声なのかを、少年は同定することができない。記憶が薄れているというだけでなく、声変わりがお互いの痕跡を消し去っているのだった。

 悠太は、掠れ気味に返事をする。

「そ、そうだよ……君は、和馬くん……?」

《どうやら、覚えていてくれたようですね……光栄です……》

「どうして僕に電話を? どこから?」

《まあ、順番にお話ししましょう……ただ、その通り道で会話するのは、止めていただけませんかね……内密な話ですので……》

 居場所を言い当てられた悠太は、怯えた犬のように、辺りを見回す。……それらしき少年の姿はなかった。まさか、カミサマと対話しているのでは。得体の知れない恐怖が、悠太の中に芽生える。

 けれども八向は、辛抱強く、悠太の移動を待ち続けていた。

「……分かった。家に帰って、かけ直すよ」

《そこの学校裏でいいじゃないですか……誰もいませんよ……》

 悠太は端末を耳から離し、校舎の陰へと視線を伸ばす。子供の遊んでいる気配は、確かにない。自宅への十数分を惜しむとなれば、よほど切迫しているのだろう。悠太はそう考え、八向の要求を聞き入れることにした。

 携帯を耳に当て、一言添える。

「それじゃ、すぐ移動するから」

《あいかわらず素直な性格ですね……感心しますよ……》

 皮肉とも賞賛とも取れる台詞を聞き流し、悠太は学校の裏手に回った。……誰もいない。八向の姿さえなかった。荒れた植え込みと、小さな噴水があるだけの、殺風景な空間。その噴水に繋がる池も、夏場の断水で干上がっていた。

 悠太は物陰に注意しつつ、八向との会話を再開する。

「で、話って何?」

《悠太くんは、ユダなんですか?》

 やはりそうか。悠太は、彼自身が思っていたよりも、冷静に言葉を返す。

「そういう君は?」

《ふむ……用心深いですね……僕はヤコブです》

「Aの方? それとも……」

 携帯の向こう側で、くすりと笑いが漏れた。

《どうやら、本当にユダくんのようですね……僕は、Aです……》

 試されていたようだ。そのことに気付いた悠太は、若干イヤな気分になる。

 しかし、相手も使徒だと分かった以上、遠慮は要らない。そう考えた悠太は、いつもの問いを口にする。

「その情報、どこで入手したんだい?」

 答えなど期待していなかった。これまで邂逅した使徒たちの誰ひとりとして、その秘密を明かした者はいないのだ。

 ところが、今度ばかりは事情が違っていた。

《ペトロさんからです》

 通話口から漏れた名前に、悠太は一瞬たじろいだ。

 踵を引いた拍子に、足下の砂が乾いた音を立てる。

「江東さんから?」

 悠太は慌てて、舌の動きを止めた。

 もしかすると江東は、本名を明かさなかったかもしれない。そう危ぶんだ悠太に、八向は一段と低い声で言葉を継ぐ。

《江東さんにお会いしたんですか……それなら話は早い……》

「君も江東さんに会ったの? まさか、談合を持ちかけられたとか……」

《談合? ……いえ……それは不可能です》

 不可能。なぜそう言い切れるのか、悠太には分からない。寄付のキセキをユダに断られたのだから、他の使徒を誘ったと考える方が自然だ。

 塵中模索する悠太に、八向は種明かしをする。

《ペトロさんは死にましたからね……昨日の夜……》

 悠太の中で、時が止まった。

「……嘘だ」

《嘘じゃありません……病院にも問い合わせました……昨晩の八時頃、診察室で死んでいるところを発見されたそうです……死因は心筋梗塞……周りは過労死だと思ってるみたいですがね……》

 八向の報告を聞きながら、悠太は昨日の出来事を思い出していた。あのとき自分が危惧したこと、カミサマの制裁に、彼は血の凍り付くような悪寒を覚える。

 そして、その悪寒が逆に、少年の知性を醒ました。

「過労死だと……思ってる……? それじゃあ……」

《悠太くん、まさか君まで、この一連の死が事故だと信じてるわけじゃないですよね……僕をがっかりさせないでくださいよ……》

 八向の言う通りだった。もはや議論の余地はない。

 悠太は、先を続ける。

「じゃ、じゃあ、マルコさんも?」

 イエスかノーか。二択を迫る悠太に、第三の答えが返ってくる。

《マルコさんの正体を知ってるんですか?》

 それは、意外な回答だった。あらゆる点で先を行っているように思われたヤコブAが、知らないと仄めかしたのだ。

 悠太は、慎重に確認を取る。

「マルコさんが誰だか、君は知らないの?」

《質問を質問で返しましたね……僕は知りませんよ。ああいう頭のネジが外れたような人は、あんまり好きじゃないんです……だから、調べてもいませんね》

「調べてない……? 他の使徒の情報は、調べてるってこと? どうやって?」

 疲れ果てたような溜め息が聞こえ、悠太は口を噤んだ。

 相手が追及してこないことに満足したのか、八向は自ら話を再開する。

《この話は止めましょう……正直に言うとね、僕はこのカミサマごっこに、うんざりしてるんですよ。誰が誰かなんて、もうどうでもいいじゃないですか……》

 まるで、自分の心境を代弁しているかのようだ。そんな錯覚に、悠太は囚われる。

「僕だってうんざりしてるさ……」

《悠太くんもそうですか……それは奇遇ですね……だったら、少しばかり、おしゃべりをさせてくれませんか?》

「おしゃべり……?」

《ええ、おしゃべりと言っても、会話のキャッチボールではありません……僕はそれが苦手でしてね……ただ、ヒキコモリをしていると、たまには人と話したくなるんですよ……だから、僕が独り言を呟いて、悠太くんがそれを黙って聞く……。まあ、喋りたくなったら、喋っていただいても結構ですが……どうですか?》

 奇妙な提案に、悠太は沈黙で答えを返した。

 八向もそれを了解し、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

《ねえ、悠太くん、世の中には可哀想な人たちがたくさんいますよね……病気の老人、貧しい子供たち……別にヒキコモリの僕が可哀想と言ってるわけじゃないですよ……いえ、もう強がるのは止しましょうか……僕も自分のことを、そんなひとりだと思ってるんです……悠太くんは、僕のことを可哀想だと思いますか?》

 悠太は、沈黙を続ける。

《僕は君の、そういうところが好きです……他人の価値を簡単に決めないところがね……おっと、話が逸れてしまいました。可哀想な人たちの話でしたね……悠太くん、君は、可哀想な人を助けることについて、どう思いますか? それは、いいことでしょうか? ……別に、ひねくれた答えを求めているわけではありません。僕は、素直にいいことだと思います。人に助けてもらったら、僕だって感謝くらいはしますからね……逆に言えば、自分が助けられたときに限る。そうじゃありませんか?》

 悠太は、声を発さなかった。八向の負の論証に、静かに耳を傾けていた。

《世界には可哀想な人たちが、どれくらいいるんでしょうか? 正確には知りませんが、相当な数だと思います……そして、彼らに対する救いの手が足りていない……足りていないというか、そもそも可哀想な人の方が、多過ぎるのかもしれません……まあ、数の問題はこれくらいにして、そろそろ本題に入ります……ねえ、悠太くん、救済という行為は、助けた人と助けられた人との間でしか成立しない、相対的なものです……少なくとも、僕はそう思っています……助けてもらえなかった人には、助けてもらえなかったという事実だけが残る……他の人が救済されたことは、彼または彼女にとって、どうでもいいわけですよ。違いますか?》

 悠太は、沈黙を守った。たとえ喋れと言われても、彼は口を開かなかっただろう。答えが分からないのだから。

 息苦しい静寂の中、八向は淡々と先を続ける。

《僕は別に、他人を恨んでいるわけではありません……先ほども言ったように、救いの手はその絶対数が足りてないんです……だとすれば、そこからあぶれる人間がいるのは、仕方のないことですからね……でも……》

 八向はそこで、言葉を切った。

《……でも、自分が救われなかったという事実は、どうすればいいんでしょうか? この事実は確定的で、疑いようのないものなんですよ。君たちは盲目の犬を助けた……一方、保健所にいた動物たちは、みな殺されたんです。この事実を、どうすればいいんでしょうか? 君たちのしたことが間違っているなら、答えは簡単だ……君たちを糾弾すればいい。ところが、君たちは間違っていない。僕はあのときの決定を、非難しようとは思いません……反対はしましたがね……》

 悠太は、ありありと思い出す。哀れな犬の救済に反対していた、ヤコブAの書き込みを。

《悠太くん、僕はね、使徒に選ばれたとき、この上ない使命感を覚えたんです。これでこの問題を解決できると思っていた……今思えば、愚かさの極みなのですが……要するに、人生経験が足りなかったのでしょう。カミサマも結局、僕たちと同じで、個別的な救済しかしないということが、ようやく分かりましたよ……》

 葉擦れをもたらす風。悠太の意識は、真夏の静けさに溶け込んでいた。

《やはり君を話し相手に選んで正解でした……僕が喋っている間、黙って聞いてくれましたからね……普通、こんなことはできませんよ……君は昔から、揚げ足取りな議論が嫌いでしたから……》

 悠太は何も言わない。何も言うことができない。

《すみません、時間を取り過ぎました……僕はもう行きます……携帯はちゃんと放り投げて処分しときますからね……履歴が残らないように……ご安心を……》

「……どこへ行くんだい?」

 八向の行き先を、悠太は無意識のうちに尋ねていた。

《……さよならは言ってくれませんか……まあ、それもいいでしょう……悪くない問いですし……でも、それにはお答えできません。誰にも分からないことですので……僕は、カミサマに最後の抵抗をしますよ……あ、そうそう、ひとつだけ、いいことを教えてあげましょうか。カミサマのチャットルーム。あれは、米軍基地にサーバーがあるんです。これを知ってるのは君と僕と……カミサマだけでしょうかね? では、さようなら……五年前に傘を貸してくれたこと、感謝してますよ……ありがとう……》

 その瞬間、通話が途切れた。僅かな間隙ののち、悠太の背後で、乾いた音が響く。重たい石をトタン屋根に落としたような、聞き慣れない音だった。

 何もかもが手遅れであると、悠太はただ、それだけのことを思った。

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