↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金のために娼館で働く元貴族令嬢が敵国の孤独な王子様に愛を捧げる物語  作者: てるてる坊主


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/6

夜の街に理想の人が現れた!?

「危ない!」


御者の叫び声とともに、馬車が急停止した。車体が大きく傾き、ミレナの身体が前へ投げ出される。膝に広げていた紙とペンが床へ落ち、暗い車内をカラカラと転がっていった。


「きゃっ……!」


とっさに座席へ手をつき、どうにか体勢を保つ。向かいの席では、ヴィヴィも窓枠をつかんで顔をしかめていた。


「もう、何よ……。急に止まって」


馬車の外で、馬が荒い鼻息を漏らしている。ミレナは乱れた前髪を手早く整え、窓の外をのぞき込んだ。


石畳の道の真ん中に、酒の匂いをまとった男が倒れている。酔いつぶれているのか、腕を投げ出したまま動く気配がない。


そして、その少し先。街灯の頼りない明かりの下に、見覚えのある淡い金髪があった。


「……ニコ?」


喉の奥がひやりとした。


小さな薬袋を両手で抱えた少年が、通りの端に立ち尽くしている。顔から血の気が引き、今にも泣き出しそうだった。


「ニコじゃないの!」


ミレナは前髪で顔を隠すように手を添え、馬車の扉を開けた。夜気が頬を刺す。石畳へ降りるなり、少年のもとへ駆け寄った。


「こんな夜中に、どうしたの?」


ニコは薬袋を胸へ押しつけたまま、唇を震わせている。


「エリアスの咳が、いつもよりひどくて……」


「うん」


「心配で、心配で……。止められたけど、薬をもらいに行ったんだ」


少年はうつむき、汚れた靴の先を見つめた。


「新しくできた薬屋さんが、いい薬を売っているって聞いたから……」


「エナさんはどうしたの?」


「エナさんは、夜に腰を悪くしてしまって。今日は歩けないって……」


ミレナは、ニコの小さな手へ目を落とした。薬袋は、紙が破れそうなほど強く握られている。途中で何があったのかは、聞かなくても察しがついた。それでも、帰ってきたばかりのニコを責める気にはなれない。


「そう」


ミレナはしゃがみ込み、少年の肩へそっと手を置く。


「怖かったでしょう」


ニコは答えなかった。ただ、小さな肩がこわばったままだ。


「でも、ちゃんと薬を持って帰ろうとしてくれたのね」


ミレナはニコを抱き寄せた。


「帰ったら、二人でエリアスの看病をしましょう。私もいるから、大丈夫よ」


ニコはミレナの服をつかみ、小さくうなずいた。


「この子、あんたの孤児院の子?」


馬車から降りてきたヴィヴィが、近くまで歩いてくる。ミレナはニコの背をゆっくり撫でながら答えた。


「ええ。ニコよ。あの孤児院では最年長なの」


ヴィヴィは少年へ目をやり、それから、そばに立つ男のほうへ視線を移した。そこでミレナも、ようやく男の存在を意識した。


短く整えられた赤髪。街灯を受けたその色は、鮮やかな赤というより、深い銅色に見える。飾り気のない濃紺の外套の下からでも、広い肩と鍛えられた身体つきがわかった。外套の裾には泥が跳ねているのに、生地の艶や仕立てのよさまでは隠しきれていない。家紋も宝石も身につけていないのに、安物ではないことだけは一目でわかる。


髪の下にのぞく瞳は、落ち着いた灰青色だった。整った横顔には、どこか近寄りがたい緊張がある。夜の通りを油断なく見回しているせいか、その表情は少し険しく見えた。


男は道の真ん中に倒れていた酔っ払いを、片腕で軽々と抱え上げた。そのまま通りの端まで運び、壁際へ座らせる。ミレナの目は、思わずその腕に向いた。袖口からのぞく前腕には硬い筋が浮き、指の付け根には剣だこらしい跡が残っている。何度も剣を振るってきた人の腕だ。


「この子の知り合いですか。よかった」


男がこちらへ向き直った。低く、よく通る声だった。


「そこに倒れている男に、薬を奪われそうになっていたので」


彼はニコの抱える薬袋へ目を落とす。


「止めるだけのつもりだったのですが……少々、手荒になってしまいました」


「いえ」


ミレナは立ち上がり、深く頭を下げた。


「本当にありがとうございました。この子は、私の世話をしている孤児院の子なんです」


「そうですか」


男は短く答えた。子どもを助けたことを誇るでもなく、恩を着せるような言い方もしない。ただ、少年を託せる相手がいるとわかって、張っていた気を少しほどいたようだった。


ヴィヴィが、ミレナの耳元へ顔を寄せる。


「ねえ」


「なに?」


「あの人、あんたの好みじゃない?」


「やめてよ。人前で」


ミレナは頬に手を当て、ヴィヴィを軽く押し返した。


「リネ人の子を助けてるし。あの体つき、なかなかよ」


「だから、やめてってば」


否定しても、ミレナの意識は自然と男へ引き戻される。


赤髪。この国では、ルクス人の特徴だ。それでも彼は、リネ人であるニコを助けることを一切ためらわなかった。薬袋を守ろうとしただけの少年を前にして、面倒ごとを避ける素振りも見せない。


無地の外套。家紋も宝石もなし。それでも生地と縫製にはかなりの金がかかっているように見える。腰には大きな剣。


客の身なりから身分や立場を推し量る。それは、ミレナにとってはもう職業病みたいなものだった。


(騎士かしら。こんな場末の酒場にいるのは珍しいけど)


「ご挨拶が遅れて、失礼しました」


ミレナは声を整えた。


「私はミレナと申します。この子が住む孤児院で、世話をしていて……」


男は、まっすぐにミレナを見た。灰青色の瞳がこちらを捉えた瞬間、心臓が一度だけ強く鳴る。


(なんで)


男から向けられる視線には、いい加減慣れているはずなのに。


「旅の方でしょうか?」


胸の奥に生まれた妙な感覚を隠し、ミレナは尋ねる。


「このあたりはあまり治安がよくないので、あなたもなるべく早く宿屋に帰ったほうがいいですよ」


「治安は確かに……」


男は言葉を止め、あたりを見回した。


「僕は、レオンと申します」


「レオンさん」


「目の前の宿屋に泊まる予定で、馬を預けて酒場で飲んでいたんですが」


レオンは、宿屋の二階に並ぶ明かりを見た。


「宿の主人が手違いで、別の客を入れてしまって。他の宿もどこもいっぱいで困っていたら、この子を見つけました」


「それは大変ね」


馬車の入口にもたれたヴィヴィが、にこやかに口を挟んだ。


「じゃあ、孤児院に泊めてあげればいいじゃない」


「そこまでしていただくわけには」


レオンはすぐに首を振った。


「子どもを助けるのは、当たり前のことです。お気になさらず」


「当たり前のことをしただけの人ほど、信頼できるのよ」


ヴィヴィは、さも当然のように言う。


「孤児院には空いている部屋があるんでしょう?」


「あるにはあるけど……」


「少し、この子と相談しますね」


ヴィヴィはレオンへ笑いかけたあと、ミレナの手首をつかんだ。


「え、ちょっと。ヴィヴィ?」


「いいから来なさい」


抵抗する間もなく、馬車の中へ引き戻される。扉が閉じた。


窓の向こうでは、レオンとニコが少し離れた場所に立っていた。


「私、あんたの小説は好きよ」


不意の言葉に、ミレナはつかまれた手首をさすりながらヴィヴィを見た。


「急にどうしたの?」


「だからずっと協力してきた。でも最近、ちょっとマンネリじゃない?」


ミレナは返事をせず、膝の上で指先を組んだ。


「……出版社の担当にも言われたわ」


「初恋もまだの女が、妄想で書く恋愛小説には限界があるってことよ」


「急にひどくない?」


「私はあんたの書く話が好きだからこそ、もっとすごいものが読めると思ってるの」


ヴィヴィの言葉は相変わらず遠慮がない。けれど、からかいだけで言っているわけではなかった。


「そんな女が現実に恋をしたら、どうなるのか。私は見てみたいのよ」


ヴィヴィは窓の外のレオンへ目を向けた。


「ここまで協力してきた親友のお願い、聞いてくれない?」


「……私に何をしろっていうの?」


「この人を今夜、孤児院に泊める。そのあと、一日デートする」


「はあ!?」


思わず、声が大きくなった。


「そのまま一晩寝てみちゃってもいいわね」


「もっと駄目でしょう!」


ミレナは自分のすすけた髪と、首元まで隠れた地味な服を指さした。


「確かに私は、あの娼館で一番人気だけどね?それは髪結い係や衣装係のみんなの協力もあってのことで。この状態で何も起きるわけないって」


「でも、あの腕を見た?」


「見たけど」


「ああいうの好きなんでしょう?」


「それとこれとは別!」


ヴィヴィはそこで、からかうような表情を消した。


「それに私は、あんたのことを本気で心配しているのよ」


ミレナは言葉を失った。


「二十を越えて、これからの人生をどうするか考えもせずに、娼婦を続けるなんて。正気の沙汰じゃないって」


「一応、私なりに考えてるわよ。本だって売れてるし……」


「そりゃそうだけど」


ヴィヴィの声が、わずかにやわらぐ。


「でも、あんたはいつも子どもたちのことばかりでしょう。自分が何を欲しいのか、何を幸せだと思うのか、ちゃんと考えたことがある?」


すぐには答えられなかった。


孤児院の食費。薬代。冬を越すための薪。破れた靴。子どもたちの明日の朝食。


(言われてみれば、確かにいつも自分以外の誰かに関することを考えている気がする)


「一泊泊めて、一日デートするだけ」


ヴィヴィは、わざと軽い調子へ戻す。


「減るもんじゃないし、別にいいでしょう」


「その言い方はどうかと思うわ……」


ミレナは両手で顔を覆い、深く息を吐いた。


ヴィヴィが本気で心配していることはわかる。見知らぬ男と偶然出会い、そのまま一日を共に過ごす。そんな展開は、恋愛小説ならありえるかもしれない。けれど、それが自分の身に起こるとなれば話は別だ。


「売れっ子小説家様が、現実の男を観察する機会よ」


「おもしろがっているだけでしょう」


(ニコを助けてくれたお礼がしたいのは本当)


(レオンさんが気になってしまっているのも、悔しいけど本当)


「自分のことになると背中押されないと動けないタイプでしょ、あんた」


ヴィヴィがニヤニヤしながらこちらを見ている。


「ああ、もう」


ミレナは顔から手を離し、ヴィヴィを制するように片手を上げた。


「泊めて、デートだけね?」


「ええ」


「どう過ごしたかを明日あなたに話す。それでおしまい。いいなら、やるわよ」


「それで十分よ」


ヴィヴィは満足そうに笑った。


ミレナはふくれた顔のまま、馬車を降りる。レオンは、こちらへ背を向けずに待っていた。


すすでくすませた金髪。黒縁眼鏡。首元まで覆う簡素な服。この姿を見て、高級娼館で夜ごと貴族を迎える女だと思う者はいないだろう。王都で人気の恋愛小説家だと気づく者も、まずいない。


ミレナは町娘の姿のまま、レオンの前へ立った。


「レオンさん」


一歩近づくと、レオンはわずかに驚いたように身を引いた。


「この辺りは宿が少なくて、しょっちゅう満室になるんです」


ミレナは柔らかく笑った。


「ヴィヴィの言った通り、孤児院には空いている部屋があります。よろしければ、今夜は泊まっていってください」


胸元で両手を重ねる。


「困ったときは助け合い。それが、うちの信条なんです」


「いや、若い女性がいる家に泊まるわけには……」


「部屋は別ですから、大丈夫ですよ」


レオンはなおも返事をためらっていた。ミレナは、ニコの抱える薬袋へ目を向ける。


「それに」


もう一度、レオンを見上げた。


「この子を助けてくださったお礼を、何もしないままにしたくないんです」


レオンはしばらく、ミレナを見ていた。夜風が通りを抜ける。短い赤髪が揺れ、横顔を街灯の明かりが淡く照らした。


やがて、レオンは慎重にうなずく。


「……では、お言葉に甘えます」


声には、まだ遠慮が残っていた。


「ただ、朝になったらすぐに出ます。それ以上、ご迷惑はかけません」


「朝食くらいは食べていってくださいね」


「……ありがとうございます」


レオンは少しだけ目元をゆるめた。礼を言われることに、あまり慣れていない人の笑い方だった。


「ミレナ姉ちゃん、帰ろう」


ニコがミレナの袖を引いた。


「ええ」


ミレナはニコの手を取った。レオンも、その隣へ並ぶ。三人は馬車へ向かって歩き出した。


ニコは薬袋を抱えたまま、安心したようにミレナのそばへ寄り添う。レオンは向かいの席に座り、窓の外を見ていた。馬車の扉が閉まり、車輪が石畳を軋ませながら動き出す。


街灯が流れるたび、短い赤髪と灰青色の瞳が、闇の中に浮かんでは消えた。


ミレナは、気づかれない程度に彼を見る。


強そうで。物静かで。リネ人の子どもを助けることを、当たり前だと言った人。


さっきまで、自分の頭の中にしかいないと思っていた理想の人が、目の前に座っているのかもしれない。


(せっかくだし、この人のことをもう少し知ってみたい)


そう思った途端、ミレナは窓の外へ顔を向けた。


よくある恋愛小説なら、この後レオンに身分を明かされて、君が好きだと言われて……。


けれど現実では、そんなに都合よく話が進むことはない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。