夜の街に理想の人が現れた!?
「危ない!」
御者の叫び声とともに、馬車が急停止した。車体が大きく傾き、ミレナの身体が前へ投げ出される。膝に広げていた紙とペンが床へ落ち、暗い車内をカラカラと転がっていった。
「きゃっ……!」
とっさに座席へ手をつき、どうにか体勢を保つ。向かいの席では、ヴィヴィも窓枠をつかんで顔をしかめていた。
「もう、何よ……。急に止まって」
馬車の外で、馬が荒い鼻息を漏らしている。ミレナは乱れた前髪を手早く整え、窓の外をのぞき込んだ。
石畳の道の真ん中に、酒の匂いをまとった男が倒れている。酔いつぶれているのか、腕を投げ出したまま動く気配がない。
そして、その少し先。街灯の頼りない明かりの下に、見覚えのある淡い金髪があった。
「……ニコ?」
喉の奥がひやりとした。
小さな薬袋を両手で抱えた少年が、通りの端に立ち尽くしている。顔から血の気が引き、今にも泣き出しそうだった。
「ニコじゃないの!」
ミレナは前髪で顔を隠すように手を添え、馬車の扉を開けた。夜気が頬を刺す。石畳へ降りるなり、少年のもとへ駆け寄った。
「こんな夜中に、どうしたの?」
ニコは薬袋を胸へ押しつけたまま、唇を震わせている。
「エリアスの咳が、いつもよりひどくて……」
「うん」
「心配で、心配で……。止められたけど、薬をもらいに行ったんだ」
少年はうつむき、汚れた靴の先を見つめた。
「新しくできた薬屋さんが、いい薬を売っているって聞いたから……」
「エナさんはどうしたの?」
「エナさんは、夜に腰を悪くしてしまって。今日は歩けないって……」
ミレナは、ニコの小さな手へ目を落とした。薬袋は、紙が破れそうなほど強く握られている。途中で何があったのかは、聞かなくても察しがついた。それでも、帰ってきたばかりのニコを責める気にはなれない。
「そう」
ミレナはしゃがみ込み、少年の肩へそっと手を置く。
「怖かったでしょう」
ニコは答えなかった。ただ、小さな肩がこわばったままだ。
「でも、ちゃんと薬を持って帰ろうとしてくれたのね」
ミレナはニコを抱き寄せた。
「帰ったら、二人でエリアスの看病をしましょう。私もいるから、大丈夫よ」
ニコはミレナの服をつかみ、小さくうなずいた。
「この子、あんたの孤児院の子?」
馬車から降りてきたヴィヴィが、近くまで歩いてくる。ミレナはニコの背をゆっくり撫でながら答えた。
「ええ。ニコよ。あの孤児院では最年長なの」
ヴィヴィは少年へ目をやり、それから、そばに立つ男のほうへ視線を移した。そこでミレナも、ようやく男の存在を意識した。
短く整えられた赤髪。街灯を受けたその色は、鮮やかな赤というより、深い銅色に見える。飾り気のない濃紺の外套の下からでも、広い肩と鍛えられた身体つきがわかった。外套の裾には泥が跳ねているのに、生地の艶や仕立てのよさまでは隠しきれていない。家紋も宝石も身につけていないのに、安物ではないことだけは一目でわかる。
髪の下にのぞく瞳は、落ち着いた灰青色だった。整った横顔には、どこか近寄りがたい緊張がある。夜の通りを油断なく見回しているせいか、その表情は少し険しく見えた。
男は道の真ん中に倒れていた酔っ払いを、片腕で軽々と抱え上げた。そのまま通りの端まで運び、壁際へ座らせる。ミレナの目は、思わずその腕に向いた。袖口からのぞく前腕には硬い筋が浮き、指の付け根には剣だこらしい跡が残っている。何度も剣を振るってきた人の腕だ。
「この子の知り合いですか。よかった」
男がこちらへ向き直った。低く、よく通る声だった。
「そこに倒れている男に、薬を奪われそうになっていたので」
彼はニコの抱える薬袋へ目を落とす。
「止めるだけのつもりだったのですが……少々、手荒になってしまいました」
「いえ」
ミレナは立ち上がり、深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました。この子は、私の世話をしている孤児院の子なんです」
「そうですか」
男は短く答えた。子どもを助けたことを誇るでもなく、恩を着せるような言い方もしない。ただ、少年を託せる相手がいるとわかって、張っていた気を少しほどいたようだった。
ヴィヴィが、ミレナの耳元へ顔を寄せる。
「ねえ」
「なに?」
「あの人、あんたの好みじゃない?」
「やめてよ。人前で」
ミレナは頬に手を当て、ヴィヴィを軽く押し返した。
「リネ人の子を助けてるし。あの体つき、なかなかよ」
「だから、やめてってば」
否定しても、ミレナの意識は自然と男へ引き戻される。
赤髪。この国では、ルクス人の特徴だ。それでも彼は、リネ人であるニコを助けることを一切ためらわなかった。薬袋を守ろうとしただけの少年を前にして、面倒ごとを避ける素振りも見せない。
無地の外套。家紋も宝石もなし。それでも生地と縫製にはかなりの金がかかっているように見える。腰には大きな剣。
客の身なりから身分や立場を推し量る。それは、ミレナにとってはもう職業病みたいなものだった。
(騎士かしら。こんな場末の酒場にいるのは珍しいけど)
「ご挨拶が遅れて、失礼しました」
ミレナは声を整えた。
「私はミレナと申します。この子が住む孤児院で、世話をしていて……」
男は、まっすぐにミレナを見た。灰青色の瞳がこちらを捉えた瞬間、心臓が一度だけ強く鳴る。
(なんで)
男から向けられる視線には、いい加減慣れているはずなのに。
「旅の方でしょうか?」
胸の奥に生まれた妙な感覚を隠し、ミレナは尋ねる。
「このあたりはあまり治安がよくないので、あなたもなるべく早く宿屋に帰ったほうがいいですよ」
「治安は確かに……」
男は言葉を止め、あたりを見回した。
「僕は、レオンと申します」
「レオンさん」
「目の前の宿屋に泊まる予定で、馬を預けて酒場で飲んでいたんですが」
レオンは、宿屋の二階に並ぶ明かりを見た。
「宿の主人が手違いで、別の客を入れてしまって。他の宿もどこもいっぱいで困っていたら、この子を見つけました」
「それは大変ね」
馬車の入口にもたれたヴィヴィが、にこやかに口を挟んだ。
「じゃあ、孤児院に泊めてあげればいいじゃない」
「そこまでしていただくわけには」
レオンはすぐに首を振った。
「子どもを助けるのは、当たり前のことです。お気になさらず」
「当たり前のことをしただけの人ほど、信頼できるのよ」
ヴィヴィは、さも当然のように言う。
「孤児院には空いている部屋があるんでしょう?」
「あるにはあるけど……」
「少し、この子と相談しますね」
ヴィヴィはレオンへ笑いかけたあと、ミレナの手首をつかんだ。
「え、ちょっと。ヴィヴィ?」
「いいから来なさい」
抵抗する間もなく、馬車の中へ引き戻される。扉が閉じた。
窓の向こうでは、レオンとニコが少し離れた場所に立っていた。
「私、あんたの小説は好きよ」
不意の言葉に、ミレナはつかまれた手首をさすりながらヴィヴィを見た。
「急にどうしたの?」
「だからずっと協力してきた。でも最近、ちょっとマンネリじゃない?」
ミレナは返事をせず、膝の上で指先を組んだ。
「……出版社の担当にも言われたわ」
「初恋もまだの女が、妄想で書く恋愛小説には限界があるってことよ」
「急にひどくない?」
「私はあんたの書く話が好きだからこそ、もっとすごいものが読めると思ってるの」
ヴィヴィの言葉は相変わらず遠慮がない。けれど、からかいだけで言っているわけではなかった。
「そんな女が現実に恋をしたら、どうなるのか。私は見てみたいのよ」
ヴィヴィは窓の外のレオンへ目を向けた。
「ここまで協力してきた親友のお願い、聞いてくれない?」
「……私に何をしろっていうの?」
「この人を今夜、孤児院に泊める。そのあと、一日デートする」
「はあ!?」
思わず、声が大きくなった。
「そのまま一晩寝てみちゃってもいいわね」
「もっと駄目でしょう!」
ミレナは自分のすすけた髪と、首元まで隠れた地味な服を指さした。
「確かに私は、あの娼館で一番人気だけどね?それは髪結い係や衣装係のみんなの協力もあってのことで。この状態で何も起きるわけないって」
「でも、あの腕を見た?」
「見たけど」
「ああいうの好きなんでしょう?」
「それとこれとは別!」
ヴィヴィはそこで、からかうような表情を消した。
「それに私は、あんたのことを本気で心配しているのよ」
ミレナは言葉を失った。
「二十を越えて、これからの人生をどうするか考えもせずに、娼婦を続けるなんて。正気の沙汰じゃないって」
「一応、私なりに考えてるわよ。本だって売れてるし……」
「そりゃそうだけど」
ヴィヴィの声が、わずかにやわらぐ。
「でも、あんたはいつも子どもたちのことばかりでしょう。自分が何を欲しいのか、何を幸せだと思うのか、ちゃんと考えたことがある?」
すぐには答えられなかった。
孤児院の食費。薬代。冬を越すための薪。破れた靴。子どもたちの明日の朝食。
(言われてみれば、確かにいつも自分以外の誰かに関することを考えている気がする)
「一泊泊めて、一日デートするだけ」
ヴィヴィは、わざと軽い調子へ戻す。
「減るもんじゃないし、別にいいでしょう」
「その言い方はどうかと思うわ……」
ミレナは両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
ヴィヴィが本気で心配していることはわかる。見知らぬ男と偶然出会い、そのまま一日を共に過ごす。そんな展開は、恋愛小説ならありえるかもしれない。けれど、それが自分の身に起こるとなれば話は別だ。
「売れっ子小説家様が、現実の男を観察する機会よ」
「おもしろがっているだけでしょう」
(ニコを助けてくれたお礼がしたいのは本当)
(レオンさんが気になってしまっているのも、悔しいけど本当)
「自分のことになると背中押されないと動けないタイプでしょ、あんた」
ヴィヴィがニヤニヤしながらこちらを見ている。
「ああ、もう」
ミレナは顔から手を離し、ヴィヴィを制するように片手を上げた。
「泊めて、デートだけね?」
「ええ」
「どう過ごしたかを明日あなたに話す。それでおしまい。いいなら、やるわよ」
「それで十分よ」
ヴィヴィは満足そうに笑った。
ミレナはふくれた顔のまま、馬車を降りる。レオンは、こちらへ背を向けずに待っていた。
すすでくすませた金髪。黒縁眼鏡。首元まで覆う簡素な服。この姿を見て、高級娼館で夜ごと貴族を迎える女だと思う者はいないだろう。王都で人気の恋愛小説家だと気づく者も、まずいない。
ミレナは町娘の姿のまま、レオンの前へ立った。
「レオンさん」
一歩近づくと、レオンはわずかに驚いたように身を引いた。
「この辺りは宿が少なくて、しょっちゅう満室になるんです」
ミレナは柔らかく笑った。
「ヴィヴィの言った通り、孤児院には空いている部屋があります。よろしければ、今夜は泊まっていってください」
胸元で両手を重ねる。
「困ったときは助け合い。それが、うちの信条なんです」
「いや、若い女性がいる家に泊まるわけには……」
「部屋は別ですから、大丈夫ですよ」
レオンはなおも返事をためらっていた。ミレナは、ニコの抱える薬袋へ目を向ける。
「それに」
もう一度、レオンを見上げた。
「この子を助けてくださったお礼を、何もしないままにしたくないんです」
レオンはしばらく、ミレナを見ていた。夜風が通りを抜ける。短い赤髪が揺れ、横顔を街灯の明かりが淡く照らした。
やがて、レオンは慎重にうなずく。
「……では、お言葉に甘えます」
声には、まだ遠慮が残っていた。
「ただ、朝になったらすぐに出ます。それ以上、ご迷惑はかけません」
「朝食くらいは食べていってくださいね」
「……ありがとうございます」
レオンは少しだけ目元をゆるめた。礼を言われることに、あまり慣れていない人の笑い方だった。
「ミレナ姉ちゃん、帰ろう」
ニコがミレナの袖を引いた。
「ええ」
ミレナはニコの手を取った。レオンも、その隣へ並ぶ。三人は馬車へ向かって歩き出した。
ニコは薬袋を抱えたまま、安心したようにミレナのそばへ寄り添う。レオンは向かいの席に座り、窓の外を見ていた。馬車の扉が閉まり、車輪が石畳を軋ませながら動き出す。
街灯が流れるたび、短い赤髪と灰青色の瞳が、闇の中に浮かんでは消えた。
ミレナは、気づかれない程度に彼を見る。
強そうで。物静かで。リネ人の子どもを助けることを、当たり前だと言った人。
さっきまで、自分の頭の中にしかいないと思っていた理想の人が、目の前に座っているのかもしれない。
(せっかくだし、この人のことをもう少し知ってみたい)
そう思った途端、ミレナは窓の外へ顔を向けた。
よくある恋愛小説なら、この後レオンに身分を明かされて、君が好きだと言われて……。
けれど現実では、そんなに都合よく話が進むことはない。




