王都の人気作家、実は娼婦です
純粋で優しいだけの少女が、王子様に愛される。
そんな物語が、いまルクシア王国で大流行している。
王都いちの大書店に足を踏み入れると、恋愛小説の棚が大きな存在感を放っていた。薔薇や蔓草で飾られた表紙には、金箔の王冠やら鍵やら小鳥やらがびっしり描き込まれている。淡い桃色、深紅、夜空みたいな青――どの本も「身分違いの恋」「誰にも言えない秘密の逢瀬」を全力で匂わせてくる。帯には「王子様に愛されて」「運命の花嫁」の文字が、もうこれ以上ないくらい詰め込まれていた。
店内をうろついているのは、令嬢に頼まれて本を買いに来た侍女たち。新刊コーナーで足を止め、贔屓の作家や今夜の茶会の話題になりそうな一冊について、楽しそうに喋っている。
「また新刊出てるじゃない」
「平民か下級貴族の娘が、身分の高い殿方に見初められる系でしょ? うちのお嬢様、これ大好きなのよ」
なかでも一際目を引く一冊があった。淡い藤色の革表紙、金の蔓草に小さな王冠、真ん中には白薔薇を抱いた鳩。繊細な装丁は、まだページを開いてもいない読者を軽々と物語の中へ引き込んでくる。
著者名は「フィオレア」。
書店員が空いた棚へ、同じ本をどんどん積んでいく。
「フィオレア先生の新刊、また入荷しました」
「夜会の場面が本格的だってお嬢様が言ってたわ。平民の暮らしの描写も妙にリアルなのよね」
「一体どんな人が書いてるのかしら」
誰も知らない。
王都で一番売れている恋愛作家が、夜になると全然別の顔で働いていることを。
*****
王都でも名の知れた高級娼館の支度部屋には、香油と白粉と生花のにおいがむんと漂っていた。壁際にはでかい鏡がずらりと並び、女たちが髪を結い、胸元を飾り、夜の客を迎える顔を仕上げている。窓の外では夕闇が降り始め、石畳には灯りが一つ、また一つとともっていく。
部屋の隅で、ひときわ華やかな女が机に向かっていた。
胸元には真珠、耳元には大粒の宝石。金髪はきっちり結い上げられ、唇には艶やかな紅。夜の支度はもう完璧に整っている。
なのに、彼女の手にあるのは扇でも香水瓶でもない。
原稿用紙の束と、インクだらけのペンだった。
「彼は……泣きじゃくる彼女の肩を、そっと抱き寄せ……頬を伝う涙を、優しくぬぐった」
書いたばかりの一文を読み返し、ミレナはペンを置いた。原稿の中では、若い伯爵が花売り娘を大事そうに抱きしめている。身分の差を越えて、愛だけを頼りに結ばれようとする二人。王都の令嬢が好きそうな、甘さ全開のシーンだ。
うんうんと頷きながら読み返し、それから小さく笑ってしまう。
現実の伯爵なら「平民に触れたら服が汚れる」くらい言いそうだし、抱きしめた翌朝には相手の名前を忘れていそうだ。そう考えても、機嫌は少しも悪くならない。むしろ紙の上でだけ理想の男を好き放題動かせるのが、ちょっと楽しい。
「うん、小説ならこれで問題ないわ」
「筆が乗ってるじゃない、人気作家様」
背後から飛んできた声に、ミレナは肩越しに振り返った。
鮮やかな赤髪を肩に流し、鋭い吊り目を細めているのはヴィヴィだ。整った顔立ちは初対面の人間を近づけさせない迫力があるけれど、ミレナへ向ける声には長年の付き合いならではの気安さがある。
「小説ばっかり書いてないで、ダンスの練習でもしたら?」
ヴィヴィは鏡の前で手袋の皺を伸ばしながら言った。
「私たち、いつかは本当に貴族様に囲われるのがゴールでしょ?」
「ダンスも最低限は知ってるわよ。ただ、それ以上をやる気にならないの」
「なんで」
「お金持ちなら誰でもいいわけじゃないから」
原稿の束の下から、ミレナは一枚の紙を引き抜いた。細かい数字がぎっちり書き込まれている。孤児院の食費。薬代。薪代。屋根の修繕費。冬用の毛布。子どもたちの服を繕う布代――。
その数字の並びに指先を置いて、ミレナは言う。
「子どもたちの世話を続けてもいいって言う変わり者がいたら、考えるわ」
一度言葉を切って、ちょっとおどけて続けた。
「そんな人がいたなら、この国一番を狙うくらい、ダンスの練習だってしてあげる」
ヴィヴィは大げさに額を押さえた。
「はぁ? あんたもう二十歳超えてるのよ。女として高く売れる時期って、そんなに長くないの」
計算書を爪先で軽く弾く。
「ガキの世話も結構だけど、自分の幸せくらい考えなさいよ」
「ヴィヴィ先輩、その言い方は……」
遠慮がちに口を挟んだのはサラだ。鏡の前で髪を整えていた、淡い金髪の小動物っぽい子。まだ幼さの残る顔で、鏡越しに二人をうかがっている。
「ミレナ先輩、この娼館で一番人気ですよ。今だって引く手あまたじゃないですか」
「初恋もまだの女に、みんな負けてるって笑えるわね」
ヴィヴィの遠慮ない一言にも、ミレナは動じなかった。
「サラ、大丈夫。ヴィヴィと私は六年前に一緒にこの娼館に入ったの。毎日顔を合わせてるから、もう家族みたいなものよ」
椅子を離れ、ヴィヴィの肩に軽く寄りかかる。
「誰が家族よ」
「素直じゃないだけでしょ。本当は私と一緒に貴族の妾になって、これからもずっと友達でいたいんでしょ?」
ヴィヴィの手が止まった。しばらくして、勢いよく顔をそらす。髪の隙間からのぞく耳だけが、ほんのり赤い。
「……悪かったわね、素直じゃなくて」
サラが声を殺して笑うのを我慢していた。
そこで、通路の奥から初老の女主人の声が響く。
「さあさあ皆さん、お仕事の時間ですよ。各自お部屋へ」
「はーい」
女たちは声を揃え、鏡の前で髪と口紅と衣装を最後にチェックする。甘い香りと衣擦れの音を残して、彼女たちは豪華な廊下へ散っていった。
*****
娼館の客室は、そこそこの貴族の寝室と間違えそうなくらい豪華だった。天蓋付きの寝台に絹のカーテン、壁には金の燭台と風景画。絨毯が足音を吸い込み、厚い扉は廊下の音をほとんど通さない。
十ある客室のうち、一番奥の広い部屋の前でミレナは足を止めた。扉にはひときわ大きな金の装飾。ここが、娼館ナンバーワンの彼女にあてがわれた部屋だ。
机には今夜の客のメモが置かれている。
「エバンス伯爵家・次男」「四十歳過ぎ」「一年ぶりの王都来訪、ミレナを指名」
さっと目を通し、紙を元の位置へ戻す。
「さあ、今日も完璧にお仕事しますか!」
鏡の中の自分に言い聞かせるように、にこりと笑う。舞台の幕が上がる直前の役者みたいに、ミレナは部屋の扉を開けた。
*****
ゴーン。
夜半を告げる鐘が、繁華街の向こうから鈍く響いた。
「やはり君は、ほかの女とは違うな」
帰り支度を整えた男が、名残を惜しむようにミレナの手を取る。エバンス伯爵家の次男は、酒と香油の匂いをまとわせながら満足げに笑っていた。
ミレナは長い睫毛を伏せて、しとやかに微笑む。
「まあ。そんなことを言われたら、私、今夜は眠れなくなってしまいます」
指先へそっと別れのキスを落とすと、男は上機嫌のまま何度も振り返りながら廊下の先へ消えていった。
扉の前で、男の姿が見えなくなるまで優雅に手を振り続ける。
扉が閉まった。
そこでやっと、頬に貼りついていた笑みが落ちる。
「はぁー……」
背筋を伸ばして大きく身体をほぐし、そのまま寝台へダイブ。柔らかな寝具に沈み込みながら、天蓋を見上げた。
「今日の稼ぎはいくらかしら」
誰もが望んでこの仕事を選ぶわけじゃない。それでも金のためなら引き受ける。ここは、そういう女たちが集まる場所だ。
*****
客を見送った女たちが戻る支度部屋では、夜の華やかさが少しずつ剥がされていく。化粧を落とし、髪をほどき、宝石を外す。派手なドレスは丁寧に畳まれ、代わりに簡素な外出着に着替える。
ミレナは頬の白粉を拭い、鮮やかな金髪へすすをなじませた。月明かりの下でも目を引く髪が、みるみる冴えない色に変わっていく。黒縁眼鏡をかけ、首元まで隠れる地味な服に袖を通す。
鏡に映るのは、高級娼館のナンバーワンじゃない。どこにでもいる町娘だ。
「ヴィヴィ、お待たせ。もう帰れるわよ」
「毎日、変身が大変ね」
化粧を落としたヴィヴィが、後ろから呆れた声をかける。ヴィヴィは赤髪をそのまま出して、質のいい外出着を着ていた。ルクス人である彼女は、自分の民族を隠す必要がない。
「慣れたらどうってことないわ」
ミレナは鏡に顔を近づけ、すすの残った指先で前髪をさらに乱した。
「リネ人には何をしてもいい、って考えの人もいるからね」
ルクシア王国には元々、赤髪が特徴のルクス人が暮らしていた。だが王国は周辺諸国を次々に飲み込み、征服した土地から多くの異民族を労働力として王都へ流し込んできた。なかでも五年前に併合されたリネア王国の民、リネ人は王都にもたくさん暮らしている。金髪という目立つ特徴を持つせいで、リネ人はルクス人と一目で区別されてしまう。そのぶん偏見や差別の標的になりやすく、時には露骨な暴力を向けられることもある。
「さらわれて奴隷に売られても、誰も助けてくれないから。自衛は大事、ね」
ミレナは軽い調子で言った。でもそれが、ヴィヴィに余計な気を遣わせないための調子であることは自分でもわかっている。
ヴィヴィは鏡の中の彼女をしばらく見ていたが、次の瞬間、肩をすくめて笑った。
「まあ、少なくとも私はあんたを応援してるわよ」
「わかってる。ありがとう」
*****
馬車は夜の王都を走っていた。窓の外には、雨上がりみたいに鈍く光る石畳。閉まりかけの酒場から酔客の笑い声が漏れ、通りの角には見回りの兵が槍を手に立っている。
ミレナは前髪を深く下ろし、窓から離れた席へ座っていた。対照的に、ヴィヴィは堂々と窓際に腰を下ろしている。
「今日の客どうだった?」
足を組んだヴィヴィが、うんざりした声を出す。
「自信満々なのにへたくそで最悪だったんだけど!」
「普通、かしら」
膝の上の鞄を抱えたまま、ミレナは答える。
「普通の浮気者貴族よ」
「確かに。もう貴族って浮気してるのが普通よね」
「終わったあと、自分がどれだけ子どもに良い環境を与えてるか自慢してたわ」
唇を引き結んで、でもこらえきれず肩が揺れる。
「危うく笑うところだったわ」
「なんで」
「父親が外で遊ばないのが、一番いい環境じゃない?」
ヴィヴィが吹き出した。
「本当にあんたの毒舌好きよ。娼婦辞める最後の日、客全員にそれ言って逃げたいわね」
「最後まできっちりやりましょうよ。問題起こしてその日の稼ぎ飛んだら働き損だもの」
「お金のことになると本当にきっちりしてるわね」
ヴィヴィは、ミレナの地味な服と使い込んだ鞄を見た。王都一の人気娼婦が持つものには、どう見えても見えない。
「そんなに稼いでどうするの?孤児院の子に腹いっぱい食べさせてもまだ余るでしょ」
「あんたは私みたいに、実家の借金で売られたわけでもないのに」
「えーっと……まあ、いろいろあるのよ」
(父から託された『使命』があるなんて、ヴィヴィにはさすがに言えないわ)
(っていうか、父からも6年間音沙汰なしだし。その使命が今どうなっているのかすら、正直よくわかっていないのよね)
そのまま、話をよそへ逃がす。
「客はだいたいクズだけど、私たちが知ってる貴族って娼館に来る人だけでしょ?」
「まあそうね。貴族令嬢だった頃は、まだ世間知らずだったから」
「貴族の中にも、一人の女性を生涯愛し抜く人がいるかもしれないじゃない」
ヴィヴィがいかにも納得しかねる顔をする。ミレナは気にせず指を立てた。
「顔はあまりこだわらないけど、体格がいい人がいいな」
両手を広げて肩幅の広さを示す。
「六年前、リネア王国が滅びて逃げてきたとき大変だったのよ。だから強くて守ってくれそうな人に憧れるっていうか……」
二本目の指。
「それと一途なのはもちろん必須で――」
「あんたの理想の男、条件多すぎない?」
ヴィヴィの呆れ声に、指を下ろす。
「それから、ルクス人でもリネ人でも人は等しく幸せになっていいって、本気で言える人」
馬車の中から、さっきまでの軽口が消えた。車輪の軋みだけが石畳の上で規則正しく続く。
窓に映った自分のくすんだ金髪を見て、ミレナは呟いた。
「そういう人がいたら、最高よね」
「小説にそんな男出したら発禁になるわよ」
「だから私の頭の中だけにいるのよ」
鞄から紙とペンを取り出す。
「それより、ルクシア王国の貴族事情教えてよ。後継者候補の男の子って、何歳からどんな教育を受け始めるの?」
ヴィヴィは呆れたように息をついた。それでも口元には、かすかな笑みが残っている。
「高位貴族の男の子は学校じゃなくて家庭教師がつくのよ。乳母から言葉や礼儀を教わることもあるけど、本格的な教育は六歳くらいから――」
「危ない!」
御者の叫び声が、ヴィヴィの言葉を断ち切った。




