エピローグ「春の息吹と寄り添う温もり」
見渡す限りの広大な森は、鮮やかな緑の絨毯で覆い尽くされている。
高い木々の枝葉の間からこぼれ落ちる太陽の光が、地面に複雑な影の模様を描き出し、風が吹くたびにその模様が生き物のように形を変える。
空気には土の豊かな匂いと、新緑の青々とした香りが満ちており、深く息を吸い込むだけで肺の奥が清浄な水で洗われるような心地よさを覚える。
かつて黒い霧に覆われ、死の気配が漂っていた北の森の面影は、もはやどこにも見当たらない。
森の開けた場所にある小高い丘の上で、ルミナは大きな麻の布を広げて座っていた。
彼女の膝の上では、聖獣のブランが巨大な頭を預け、気持ちよさそうに目を閉じて低い寝息を立てている。
ブランの純白の毛並みは太陽の光を反射して真珠のように輝き、ルミナがその柔らかな毛の間に指を滑らせるたび、彼の耳が微かに動く。
ルミナの傍らには、柳の枝で編まれた籠が置かれ、なかには朝早くに焼き上げた果実のタルトと、保温のための布で包まれた銀のポットが収められている。
「ブラン、あまり重く体重をかけすぎると、彼女の足が痺れてしまうぞ」
丘の下から歩み寄ってきたヴィンセントが、呆れたような、それでいて温かな声で注意する。
彼は上着を脱ぎ、白いシャツの袖を腕まくりした軽装だった。
剣の稽古を終えたばかりなのか、その額には薄っすらと汗が浮かび、太陽の光を受けて光っている。
ブランは片目だけを開けてヴィンセントを見ると、わざとらしく大きく欠伸をして、さらにルミナの膝に体重をかけるように身をよじった。
「ふふ、大丈夫ですよ。ブランは見た目ほど重くはありませんから」
ルミナが笑い声を上げると、ヴィンセントは小さくため息をつきながら彼女の隣に腰を下ろす。
彼はルミナの肩に自分の腕を回し、彼女の体を自分のほうへと引き寄せる。
ブランが不満そうに喉の奥で唸るが、ヴィンセントは意に介さず、ルミナの頬に短い口づけを落とした。
肌と肌が触れ合う瞬間、微かな汗の匂いと、彼特有の清潔な森の香りがルミナの鼻腔をくすぐる。
頬に伝わる彼の唇の熱に、ルミナの胸の奥が甘く締め付けられる。
「少し、お茶にしましょうか」
ルミナは照れ隠しのように言い、籠のなかから銀のポットと二つの磁器のカップを取り出す。
ポットから注がれる紅茶は、領地で新しく栽培され始めた薬草をブレンドしたもので、爽やかなミントと花の甘い香りが周囲に広がる。
ヴィンセントはカップを受け取ると、ゆっくりと一口飲み、満足げに目を細める。
「君が淹れる茶は、どんな名店のものよりもうまい」
「そんな大げさな……。ただの薬草茶ですよ」
「私にとっては、これが世界で一番の贅沢だ」
真っ直ぐに向けられる彼の青い瞳には、一切の翳りがない。
王都で誰にも見向きもされず、冷たい床を這いつくばっていた日々が、遠い幻のように感じられる。
自分が作ったもので誰かが笑顔になり、自分の存在を心から求めてくれる人がいる。
その事実が、ルミナの心に満ち足りた静寂をもたらしている。
遠くから、領民の子供たちが森の入り口で遊ぶ甲高い声が風に乗って聞こえてくる。
鳥たちが木々の間を飛び交い、羽ばたく音が静かな森に小さなリズムを刻んでいる。
ルミナはヴィンセントの広い肩にそっと頭を預け、目の前に広がる美しい景色を見渡す。
彼女の指先がヴィンセントの手と絡み合い、互いの体温が一つに溶け合っていく。
冬の厳しさを乗り越え、呪いを打ち払ったこの北の大地で、二人の穏やかで愛情に満ちた日々は、これからも終わることなく続いていく。
吹き抜ける春の風が、二人の髪を優しく揺らしていた。




