8 黒城
黒城は一人佇んでいた。
本多本家の庭、―――――。
或いは、いまこのときに寄宿しているといえる四阿の庭。その一画は、静謐な空気に常にあるともいえるが。
それは、表向きだけのことだ、と。
静かに面を伏せ、唯一人佇む黒城を、この四阿の庭の持つ歴史というものが。
「――――…」
静かに、そして面を向けるのは、唯一人知っている気配にだ。
本多由樹乃――今代の巫女である彼女を篠原家が護る寺に置き、その行動を託して、いま黒城がこの庭にあるのは、そのかれを唯ひとり待つ為だ。
「樋口」
その名は、いま仮初めに呼ばれているものでしかないが。
しずかに樹間にひかえる白い面とその姿は、常に黒城の傍らにあったものだ。
黒城が、…―――そう、この生を始めることとなった当初から。
吸血鬼などという、現代にお伽噺と伝わる呼び名など、ありもしなかった当初から。
そして、―――…。
例えば、「黒城」という名を、かれが名乗ることを選ぶこととなった近年に至るまで。
約二千年程前に。
あの妃巫女の、――ひめみこの座を支え奉り、傍らに侍してあったその際の名乗りし名を、かたちとおとのままに当てはめた文字だ。
「黒城」という名は。
黒尉、と。――…。
いまも本多家に伝わる面を手にした日をおもいだす。
深い皺の刻まれた面は、翁のものだ。
それを、尉といい、…――或いは、翁面とも呼ぶが。
黒い尉というのがそのものに、深く闇に似た黒灰に染めあげられたかのような木肌に彫られた、見事な尉。翁の面を手にして、かつての黒城は苦笑していたものだ。
――この、翁の持つ皺を、古く朽ち果てることを、己は持ち得ていない、と。
寂しく暗く、或いはそれは諦念に似た。
微苦笑を零して、右手に受けた面を持ち、苦笑を次に鮮やかに黒城はその表をかれに寄越した相手を見返していたものだ。
あの刻、―――…。
歴史という闇の中に沈む、ゆるやかにすべてが終わろうとしていたあの刻にさえ。
受け継いだ制度を壊し、闇に落とし込むことで、闇からすくった。
その刻を思い返しながら。
「―――…樋口、準備は?」
しずかに「黒城」が問う。それは、唯単純にそれだけのことだ。
変える意志がない。それだけのことでもある。
それに、しずかに面を伏せていた樋口が、膝を就き、伏せたままの視線で応えた。
「終わっております」
「…そうか。御苦労」
満足と、単純に充足した想い。
あえかな微笑みとともに、黒城がいう。
それに、驚いたように反射的に樋口が視線をあげ、…――面をふせた。
その反応にも何もいわず、唯、しずかに黒城が微笑む。
かつて、黒尉――と、名乗り。
その音をそのままに、いまは「黒城」と字をひとつばかり替え、そして読みをかえた。
黒い翁、―――から、黒い城へと。
意味はない。
黒城、といまは名乗るだけのことだが。
「案外、――…」
「 …」
無言で、樋口が伺うように黒城をみる。それに気づいて、苦笑して黒城は言葉を継いでいた。
「いや、…案外、名というものは名乗ることで影響するものだと思ってな」
深く微笑むと、何処か優しくさえみえる感慨を隠さずにいう黒城に、樋口が驚いた感情を隠すことができずにみあげて見つめていた。
それは、そう、…。
二千年ほど。
それだけの歳月を傍に仕えてきた樋口にさえ。
穏やかに、黒城が来し方を振り返るようにして微笑む。
それは、傍に仕え続けた樋口にさえ、見たことのない微笑みであったのだ。
あらゆるものを、深く穏やかに包むようなと。
その穏やかさは、何処からくるものなのか。
樋口の抱く疑念も、その裡に潜む危機感も何もかも遠くおき。
その抱く危機を隠しもしない視線すら、穏やかに微笑みと受け止めて。
黒城は、立っていた。
かつて、かれに。
「黒尉」の器を、…―――面をあたえた、その家の。
同じ庭で。
名を変え、いまは本多と呼ばれる連綿と続いてきた家。
その広い敷地に、当時と同じまま建つ四阿と、その庭に。
歴史という闇。
その狭間に、黒城は立つ。―――――




