22.イカロスの翼
[別荘までの一本道にいます]
わたしは静かに別荘の扉を閉める。
部屋の方からは仕事の電話を続ける至留の声が聞こえた。
[わかった。すぐに向かうね]
至留にも一言メッセージを送っておく。
[少し出かけてきます。夕飯までには帰ります]
見てくれるかどうかは微妙な所だ。
わたしはスマホをバッグにしまい屋敷から出る。
照りつける太陽が眩しい実に夏っぽい昼下がりだった。道路わきの地面から湿気を含んだぬるい風が吹く。体から汗がにじみ、塗った日焼け止めが溶けて香った。
──今日でわたしの夏が終わるんだ。
帰ってもまだ八月は一週間ほど続くけど、寒いくらい涼しい部屋の窓越しにわたしは蝉の声を聴くだろう。
目を閉じて聞き納めかもしれないからと蝉の合唱に耳を傾けながら歩く。木々のアーチに着いた時だった。
見慣れない白い軽自動車が止まっている。至留やご両親の車とも違う、知らない車に足が止まった。
その車の扉が開いて、
「お待たせしました」
車から光くんが姿を見せた。淡く微笑む彼の表情は木漏れ日のように穏やかで緩い下り坂に身を任せてわたしは光くんの元へ吸い寄せられて行った。
「ううん。迎えにきてくれてありがと」
「いえ、そのくらいは……今日の服、可愛いらしいですね」
わたしは「これ、背中が開いてて結構恥ずかしいけど」と言いながら後ろの髪を掬い上げて背中側を見せる。髪の下で蒸れていた肌に外気が当たりすーっとした。
「でも、選んで良かった」
振り返ると光くんは空を仰いでいた。
「どっどうしたの?」
「いえ、何も。肌綺麗ですね」
至って真面目な表情で背中を褒められた。
改めて声に出して言われると照れてしまう。
「光くんの服は……」
見たことのない青色の半袖Tシャツだった。変わっている。
光くんは「文化祭で着るTシャツなんです」と服の裾を摘んで背中側にあった三十二の数字を見せてくれた。
「えっかわいいー。なんの数字なのこれ?」
「クラスです。三年二組なので」
「じゃあクラスの人はみんな同じTシャツなんだ」
光くんは「そうですね」と言いながら助手席の扉を開けてくれる。
車の中はまたわたしの知らない世界が広がっていた。嗅ぎ慣れていない空気に包まれ慣れない座席に体を預ける。失礼だと分かっていつつも、つい車の中を見渡してしまう。
「いきましょうか」
うん、と答えシートベルトを着けた。
わたしがシートベルトをしたのを確認してから光くんは車を緩やかに発進させる。急ブレーキ、急発進な運転をする人もいるけれど、わたしみたいな小心者にはこれくらいのんびりした運転がちょうど心地いい。
「そうだ、Tシャツの前の方にも何か描こうよ。光の文字でも良いし星マークとかさ」
「えーじゃあ、栄香さんのサインを」
サインなんて持ってないよ、とわたしは笑う。
でも、せっかくだし到着した後で何かわたしも描かせてもらおうかなと少し考えてみたりして、冗談を言う光くんと同じくらいわたしも浮かれていた。
「そういえば、なんで文化祭の服を着て来たの?」
「汚れても良い服だからです。いつもは学校で着替えるんですけど車なのでそのまま」
へー、とわたしは相槌を打つ。
ふと真剣な表情でハンドルを握る光くんを見て運転の邪魔をしているのでは、と不安が頭によぎった。
「あの、喋り掛けても大丈夫?」
軽く光くんはこちらに視線を向けて「もちろん」と小さく笑って答えた。
それからしばらく車に揺られながら光くんから文化祭のことを聞いたり美術部はどんな活動をしているのかを聞いて過ごした。
「じゃあ全然部員いないんだ」
「そうですよ」と光くんが笑って答え、ふいに真面目な表情に変わる。
「ほんと今更なんですけど、大丈夫でした? 車で」
んー、と考えているようなフリをしながらわたしは隣を見る。
光くんは背筋を伸ばし真っ直ぐ前を向いて運転を続けていた。
わたしは今、何かに縛られる訳でもなく、わたしの意志で助手席にいる。それが光くんの問いに対する答えの全てだ。
「今更じゃない?」
横目で光くんがわたしを見る。
目が合った事に驚いたように一度瞬きをして光くんはすぐに目を逸らし「そうですね」と小さな声で言った。
「ここです」
車を駐車場に停めた光くんが先に降りる。
わたしも車から降りて校舎を見上げた。山の斜面にポツンとある少し古びた校舎の屋根には森から伸びた木々が触れている。夏休み中だからか高校にしては活気が無く静かだった。
「誰もいないの?」
「ほとんどの生徒は来て無いですね。部活組も街の方で他の所借りたりって感じです」
「そうなんだ」
見たところ確かに校舎は小さく、よくあるテニスコートなども見当たらない。
そういう学校もあるのだろう。
「いきましょうか」
校舎を見渡していると光くんが少し先にいた。
振り返って手を伸ばしわたしを待ってくれている。
「うん」
手に触れ絡めた指の隙間が埋まる。
光くんの手は少し大きいから手の甲に触れる指に包まれているような気持ちになる。
親指の付け根に指を添わせると絶妙に柔らかかった。指で軽く押す。張った肌と筋肉の弾力が心地良く人の暖かさを感じた。
扉を抜けると下駄箱だった。
室内なのに照明がついてなかった。ガラスの扉から差し込んだ光だけが下駄箱をぼんやりと照らす薄暗い空間にわたしたちの靴音だけが鮮明に響いていた。
「栄香さんはそこの来賓用のスリッパを使ってください」
明るいところに居たからか目が慣れるまで少し時間がかかった。
そうして何度か瞬きをしているうちに光くんは自分の上履きを取りに離れた。さっきまで繋いでいた手を見下ろし一人なのをいいことに「寒い」とはっきり声に出す。腕をさすった。至留のことを忘れたわけじゃない。不安は常にわたしのそばにいて必死にそこから目を逸らしている。
来賓用の下駄箱に脱いだ靴を入れようとしていた時だった。
こちらに駆けてくる足音が聞こえ、下駄箱の陰から光くんが顔を出す。楽しくて仕方がなさそうな表情をしている。
「下駄箱の下、すのこなんだね」
なんでもない会話をしながらわたしたちは廊下を歩く。手は自然と結ばれる。
「はい。珍しいですか?」
「わたしの高校はほとんどバリアフリーだったなーって」
「こっちは全然まだまだ」
「怪我した人とかいたらどうするの?」
階段を登りながらわたしは聞く。
「背負ったり肩を貸したりしてますね」
「えーいいなー」
光くんは「いいですかね?」と小さく笑っていた。
階段を登ってすぐのところに美術室と書かれた札が見えた。
「ここで描いてます」
「失礼します」と光くんが扉を開ける。
わたしは少し後ろで待った。
「誰もいませんでした」
扉を開け放って光くんが中へ入って行く。
鍵は開いているのに中に誰もいないのは大丈夫なのだろうかと少し心配になった。
久々に入った美術室は絵の具の匂いがした。
椅子や机の無い広い教室にイーゼルとそこに掛けられたキャンバスが何個もあった。それぞれ色々な絵が描かれて、描きかけのものもあればほぼ完成しているような作品もある。
「光くんのは?」
「下手で恥ずかしいんですけど、これです」
光くんは一つのキャンバスの横に立った。
背中から白い石みたいな翼を生やし空を見上げた男性の後ろ姿の絵だった。
「これは何がモチーフなの?」
「イーカロスっていう神話です」
イーカロスという言葉は耳にした事があって絵から「イカロスの翼?」と聞いてみる。
光くんは頷いた。
「大学の事とかで色々と悩んでた時に題材を決めたので」
「どんな話だっけ」
少なくともあまり気持ちの良い話では無かった筈だ。
「蝋で作られた羽で太陽神に届くと信じて向かった結果、熱で羽が溶けて墜落した人の話です」
大学受験前に描く絵としてはかなり縁起の悪い絵で、だからこそ「良いじゃん」と思いそのまま声に出した。
「不安な気持ちが絵に載ってる」
絵は全体的に濁った色をしていて太陽があって晴れているのに薄暗い。
題材を決めた時の光くんの心境がよく絵に出ていると思う。その不安も全て愛おしくてこの絵を出来るなら持ち帰りたかった。流石にそれは良く無いし文化祭で光くんが恥をかくことになるので写真を撮るだけにしておく。
「先生にも同じことを言われました。題名も受験前の、なんとかにしろって」
写真を撮るわたしの背後で光くんが言う。
笑ってはいけないけど思わず笑ってしまった。
それから光くんに美術部員の子達が描いた作品を一通り紹介してもらった。
光くんが最後に紹介してくれたは鮮やかな一輪の花の絵だった。キャンバスを全て使って色を張り巡らせたような力強い作品に目が止まる。ルドンの描いた花を一輪に纏めて上から見下ろしたような絵だと思った。
「この絵上手いねー。女の子?」
「あっはい女子です。多分美術部で一番上手いのがこの絵ですね」
「へー、話したりするの?」
光くんが頬の内側を舌で押しながら首を傾げた。
瞬きをしてから「まぁ普通に」と返ってくる。本当に何も無さそうだし、これ以上聞くのも迷惑そうだ。
「そっか」
「……俺が夏休みに連絡を取って会ったりしたのは栄香さんだけですよ」
ちょっと拗ねたような言い方が可愛いらしく「ありがとう」と言って光くんを軽く抱きしめる。光くんもわたしの腰の辺りに手を添えて抱き返してくれた。空気に混じった光くんの匂いが肺と心まで満たしていく。心臓からトクトクと幸せそうな音が聞こえた。
「まだ時間大丈夫ですよね?」
「うん」
「近くにある商店街に行きませんか?」
「商店街? いいよ」
ゼロ距離で触れ合える二人が行くにしては不思議なチョイスだなと思う。でも、どこでも良かった。
美術室から出て再び廊下を歩いていた時だ。
「光……えっ!?」
制服姿の男子生徒が階段の方からやってきて光くんの方を見てからわたしを見て固まる。
口をぽかんと開けたままなのが面白かった。
「かっかの、彼女さん?」
わたしたちを交互に見ながら彼は言った。
そう見えてしまうだろうな、とわたしは苦笑いを浮かべる。
光くんはどう答えるのだろうと隣を見ると繋いだ手をもち上げて、
「イェーイ」
冗談っぽく言って彼に見せつけた。
はっと息が詰まり、顔や背中が熱くなる。勘違いされるのに。それでも良いらしい。夏休み明けに色々と詮索されるだろうに光くんは自慢気に笑っている。
脈打つ心臓の鼓動が早い。手に汗がにじんだ。
光くんが慣れた調子であしらえる事が意外だった。
友達の前だからと調子に乗って……
「じゃあな」
光くんが軽く言って手を振った。
「おう……」
心ここにあらずといった感じで光くんのお友達は小さく頷いている。
本当に信じてしまったようだ。
「良いの? 弁解しとかなくて」
階段を降りながら小声で光くんに耳打ちしてみた。
「そう思われたかったんで」
「……ふーん」
いじらしい答えに、ついニヤけてしまう。
全然女子慣れしてなさそうなタイプなのに上手いことを言えてしまうのは何かの才能なのだろうか。
──まったく、光くんは。
借りていたスリッパを返して、わたしは光くんと一緒に停めた車の方へ向かう。
あれだけ高かった太陽が山のてっぺんにかかっていた。
「次は、商店街だっけ?」




