20.不安定
「はい。水やりを少しだけ」
わたしは平然と嘘を吐く。
一時間前に撒いた水が温められて芝生が蒸れていた。
別に嘘じゃないから、と自分に言い聞かせる。そう。嘘じゃない。ちゃんと水撒きはした。
「暑いのに、大変……」
至留のお母さんは眉をひそめて頬に手を当てた。
「あと紅ちゃん。昼間でも一人で女の子が森を歩くのは危ないから気をつけなさいね」
「色々と物珍しいかもしれないけど」と言い残して去っていくお母さんの背中を見つめた。
別荘の扉が閉まる。外に出ていた所を見られていたらしい。
額に汗が滲む。ハンカチで拭うとぬるついている気がして気持ちが悪かった。張り付いた服や汗ばんだ肌、その下にある内臓も同じように気持ち悪い。
水を飲んで、汗を流して、それから夕飯の準備をしないと。考えた全てが億劫だった。
それでも意外とやり始めると順調に進む。気づけば夕飯を作り終えていた。
今日は早めに寝ようと考えながらテーブルに料理を運び、至留のお父さんがやってきて席に着き全員が揃った。
「お二人は今日で最後ですか」
わたしの両親は「ええ。大変お世話になりました」と揃って頭を下げていた。
「いえいえ。こんなに大勢で食事を取れるのも久々ですから楽しかったです」
「また是非、いらして下さい」
鈴風家の両親が社交辞令を返す。
一緒にわたしも帰りたい。なんて出来るわけない事を思いながら自分で作った唐揚げを取る。
口に入れると衣が砕け、その下の肉を噛んだ時、ゴムを噛んだのかと思った。
味がしない。
食感は確かに鶏のもも肉で噛むたびに衣と肉から滑らかな油が溢れ出しているのに、入れたはずの醤油と料理酒と生姜の味がしない。恐る恐るもう一度噛んで、噛めば噛むほどに不安は増した。
わたしは箸を置いて水と共に流し込む。口の中がぬるつき油っぽい。
気のせい。大丈夫。
ちゃんとかき氷の味はしたもの。
胃が異物だと思ったのか飲み込むのを拒んだ。
手を握りしめ胃の奥に落ちていくまで、ただ堪える。
「帰ったら役所に婚約届けを出すよ」
あまりに突然言うので危うく「はぁ?」と言いそうになり隣の至留を見た。
緊張した顔持ちで背筋を伸ばし両手を太ももの付け根に置いている。彼の目には正面の父親しか見えていないようだった。
誰もが絶句して、先程まで和気藹々としていた空気が凍りついていた。
「至留、食事の途中に言うことじゃないだろ。ちゃんと場を整えて言いなさい」
「でも、もう紅のご両親は帰るし忙しいから」
そう言うことじゃない、とでも言いたげに至留のお父さんは険しい表情をして黙る。
「そー! 良かったわねー。良かったじゃない!」
至留のお母さんが高い声を作って言った。
目元が少し濡れて涙ぐんでいる。口元を固く結び、目を細くして笑っていた。
「そう、ですか。これからも紅をよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
わたしの両親が言う。二人の声は嬉しそうに震えていた。
「紅ちゃん。これからもよろしくねー」
至留のお母さんから手を伸ばされ握手を交わす。
握る手は力強い。
「はい」
わたしは口角を無理やり引き上げて笑う。微笑んだ両親と目を赤くしている至留のお母さんを見て、ここからわたしが逃げられるはずがないのだと悟った。
片付けを終え寝室に戻る。
あれからずっと体調が悪い。
横になると寝てしまう気がしたのでローテーブルに寝そべった。早くお風呂が空いてほしいけど、当分わたしの番は回ってこないだろう。
目を閉じてウトウトしていた頃だった。扉を開く音がした。体を起こし振り返る。扉の所で至留が腕を組んで立っていた。
「なあ、なんで今日不機嫌なの?」
「……ちょっと疲れてるみたい」
上手く彼の目を見ることが出来なかった。
今は話したく無い。会話と呼ぶにはあまりにも一方的なそれを流す余裕がわたしの中に無い。
「せっかくの婚約の報告なのに、みんな不安がってた」
──それ、わたしのせいなの?
あんなタイミングで言ったら誰だってそうなるよ。
違う。だめだと言葉を腹の底へ押し込む。
ごめんなさい。色々と思うところがあって。
直接すぎる。きっと至留は怒るだろう。
「ねぇ、なんで? 何か俺の悪いところがあったらさ、はっきり言ってほしいんだけど」
発言がまとまる前に答えを急かされ質問が変わる。その度にまた考える。
──何か俺の悪いところがあったらさ。
至留に色々言いたい事はある。でも、それを伝えてどうなるの?
わたしは至留とこのまま過ごしていくしかないのに。
「今日も外に出たっきり中々帰ってこないし」
どうやら至留にも気づかれていたようだ。流石に一時間は長すぎたのか。
恋は人を盲目にすると言うけれど、わたしも随分と間抜けらしい。
わたしは小さく息を吐き出す。
「ちゃんと、するから」
至留の目を見て言う。
それなりに覚悟を決めたはずが発した声は震えてしまっていた。涙が出そうになり鼻の辺りに力を込めて止まれ止まれと強く願う。醜い泣き顔を至留にだけは見られたくない。
「ちゃんとってなに」
至留が吐き捨てるように言った。
「帰ったらちゃんと至留のお嫁さんをするから」
だから、この一夏の間だけは見逃して欲しい──とは、言えなかった。聞き入られるわけがない。
それはこれまでのことで嫌と言うほど分かっていた。どうしてこんな事になってしまったのだろう。
思わず至留の前なのにはっきりとため息が出る。喉が震えていた。ほぼ同時に涙が頬を滑って落ちていった。
泣かされた事が悔しく泣くような弱い自分にイラつき、歯で下唇を強く噛んだ。
悔しさと怒りは熱を出して顔へ集まり茹だるほどの暑さを生む。見開いた目が茹った鍋の蓋みたく僅かに揺れる。視界は濁りぐちゃぐちゃだった。
「紅ーお風呂に次入っちゃってー」
高い母の声に体が固まった。体から少しだけ熱が抜ける。
鼻をすすってから「はーい」と返事をした。
指の先で目元に触れて涙の粒を拭う。鼻から息を吐くと肺が湿っぽかった。
部屋を出る時に見えた至留は長い前髪を垂らし膝を抱え項垂れていた。
お風呂から上がったわたしは寝巻きを着て寝室に戻った。
幸い部屋に戻った時には至留はいなくなっていて枕だけ取ってわたしは部屋を出た。
向かったのは両親のいる部屋だった。
「どうした?」
扉を開くと椅子に座っていた父が顔を上げて言った。
母は顔にパックを貼ったまま布団に座ってわたしの方を見ている。
「今日、こっちで寝ていいかな」




