10、告別
「どうしたら、お母さんを生き返らせて貰えるくらいの……悪魔と契約ができますか?」
お母さんを看取って、暫くして私は肩に乗っている蜘蛛の悪魔さんに話しかけた。
「……僕が、いえ、悪魔が、人を生き返らせることが可能だという前提でお話されていませんか?」
「できないんですか。できますよね」
「それは、えぇ。まぁ。できますね」
悪魔さんがふわり、と私の肩から下りた。蜘蛛なんだから、糸でも吐いてシュルシュルと降りるのかと思ったけれど、風に乗る様にゆっくりと、蜘蛛なのに、妙に優雅だなぁと思うような動作で降りて、眼を私の方に向ける。
「ですが、それはよほどのことですよ。大それたことでございますよ。とある大国の王は妃を生き返らせるために国の人間の半分を生贄にし、それでもまだ足りず、自身の息子や娘たちを自ら手にかけ、やっと叶った願いです」
止めておきなさい、と、悪魔さんが私を窘める。
折角母親が生み、育ててくれた命なのだから、真っ当に生きていくことに専念すべきだと、この悪魔さんは、私がこの夢でも、現実でも関わった人たちの誰よりもやさしい。やさしさ、なのか、それともこんな願いに関わらせるなと面倒くさがっていて、それを遠回しに断っているのか。私にはわからないけれど。
「どうやって?」
夢から覚めないけれど、夢の中でくらい、私がわがままなことを考えたっていいじゃない。
真っ当に生きていくって、どうやって?
現実では、当り前っていうのは、お湯で体を洗えることなんだって知ってる。
布団で寝ることだって知ってる。
でも、夢から覚めた場所で、私はそれをできない、させて貰えないっていうのも、知ってる。
「私はお母さんと、私のことを、大切にしてくれて、私が、嬉しいと喜んでくれるようなお母さんと、一緒にいたい」
「マッチ売りの少女っていうお話を、おばあちゃんが読んでくれたことがあるんです。あの子は、夢の中で優しいひとたちと暖かい部屋と美味しいご馳走に囲まれて、幸せに、めでたしめでたしになる、とてもすてきな話なんです」
覚めないなら覚めないままでいい。
私は、現実ではもう、自分で何かしようという気持ちが持てなくて、いつも何も感じないようにしている。だから、夢の中で、暖かい布団や、ご馳走を得て、優しいお母さんと暮らしたい。
私はカナンという名前なんだから。
(そう、カナン。あの、幸せになるためになんでもしたあの強いすてきな女の子と同じ名前で、私は呼ばれたんだから。この名前なんだから、私は、絶対に、幸せになるのよ)
「人が過ちを犯すのをただ黙って見ている。それが悪意というものでございますが……それではお嬢さん、僕の善意の助言を跳ねのけて、悪意を持って寄り添えと?」
「そうしてください。そう、居てください。あなたは私が捕まえた、私のただ一つの凶器なんです。貴方の善意は私の幸せにはなりません。貴方が悪魔として悪意を持って、私を破滅させようとするくらいの害悪であって、やっと、私は悪魔と取引できるくらいはマシな生き物になれるんでしょう?」
いくつもの目を持つ蜘蛛の悪魔さんは、それから暫く黙っていた。
日が暮れて、空が茜色になって、星が煌めく夜空が現れて、月が真上に浮かんでやっと、悪魔さんが動いた。
ぱちん、と、指でも鳴らすかのような音。
ジジジジジと、黒い虫のような、墨のような、塵のようなものが蠢いて集まって、ぶわっと、それは人の形になった。
月明りに艶めく黒い髪に、血が通っていないんじゃないかというほど土色の肌。目ばかりは真っ赤な、蜘蛛の時と同じ色の男の人が眉間に皺を寄せて立っている。
「僕が、欲しいと思えるものは“聖女”の魂です」
「聖女?」
「正しい女。清らかな乙女。献身的な娘。定義は様々ですが、万人に認められ、この世界の神に愛される“聖なる乙女”その魂を対価ということであれば、えぇ、叶えましょう。貴方の御母上一人の命を生き返らせ、肉体も、そうですね、美しい頃のものに戻して差し上げましょう」
ひょいっと、男の人は私を抱き上げた。
「まぁ、無理だと思いますがね。貴方の母親は、あの神とは異なる神の民ですし、悪魔に気に入られるような小娘が麗しの聖なる乙女に選ばれることは、まぁ、ないでしょう」
「でも、聖女になったら、お母さんを生き返らせてくれるんですよね?なら、なります」
やって、やれないことは多いけれど、できないことは、たくさんあるんだけれど、でも、私は生きていて初めて自分のためにやりたいことが出来た。
「そうですか」
まるで信じていない様子で悪魔さんが目を細める。口の端が面白そうに歪んで、意地が悪そうだけれど悪魔なので仕方ない。
「僕はバアル。悪魔、ではなくて正確には魔神なのですが……」
「同じじゃないの?」
「まぁ、トカゲか竜か、という程度の些細な違いです。僕はそれほど気にしません。ではご主人様、契約を」
「カナン」
「はい?」
私はカナンって言うんです。ご主人様じゃなくて、カナンって、呼んでください。
そうお願いすると、悪魔さんはきょとん、と小首を傾げた。
「では、カナン様」
「はい、バアル」
私が名前を呼び返すと、バアルのおでこに何か、紋章のようなものが浮かび上がって、それが私の左手にも表れた。
「僕の悪意は純白が染まる様、あるいは聖者の堕落する醜態、観劇の悪魔ともよばれる者でございますので、これより貴方様に寄り添い、付き添い、見事聖女の清らかさを得られますのを、面白おかしく、見守らせて頂きます」




