「キコ」との出会い
「あんた…いま何時だと思ってんの?!」
「…まあちゃん?」
キコはブランコの上で惚けていたようだ。私が声をかけると、ハッとしたように顔を上げた。
「あ、あのっ!ちがうの!」
そして彼女は立ち上がり、私になにかを弁解し始めた。
「別に私期待してたわけじゃなくてね、あの、自分でもまあちゃんに伝わってなかったのも知ってたし、私も公園にいるのが好きで、だから、ゆっくりしすぎちゃった、みたいな感じで、…」
彼女の顔はだんだん下を向いていく。私に謝る必要なんてないのに。
引いたりなんかしないのに。
私は彼女の隣のブランコに座ろうと一歩踏み出そうとしたところで思い出す。
自分がさっきまでなにをしていたか。もしかしたら彼女に気づかれてしまうかもしれない。
私は歩き出そうとした足を戻して、彼女に近づくのをやめた。
「…!」
こちらを見ていたキコの顔は突然ひどく傷ついたように歪み、そして彼女は荷物を持って歩き出した。
「え、えと、顔見れてよかった。もうこんな遅いんだし、だめだよ、寄り道とかしちゃ。
あの、じゃ、またね。」
キコは下を向いたまま、早口に私に語りかけ、公園の出口へと向かっている。
行かないでほしい。
だめ…言わなきゃ、なにか…
「キコ」
気づけば私は彼女の名前を呼んでいた。キコが立ち止まる。
「わ、私猫飼ってたの!」
声が震える。伝えてみたかった、この、もしかして、を。
「小学一年生のときに、そこの、あんたの座ってたブランコのとこに捨てられてたの!
私その猫のこと大好きだったの!!」
キコはこちらをゆっくりと振り返ったが、なにも言わない。
「私その子のこと大好きだったの!嫌なことも楽しいことも、全部その子に話してたの!!馬鹿みたいかもしれないけど、友達だったの!」
息が切れはじめてしまう。
余裕なんてない。
「…その子、毛が綺麗でツヤツヤな黒猫で、私、みんなに、まどかちゃんとお揃いねって、言われるのが、嬉しかったの…」
私まで下を向いてしまった。なんだか泣きそうだ。
「…ただ、そんだけ…」
すごくすごく長い一瞬の後、キコが口を開いた。
「…まあちゃん。私もその子、まあちゃんとお揃いねって言われてすごく嬉しかったと思う。
その子もまあちゃんのこと大好きだったと思うよ。」
そう言ってキコは去った。
顔を上げてみても、彼女の姿はもう見えなかった。
ねえキコ。
私の大好きだったその猫も、キコって名前だったんだ。
知ってるんでしょ?
………
そのあとのたのたと歩いたり止まったりしながら家まで歩いた。もう時間は12時を過ぎていて、家の中は暗い。
けれど中からは人の声がする。
大きな靴も玄関に置いてあるし、母の新しい彼氏だろう。
私はなにも言わずに部屋にまっすぐ入る。もちろん母は私に気づかない。
「え〜、ほんと〜!」
「マジでマジで。ねえ、本当に俺と逃げちゃう?俺と二人でどっかいっちゃおっか!」
「なんかたっくん王子様みたい!かっこいいよ〜!」
ドアを閉めても母たちの声が聞こえて来る。母の甘い声があまりに耳障りで、私はイヤホンで耳を塞いだ。
耳に流れてくる音に揺られながらキコのことを思い出す。
私が小学一年生の頃、あの公園でキコを拾った。
そのころの私の家は暖かくて、学校が終わり家に帰ると母が待っていてくれた。そして二人でおやつを食べながらいろんなことを話して、夜の6時頃に父が帰ってくる。
家はいつも明るい雰囲気で、私は家に帰るのが毎日楽しみだった。
母にひろったキコを見せた時はかわいいね、いいよって二言返事で飼うことが決まった。
二年生になって、三年生になって私は人の暗い部分を知る。クラス人たちは陰口を言うようになって、私は私になりに嫌な思いをした。それに私が三年生になってから母はパートを始めて話す時間も減ったから、家に帰ったらキコに話をすることにした。返事はないけれど、ただ自分の悩みを吐き出したり、なにが楽しかったかを伝えるのは私の気持ちをだいぶ軽くしてくれた。
夕方には父と母にも楽しかったこと嬉しかったこと少し彩りながら話す。自分の生活は素敵だと見せるために、辛かったこと嫌なことは伝えずに。
なんだか自分に暗い部分があることを見せると家が変わってしまう気がして、この明るい雰囲気を失いたくないと子供ながらに恐れてしまい言うことができなかった。
だから毎日毎日放課後、一匹と1人で窓際に日にあたりながら、キコを膝にのせていろんなことを話した。
小学6年生になって、キコの体調が悪くなる。元々体の強い猫ではなかったけれど、歩くこともぐっと減るほど弱っていった。
学校が終わるたびに走って家に帰って、ゆっくり撫でてあげると喉を鳴らして喜んでいたのを覚えている。
そして小学六年生の1月頃にキコは亡くなった。たった6年しか生きられなかったのは猫としても短命だと思う。
体に穴が空いたような気分だった。すぐには涙は出なかった。
母と父は泣いていた。
火葬された後に箱になって帰ってきたキコを見ても、私は泣かなかった。
この小さな箱は、どうしてもキコには見えなくて。いなくなったことは信じられなくて、涙が出なかった。
でもその後3日ぐらい経って学校から帰ってきたとき、その日はなにかと悲しいことがあった日で誰かに話を聞いて欲しかった。
それなのに
ドアを開けても誰もいない。
どうしようもなくていつもの窓際に座ってみてもひとりぼっちで、
「キコ」
名前を読んでも虚しくて、
やっと自然と涙が出てきた。