最終話 痛みはもう共有されない。二人は絶対的なゼロから明日を生きる
物語の最後に【公式エンディングテーマ】あり
あれから、一ヶ月。
百万円を外道に奪われ、手元には一円も残らなかった千夏は、深夜の道路工事現場で交通整理のアルバイトをしていた。
春とはいえ、夜明け前の風は凍えるほど冷たい。
誘導灯を振る腕は鉛のように重く、立ちっぱなしの腰は悲鳴を上げていた。
「寒い!……クソッ。またマイナスからかよ。笑えねえな」
休憩時間。
千夏はパイプ椅子に座り込み、泥だらけの安全靴を見つめて自嘲気味に呟いた。
バグが終わって他人の痛みは消えたが、現実の生活の痛みは容赦なく千夏の体を削っていく。
そこへ、一台の自転車が通りかかった。
家族と別れて家も失い、今は『轟運送』の古びた独身寮から通っている。
三十年間変わらない、重いペダルを踏み込むくたびれた男。早朝出勤に向かう神悟だった。
神悟は、工事現場の隅でうずくまる千夏に気づき、自転車のブレーキをかけた。
以前なら、近づくだけで千夏の腰の激痛が神悟の体にも流れ込んできたはずだ。
しかし今、神悟の体には何の痛みも走らない。
宇宙のバグは完全に終わっている。
けれど、痛みが共有されなくても、神悟には分かった。
彼女が今、どれほど歯を食いしばって絶望の淵に立っているかが。
カチャン、と。
近くの自動販売機の音が響く。
千夏の目の前に、温かい缶コーヒーが差し出された。
「……えっ?」
顔を上げると、作業着姿の神悟が立っていた。
「……バグが治っても、お節介は治ってないのかよ、ジジイ」
千夏は驚きを隠すように鼻で笑い、缶コーヒーを受け取った。
「奇遇ですね。僕もさっき、腰に湿布を貼ってきたところです」
神悟は千夏の隣に立ち、自分の缶コーヒーを開けた。
「……百万円、持っていかれちまったからな。拓也に飯食わせるには、こうやって踏ん張るしかねえんだよ。結局、私の人生はずっとマイナスだ」
千夏が、悔しそうに缶を強く握りしめる。
神悟は、ゆっくりと首を振った。
「マイナスじゃない。今は『ゼロ』です」
千夏がハッとして神悟を見る。
「僕たちは一度、完全に壊れて、死にぞこないました。でも、あの最悪のバグのおかげで、孤独じゃないって知ることができた。……ゼロからなら、何度でもやり直せます。あなたなら、絶対に」
神悟の言葉には、何の根拠もなかった。
だが、共に地獄をくぐり抜けた戦友の言葉は、どんな慰めよりも千夏の胸の奥を熱くした。
「……生意気言うなよ、ポンコツのくせに」
千夏は立ち上がり、飲み干した空になった缶をゴミ袋へそっと捨てた。
そして、神悟の顔を真っ直ぐに見据えた。
千夏の瞳は、真っ赤に充血していた。
今にも溢れ出しそうな涙を、ギリッと血が滲むほど下唇を噛んで、必死に堪えている。
絶対に泣かない。
その強烈な意地が、全身を小刻みに震わせていた。
「行くわ。夜が明けちまう」
千夏の声は、かすかに震えていた。
「……神悟さん!…」
初めて、名前で呼ばれた。神悟が息を呑む。
「もう二度と会わねえぞ。……お互い、しぶとく生き残ろうな」
千夏は、泣き出しそうな顔を無理やり歪めて、不器用に笑ってみせた。
神悟もまた、自転車のハンドルを握る手に限界まで力を込め、震えを殺していた。
視界が滲む。
胸の奥から込み上げてくる熱いものを、奥歯を強く噛み締めて必死に飲み込む。
ここで泣いてしまえば、彼女の覚悟を汚してしまう気がしたからだ。
「ええ。……負けないで、千夏さん」
神悟は、涙を堪えきった最高の笑顔で、はっきりと頷いた。
二人は、同時に背中を向けた。
振り返らない。振り返れば、堪えていたものがすべて決壊してしまうと分かっていたから。
千夏は誘導灯を握り直し、神悟はペダルに足を乗せる。
その瞬間、互いの視界から相手が消えたことで、二人の頬を同時に一筋の涙が伝い落ちた。
二人の体はもう、何の痛みも共有していない。
けれど、胸の奥で燃える「生きる」という熱だけは、確かに同じ温度で共鳴していた。
春の朝焼けが、別々の道を進む二人の背中を、眩しく照らし出す。
涙を拭い、それぞれの戦いへ向かう不格好な二人の姿が、朝焼けに溶けていく。
【公式エンディングテーマ】
https://youtu.be/9W8Jg7MAxBg
【TikTok】
https://www.tiktok.com/@kazuki6400/video/7622260870541823249?is_from_webapp=1&sender_device=pc&web_id=7588754456154867221
死にぞこないのシンクロニシティ
―完―




