第1話 給料の代わりに岩をもらった
巻き取り機は、扉の枠に胴を挟まれて動かなかった。
樽ほどの太さの筒に、ケーブルを受ける鉄の輪が二枚ついている。工具箱も着替えの袋もとうに通って、残ったのはこいつ一つだった。ケイが倒して押し、立てて押しているうちに、輪の縁が枠をかすめ、銀色の擦り傷が二本増えた。
「横にすれば」と、扉の向こうから声がした。
「横にした結果がこれだ」ケイは筒の胴を叩いた。鉄の輪が鈍く鳴って、枠が軋んだ。
「じゃあ戻して」声の主は手を貸さなかった。袖をまくった腕を組み、袖口に貼りついた小さな葉っぱを、反対の指で弾いている。昨日の書類で見た名前は、設備主任のヴィクだった。五十を過ぎた顔が、荷物より先に扉の傷を数えていた。
ケイはしゃがんで、輪の根元の六角ボルトに工具を当てた。ハンドルを抜き、片方の輪を外すと、四センチ痩せた筒が枠を擦りながら抜けた。掌に銀粉がついた。枠の傷は浅く、引っ越し初日の数としては悪くない。蝶番は上の一つが緩んでいたので、その場で締めた。
「それ、いつ使うの」ヴィクが巻き取り機の胴を顎で指した。
「いつか」
「ふうん」ヴィクはそれ以上聞かなかった。聞いても答えが変わらないことを、知っている顔だった。
耳の通信機が鳴った。ケイが指を当てると、清算担当の事務的な声が言った。
「ケイ・アサノさん。権利の受領確認をお願いします」
「今、現物の前に着いたところだ。玄関が狭い」
「図面はお送りしています」
「給料の振り込みも、図面で送ってほしかったな」相手が黙った。破産した会社の清算担当に言っても、仕方のないことだった。
ケイは工具箱に腰を下ろし、端末を開いた。小惑星K-441、現場名コロ。未払いの報酬の代わりに手に入るのは、岩そのものよりずっと細い物だった。期限つきの管理権と、その先の優先購入権。会社の借金はついてこないし、今ここに住んでいる人を追い出す権限も、ついてこない。
条件は三行で足りた。買うなら六十万クレジットで固定、認定住民は三百人以上、生命維持と居住と避難の設備が検査に通ること。期限は今日から百八十日。手元の九万は、飯と燃料と、壊れた物を直すための金だった。
「三百人連れてきて写真を撮ればいい、って話じゃないんだよな」
「生活の本拠を置いて、連続六十日です。二重登録は認められません」
ヴィクが端末の隅を爪で叩いた。認定済みの欄には、十六人。ケイを足せば十七になるが、六十日たつまでは、ケイもその外にいる。三百に届くとして、最後に数えられる一人になる予定だった。
廊下を、子供が走っていった。片方だけ靴下を履いている。ヴィクの目が、その靴下を最後まで追った。
「子供は三人。みんな、あんたより先に住んでる」
「ちゃんと数える」ケイは言った。数える相手のほうが、先輩だった。
前の部屋で工具棚を壁に留めたとき、大家はネジ穴四つに請求書を一枚寄こした。明細の行数は、穴の数より多かった。持ち帰る部品は毎月増え、床は毎月減った。ここには、壁の向こうにまだ壁がある。
工具箱の底から万力を出した。二十八の誕生日に、自分で自分に買った物だ。前の部屋には留める机がなく、箱から出してはしまっていた。廊下の突き当たりに、作業台が見える。天板に誰かが焦がした跡のある共用の台で、縁の厚みが万力の口にちょうどよかった。掛けてみた。ハンドルを回すと、何も挟まないまま鉄と鉄が合わさって、硬い音を立てた。
「そこは共用」
「分かってる」ケイは万力を外し、ねじ山を拭って、箱に戻した。蓋を閉める前に、端末へ指を置く。「受け取る」
署名が通って、通信が切れた。ヴィクは蓋が閉まるのを見届けてから言った。
「気密壁に穴を開けるときは、先に私を呼びな。呼ばずに開けたら、部屋ごと閉める」
「そこは相談する」ケイは工具箱の留め金を掛けた。蓋の下で、万力が一度鳴った。
* * *
荷物を自室へ押し込み、ケイは接岸口へ向かった。途中の通路は照明が落ちて、入口に柵が立っている。居住棟へは別の廊下を大回りするしかなく、回った先の食堂では、小さな卓上灯の下で三人が同じ鍋を覗いていた。
「新しい管理人?」
「ケイ。鍋に何が入ってる」
「帰ってきたら分かるよ」蓋が閉じた。歓迎なのか在庫隠しなのか、判断がつかなかった。
接岸口の窓に額を寄せた。船を受ける丸い口の縁に、留め具の爪が四つ。最初の一つは、握りかけた指を途中で止めたような角度で固まっている。次の二つには点検中の札が浮き、残る一つは動くものの、検査の記録が付いていなかった。
「動くだけの物に、客の体重は預けられない」
ヴィクは窓を見ていなかった。ケイの指が、拡大した映像の上で、曲がった爪の付け根をなぞっている。軸は真っ直ぐで、外側の爪だけが折れていた。外せる。ここならハチの腕が届く。ハチは修理ベイの外で、黄色い背中を固定架に預けていた。
「工具を持ってくる」
「今日は見るだけ。交換の品番が先」
「見たら欲しい物が増えるぞ」
「それはあんたの病気」ヴィクは自分の端末を開き、窓から目を離さずに続けた。「空きは十一人分。それより先は、住める状態じゃない」
通信機が、また鳴った。今度は清算担当の声ではなかった。
「K-441、応答願います。貨客船ポルカ。外装を損傷しました。修理を受けられる場所を探しています」
二人は同時に窓の外を見た。使えない口の向こうから、黄緑の線を引いた白い船体が、ゆっくり寄ってくる。
「泊められないよ」
「泊めなくても、直せる」ケイは工具箱の蓋を開けた。万力が一番上にあった。それを底へ押し込み、いちばん使う工具を掘り出した。
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