第三話
病室に戻ってきてベッドに腰掛けると、無機質なそれは小さく軋んだ。
そのままスリッパを脱ぎ捨て、ベッドの上に胡座をかいて座る。
「それにしてもほんと大事なくてよかったよ。全然目覚まさないし、お医者さんに聞いても待つしかないっていうしー」
遥はベッドの横のパイプ椅子に腰掛けてため息を一つ。
「家の近くの路地裏で倒れてたんだよ? 特に外傷はなかったけど、いくら呼びかけても目を覚まさないからって通りかかった女の人が救急車を呼んでくれたみたい」
なにが起こってどうなっているのかを簡単に説明してくれる。
「家の近くの路地裏……」
そんな場所まで行った覚えは全くない。正確には行けていたのかわからない。周囲は深い霧に包まれていたため、気絶する直前に自分がどこに居たのかがわからないのだ。
僕は家の近くまで知らないうちに戻ってきていたのだろうか。あの深い霧の中彷徨いながら?
まだ家までは距離があった気がするけど。
「冬なのに汗ぐっしょりで地面が濡れてたって話だよ。ほんとに大丈夫?」
「あ、あぁ僕はこの通り平気だよ。ちょっと今日……というか昨日か。行ってきたVRイベントで酔って体調悪かったから倒れちゃったのかもしれない。よく覚えてないけど」
痙攣らないように笑みを浮かべて遥を安心させようとするが、どうにも遥の表情は晴れない。いつもなら軽口の一つや二つ出るはずなのに。
どうしたものかと考えていると、不意に遥が口を開く。
「ねえ、鏡夜?」
真剣な表情で遥が呼びかける。
――一体何があったの? と。
「普通じゃないよ? 寝てる時もうなされてたみたいだし」
一瞬、言葉に冷気を感じた。
瞳も心なしか冷たく、僕は反射的に息を飲む。まるで僕の深層心理を覗き込むかのような、そんな雰囲気。
その視線はすぐにいつもの遥のものに戻り、僕のことを覗き込んでくる。
「い、いや。ほんとによく覚えてないんだよ。自分が倒れた時の記憶とか、家の近くまで帰ってきたってことさえ覚えてないんだ、そこから先はさっぱり」
嘘は言ってない。記憶があやふやなのは事実だ。
遥なら僕の覚えている記憶の最後――つまり、自分自身の死という矛盾だらけのオカルト話も親身になって聞いてくれるかもしれない。仮に信じてもらえたとしてもどうなる話でもない。何なら混乱させてしまうかもしれない。
もし何らかの精神攻撃の類だとするのなら、知ったことで標的になってしまう可能性だってある。まぁ流石にちょっと厨二病すぎるけど。可能性というのはどんな場合でも0と断言するのは難しいわけで。
実際、エレクトロニックハラスメント。エレハラの前例は昔からいくつも存在する。
まぁそれの標的に、平々凡々な一市民でしかない僕が選ばれるなんてことあるはずもないけど。性格や趣味の都合上、どうしても考えてしまう。
そして微かに好奇心でワクワクする。これは口が裂けても遥には言えない。言ったらそれこそ搾られてしまうだろう。
僕の様子をたっぷり一分ほど伺ったのち、遥は小さく微笑み顔を上げた。
「そかそか。ごめんね病み上がりに無理して思い出させようとして。ただ目から血が出てたって話だし、本当に何かあったらちゃんと言ってね」
「目から……血?」
「そうだよ? どろっとした血が溢れてたんだって。汗と混じって悲惨な見た目だったっておねーさん言ってた」
それは、夢の中の話じゃないの? 実際に僕の目から血が流れていたって?
右手で目頭を拭ってみるが、僕の指に血はつかない。当然だ。もう何時間も前の話なのだから。
でもそんなことあるの? そんなのまるで、あの出来事が本当にあったみたいじゃないか。
そんなわけはないんだ。あんなのは幻覚だ。もしかして本当にエレハラを受けてたわけ? マイクロ波の脳への負担で出血? でもその方がまだありがたい。だって。
そうじゃないと僕は一体――
「ん? どうしたの? 深刻そうな顔して。汗もすごいよ?」
「い、いやちょっと。目から血が出る夢を見たから、正夢になっちゃったのかなって思って……」
正夢なんてそれこそ非現実的だ。
「正夢? キョーヤついに予言者デビューしちゃう感じ? ブログで占いコーナーとか設けてみる⁉︎」
「いや、みないけど……」
冗談半分にいう遥に少し苛立ちを覚える。僕がこんなに考えているのに。
もちろんことの全てを話していないのは僕だ。その状態で遥に当たるのはお門違いと言うのも理解している。
冷静さを取り戻すために大きく息を吸った。肺がいっぱいになったところでゆっくりと、一気に吐き出す。全身に酸素が行き届き、脳がクリアになった気がした。
そこで思い出す。現場にいたであろうもう一人の人物を。
「そういえば、気を失う直前、女の子にあった気がするんだよね」
そう口にするなり遥が身を乗り出した。まるでUMAでも見つけたかのように、大袈裟に。
「女の子……? キョーヤが女の子と一緒? え? 嘘。だってキョーヤだよ?」
「え、何その反応すごく傷つくんだけど。というかVRイベントだって優希と行ったんだから僕が女子と一緒にいることはなんの不思議もないだろ」
「いや、だってゆーにゃんはゆーにゃんだし……」
無駄に深刻そうな顔でそんなこと言われると流石にきついものがある。
がっくりと俯く僕の背を控えめに遥が叩く。それに合わせて項垂れた僕の体が前後に揺れる。
「じょーだんじょーだんだって! でも近くに他に人がいたなんて話は聞かなかったけどなー。名前とか覚えてないの?」
「あ、しまった……聞いた記憶はないな……」
というか何故か頑なに教えてくれなかった。そんな余裕がなかっただけかもしれないけど。
遥はしょんぼりした様子で壁にもたれかかり天井を仰ぐ。
「そっかぁ。なにかその人が知ってるかもしれないなって思ったんだけど」
そうか。僕の記憶に残っていなくても、一緒にいた彼女は何か覚えているという可能性もある。
とはいえこの世界からもう一度彼女を探し出すのは骨が折れそうだ。
仮に新宿区内に絞れたとしても、新宿に来る人間なんて多すぎる。観光なのか、用事なのか、はたまた住んでいるのかすらもわからない。
他に何か絞り込めれば――
「ん? そういえば……」
あの時あった女の子、僕のことを先輩って言ってなかったっけ?
だとすると、もしかしたら――
「遥。気を失う前にあった女の人、探せるかもしれない」
「ほんとに? なにか思い出したの?」
「いや、それは……確実じゃないけど。とりあえず週明け学校で人探しだ。和人と優希にも声をかけよう」
「うー? うん? うん」
どうやらピンときていないようで、遥の頭の上にははてなマークが浮かんでいた。




