くだらない運命にサヨナラ
10
応接室に戻ると入り口の前に染井さんが立っていて、そわそわとしていた。そして私たち二人の姿を見るとすぐに駆け寄ってきて、私の手を握ってきた。
「大丈夫?」
本当に心配してくれたみたいで、とても焦った表情をしている。先週、ひどい裏切りをした私の身をこんなにも案じてくれていることに感動してしまって、また泣きそうになる。
涙を堪えながら頷くと、彼女はそれに「良かった……」と呟いて、花柄のハンカチを渡してくれた。
そして私の手を引く竃山さんに目をやる。
「お任せしていいんですよね?」
「口を出すなと言ったはずよ」
染井さんはそれ以上は何も言わずに、道をあけてくれた。
竃山さんに手を引かれながら、扉へと近づいていく。汗が自然と出てきて、ごくりとつばを飲んだ。
不安に苛まれていた私の手を、竃山さんがより強く握った。
「え」
「安心なさい」
「……はい」
一体何が始まるかもわからないのに、そう返事をしていた。
気づけば、不安も少し消えていた。
竃山さんはノックもせずに、応接室へと入った。
中には椅子に座ったお嬢様と、落ちつきなく室内をうろうろしている両親がいた。
三人は私を見ると一斉に表情を明るくしたけど、隣にいる竃山さんを認識すると、揃って首を傾げた。
「か、竃山っ」
特にお嬢様は立ち上がって驚いて、予想外の乱入者を睨みつけた。ただ、竃山さんは一切それに反応しないで、当たり前のように近くの椅子に腰をかけた。
そして戸惑っている私の両親を興味なさそうに眺めていた。
「芙蓉、あれがあなたの親?」
「……はい」
「そう、貧相な顔つきね。頭が悪そうだわ」
あまりにも遠慮のない言葉に、いつも旦那様から罵倒を浴びせられている両親も顔を真っ赤にした。
「何だ、君は! 失礼じゃないか!」
「今は家族で話し合っているの! 関係ないなら帰りなさい」
両親が声をあげて抗議するけど、竃山さんはそんな二人に、まるでゴミでも見るような冷たい視線を向けた。
自分に向けられた視線じゃないのに、背筋が冷たくなる。それほどの迫力があった。あっけなく両親は怯んだ。
「躾がなっていないわ」
竃山さんは持っていたハサミをテーブルに置くと、さっき五人組から渡されていた二つ折りの紙を広げて、その中身を確認した。
そして確認を終えると、その紙をテーブルの上にシュッと滑らせて、両親のところへ届けた。
「確認しなさい」
両親はお互いに顔を見合わせたあと、その紙を手に取った。
お嬢様は自分を無視して部屋の空気を支配している竃山さんを睨み続けていた。
「……こ、これは」
「う、うそよ」
両親が手を震わせながら紙を読み、揃って驚いている。そして竃山さんを、信じられないものを見るような目で見つめていた。
「なに、どうしたっていうのよ」
状況がわからないお嬢様が両親のもとへ行き、二人から紙を奪い取った。そしてその中身を確認すると、顔を青くしながら「なによ、これ……」と呟いた。
わけがわからない。たった一枚の紙で、両親やお嬢様は、何をこんなに驚いているんだろうか。
「読めた? その契約書に書いてあるとおり、お前たちの借金はあたしが買い取ったわ」
竃山さんの言葉に、思わず「え」と声を漏らしてしまう。
「交渉は父にさせたけど、とりあえずその契約書にある通りよ。乙霧の家は、お前たちの雇用契約などを全て解除。借金については、今後、竃山の家に返してもらうわ」
続けざまに発せられる衝撃発言に、私もいよいよ言葉を失ってしまう。
とんでもないことなのに、竃山さんは涼しい顔をしたままだ。
「だから、これからは竃山の家が、お前たちの債権者よ。早く返せるようにせいぜい働きなさい」
お嬢様の手から、ひらひらと紙が落ちていく。そこには確かに『契約書』と書かれていて、何度か見たことがある旦那様のサインが記されていた。
旦那様は、両親を売った。
やっと状況を飲み込んだ両親は、竃山さんこそがこの場の支配者だと理解したみたいで、急に気味の悪い笑みを浮かべ始めた。
「ああ、そうでしたか。それはそれは、大変失礼をいたしました」
二人でそう頭を下げたあと、ちらりと私を見た。
「芙蓉がお世話になっているようで。どうでしょう、借金の返済には時間がかかるので、少しの間、娘を使っていただくということは。雑用は器用にこなせますから」
「はい。気遣いもできる、よくできた娘なので」
本人の前だというのに、当たり前のように娘を差し出す両親の姿は化け物か、それ以上の何かに見えた。
ただ、竃山さんはそんな誘いに一切靡かなかった。
「芙蓉に関するくだらない契約は無効よ。お前たちの借金なのだから、お前たちが返しなさい」
「え、いや、でもそれは……」
「当たり前でしょ。お前たちが死ねば、娘にって話にもなるけど、お前たちが生きているうちは、お前たちが死ぬ気で返すのよ。それとも――」
竃山さんはいつもの調子からは想像できないくらいに早い動きで、テーブルに置いたハサミを手に取ると、それを父の喉元に突きつけた。
「――今すぐ死ぬ?」
そう父を脅す竃山さんの目は鋭く尖っていて、それがはったりや冗談じゃないことが伝わってきた。
父の頬に冷や汗が流れていき、母は怖じ気づいて動けないでいた。
しばらくその状態で膠着していたけど、最終的には竃山さんが「たわいないわね」とハサミを置いた。
「あと、返済を随分と先延ばしにしたのね。今後のためにも資産は差し押さえるわよ」
「な!」
「もう業者がお前たちの家に向かっているでしょうね。自己破産するなら、さっさと手続きを済ませなさい」
もうそれ以上言うことはないというように、竃山さんは口を閉ざした。
両親は完全に慌てふためき、大急ぎで荷物をまとめると、お嬢様や私に何も言わずに、血相を変えて部屋から出て行った。家に戻って、その目で現実を確かめるんだろう。
竃山さんが嘘をつくはずもないから、運命は変わらないのに。
走って出て行く両親の姿を見ながら、もう二度と会うことはない気がした。
「終わったわ」
静かになった室内で竃山さんが、抑揚のない声で告げた。
ついさっきまで私を捕らえていた、死を選ぼうとしたほどの絶望的な状況は、一瞬で瓦解した。私は両親からも、乙霧の家からも解放されて、晴れて自由の身になった。
言葉が出ない。旦那様の性格は知っている。あの契約を結ぶために、竃山さんはかなりの金額を必要としたはずで、いくら実家が大手銀行でお金持ちとはいえ、簡単じゃなかったはずだ。
それを何も言わずしてくれて、こうして私を救い出してくれて、それにお礼すら求めない姿が、ただただ眩しかった。
お礼を言わなきゃと思っていたときだった。
バンッ! という激しい音が室内に響いて、ビクッと体を小さくしてしまう。
顔を真っ赤にして、怒りで全身を小さく震わせたお嬢様が、テーブルを両手で叩き、今にも噛みつきそうな表情で竃山さんを睨んでいた。
お嬢様の側にずっといた私でさえ、ここまで激高している彼女は初めて見た。
まずは第一関門突破、です。
いよいよ今日を含めて、ラスト3回です。