「さよならだね」と人魚は笑った
独立国チュニアール首都プロレッティーガ城。
港町を臨む白亜の宮殿、その更に最奥の地下神殿で、王女ソフィアは眉間に皺を寄せた。
(やっぱり)
先日リア達をトロナイルへ転送した際に使用した魔方陣。妙な違和感を拭えず、術式をすべて調べ直したのだ。
(なんてことなの)
ジャスに会うため旅だった仲間たち。
信じたくない。そう思いながらも、ソフィアは立ち上がった。
(この国に内通者がいるなんて)
女王の執務室にたどり着けば、そこにはいつもの光景がある。
だらしない姉ルフィスと、その無口な恋人ウォル。ジャスを我が子同然に育てた彼らにとっても、リアたちの動向は気になって仕方ないはずだった。
「ルフィスお姉様」
「なあに、ソフィア」
間延びた声に、少し躊躇って応える。
「先程、魔方陣の解析を終えました。結果からお伝えします」
「ええ」
姉の顔つきが、だらしないだけの女から、国を護る女王のそれへと変わる。
「どうだったの?」
「・・・発動と同時に、外部へ位置情報を報せる魔法が織り込まれておりました。仕込んだ時期ですが、おそらく使用の直前です。そうでなければ私が気づかぬ筈がありません」
「って、ことは」
ルフィスが視線を窓に向けた。遠くに見える海の果てに、トロナイル王国がある。
「私が選んだあの子たちの中にスパイが潜り込んでる可能性が高いのね」
「・・・落ち着いておいでですね」
ソフィアは顔をしかめた。これだけ付き合いが長いと、多少のことは見破れる。
「知っていて敢えて泳がせていると?」
「惜しいわ。知っているからこそ、期待しているのよ。いつか本当の国民になってくれないかしらってね」
その言葉で、ソフィアにもようやく見当がついた。
「・・・失敗してもご自分の力が及ばぬほどの脅威にはならぬとお考えなのですね」
「あは、怒らないでよ。家族でしょ?」
「怒らないでと仰るなら、もう少しこちらに事情を説明して下さい。これで何が家族なのですか」
ソフィアとてジャスのことは昔から気にかけて可愛がってきた。むしろ、ルフィスとよりもずっと親しい。
「そもそも、私は貴女と姉妹だった記憶がないんです。貴女が私を妹だと言うから!」
記憶を持たないソフィアにとって、よく似た顔のルフィスは無視できない。だから、言い知れぬ嫌悪を抱えながらも信じるしかなかった。
「私は本当は誰なんですか? 人間じゃないの? どうして何十年も姿が変わらない?」
どんどん落ち着きを無くすソフィアに、ルフィスは曖昧な笑みで応じる。
「やあね。貴女の記憶を封じたのは私じゃないわ。ソフィア、貴女自身なのよ」
記憶を代償に、自身の時を止める魔法。解除には『鍵』を渡した相手が必要だが、それが誰であるか術者は覚えていない。
なぜ自分がそんな魔法を使った見当もつかないソフィアは、今も昔も歳をとらず、記憶も曖昧なままこの独立国の王女として過ごしている。
はぐらかされたような気分で回廊を歩いていると、見慣れた緑の長髪を束ねた半神の男が前方のベンチで項垂れている。
「奥さんがいなくて寂しいの?」
彼の妻ユーナは、まさに今トロナイルで巫女姫の護衛役を演じている。この男は目立つ外見の上に半分神の血が流れている、いずれ海を統べる運命だ。人間とは言い難く、龍神の娘であるリーシャや雪女のシンルー同様に、トロナイル王宮の結界に存在そのものが影響を及ぼす可能性がある。現地でリアたちと合流した彼女らは、今トロナイル上空で待機しているはずだった。
「違う」
下を向いたまま答える男一一イーヴァ・ブリュレイクに、ソフィアは首を傾げる。
「じゃあ、どうしたの?」
「・・・・・・いや」
なんでもない。そう力なく呟くと、イーヴァはふらふら歩いていった。あんな彼は久し振りに見る。前回は事が事だっただけに、ソフィアとて冷静ではなかったのだが。
そしてその『前回』を思いだし、ジャスがこのような形で帰国したというのに、彼の妹が随分と静かだということに、今さらの危機感を覚える。
「また何か企んでないわよね、レティア」
青い髪と赤い瞳の人魚姫。ジャスの女王。
あのレティが、神の怒りを買うほどに執着していたジャスの不在に何の行動も起こしていないのは、一体なんの前触れなのだろうか。
ソフィアと離れたイーヴァ、脳裏に最後に見た妹の姿を思い描く。
夏、恋に破れた事実を受け入れたレティアは、再び罰を与えられ大幅に寿命が減った。もともと彼女は神の娘であっても魔力はさほど強くない。ゆるゆると消滅を待つしかないという状態だった。
せめて穏やかに過ごしてほしい。そう思っていたのに。
『最期くらいは、友達のために頑張りたいからさ』
どうして。
母を友も妹も、揃って自分をおいていく。
この肉体が滅んでも、その瞬間イーヴァは父の力を受け継ぎ海の神となるだけ。気が狂いそうな孤独に、息がつまる。
(人の世に長く居すぎたからか)
ユーナに出会い恋をして、無理矢理だが夫婦になって。まだ人間だった頃のルフィスに力を貸して、ウォルという友を得た。戦乱を駆け抜け満天の星のもと、笑って杯を交わしたのは、今でも宝石のような思い出だ。あれこそが[星空の宴]の始まり。
(知らなければ、よかったのか)
彼らと出会わなければ、こんな寂しさは知らずに済んだはずだった。
けれども。
あの出鱈目な冒険の日々。煌めく星のように輝く記憶の欠片。
どうしても手放せない。
(ソフィアとは正反対だな)
彼女はたった一人の男のために、それ以外の全てを捨てた。いや、失う道を自ら選んだ。自分にはできないと、イーヴァは理解している。
もう逢えないであろう男に永遠を捧げたソフィアは、しかしそのことを覚えていないのだ。その姿を見ているからこそ、イーヴァは同じ魔法を使おうとは思わなかった。
(捨てられないんだよ)
イーヴァはジャスを思った。自分と彼は似ている。背負うものがあり、理解もしているのに、不要な荷物を捨てられない。何よりも大切だと感じてしまう。
王や神に、個人的な感情などあってはならないと思いながら、自分たちはきっと最期まで他者への気持ちを捨てることはできないのだ。
今でさえ、死んだ友の声が耳の奥で響いている。
『イーヴァ様とユーナ様はご夫婦なのですか? とっても素敵です』
黒い髪に赤い瞳の魔女は、年頃の乙女らしく頬を染める。真横にいた白金の髪の娘は、酒を煽りながら笑った。
『粘着性の高いアンタのことだもの。どーせ無理矢理手込めにしたんでしょ』
『ステラ様、なんてことを・・・っ』
『あは、ロゼってば赤くなっちゃって。かーわいーいなあ!』
喧しく騒ぐその声が、イーヴァは決して嫌いではなかった。周りも似たような酔っ払いのざれ言で溢れていて、その雑音が妙に心地よくて。
こんな日がずっと続けばいいと、心ひそかに願っていた。
きらきらと、目映い魔力の傍ら。
「・・・お兄?」
兄イーヴァが泣いているような気がして、海底神殿で静かに眠りにつこうとしていたレティアは瞼を上げる。
・・・ああ。もう、何も見えない。
「たのしかったよ」
友ができた。その形見の娘にも会えた。嫌われてしまった事だけが後悔だ。もっと仲良くしたかったと、今さら思う。
「ごめんね」
瞼に浮かぶ最愛の少年。レティアの王子。
「だいすきだったよ、ジャス」
意識が緩やかに溶ける。どうせなら、友の形見のために散りたいと思った時から、こうして独り逝くことは覚悟していた。
「やっと会いにいけるよ、アルナちゃん」
土産品話は沢山ある。だから何も怖くない。一緒に笑って泣いて、叱ってもらうのだ。
「だから、リアちゃん」
私の大好きな宝物を、ジャスを、よろしくね。
溜め息ひとつを残して、人魚姫の肉体は真珠のような泡に変わる。もはや生命の気配もない泡沫は、しかし意思を持ったように巨大な水晶へと吸い込まれていった。




