願わくば、もう少し君と
ランティスはリオンから渡された「それ」を、改めて眺めていた。
巻物――――中身は縦書きだった。
「相変わらずだな」
「そうですね」
幾分か冷静さを取り戻したサーシェスが同意して続ける。
「とても懐かしいのですけれど、読み辛いです」
「縦書きって……用紙に拘るにしても、せめて文字は普通にしてほしいよ」
「更に言うなら、あの頃よりも悪筆です」
「全くだ。まるで蚯蚓の足跡みたいで、解読するのに手間取ったよ」
女性とは思えぬ汚い文字。内容はすぐに理解できなかったが、流石にこれを模倣できる者はいないだろう。咄嗟に【ラジェーテ】残党の報復を狙った罠を疑った三人だったが、今はこの手紙に信憑性を感じていた。
『国境近くにあるグレルという町に身を寄せている。山の上の屋敷で、名前はセリと偽って生活していたが、事情があって越す事となった。よければ、それまでに会えないだろうか』
実際は、この倍以上の暗号が並んでいたが、解読できたのはこれだけだった。さすがに十年も拝んでいない記号である。会って本人に教示してもらわねば、到底理解できない。現に、これを見せられたリーシャとリアは揃って首を捻り、「これは何の模様だろう?」という顔をしたのだ。
「ねえ、リア。今日ジャスは?」
夕刻には荷物も纏まり、今にも出発できそうなランティスとリオン、そしてサーシェスだったが、今回はリーシャも伴うことになっている。本音では手紙の内容を解読できた午前の段階で、身一つでも発ちたい気持ちだったが、サーシェスやリオンとしても、ランティスの支えとなってくれている少女を恩師に紹介してやりたい気持ちが大きかった。彼女は自分たちほど体を鍛えているわけではないし、慌しくなるのは悪い気がして、翌日に出発を延ばしたのだ。
その結果として、荷造りを手伝うリアも自然と話の輪に入る。そしてリアといえばジャス、という方程式が【星空の宴】に浸透している今、リオンも特に含みなく不在の少年について尋ねた。
「朝、食堂で一緒にいたよね? 公休日だから仕事ってわけでもないだろうし」
「え? ああ……」
実はリアも、ジャスとはすぐ顔を合わせるだろうと思っていた。ランティス達と親しい彼なら荷物整理を手伝いに来ても違和感はないし、そもそも師と連絡が取れたことへの祝辞を、律儀な彼が忘れる方がおかしい。だから、きっと遅くても昼頃になれば、ランティス達の所に顔を出すと思っていた。
しかし。
「そういえば、ジャス、いませんね……」
不安げな呟きはリーシャのものだ。この場にいる誰も知らないが、彼は今リーシャの生命に関わる秘密を共有してくれている盟友となっていた。それでなくとも、本来なら自分で解決すべきだったディディのことを、彼に任せてしまっているのだ。あの少女はジャスを兄のように慕っていたし、彼も妹同然に可愛がっていたように思う。だというのに、そんな二人を仲違いさせかねない事態を生んでしまったと強い自責の念を抱えるリーシャは最悪の場合を危惧して青くなった。
(私のせいでジャスとディディの仲に亀裂が入ってたら)
ジャスは頼り甲斐のある人物だと信用もしているが、だからと言って気楽に結果報告を待つなんて出来るわけない。加えて、収穫祭で遅まきの告白を受け恋人となったランティスよりも早く、ジャスに相談という形で秘密を明かした選択が、果たして正解だったのかも未だ不安で、先程からそわそわと落ち着かない。そんな彼女を、すぐ傍のリアが怪訝な眼差しで見守っていた。
「リーシャ、大丈夫?」
「え、ええ」
挙動不審な親友に労わるような声音で話しかけるリアだったが、やはりリアはリアでジャスの所在が気になった。
(おめでとうって言いに来ればいいのに。急用かしら)
あとで部屋を覗いてみよう。彼の方も勝手に侵入してくるので、最近では逆にリアが突撃をかけることも少なくない。もちろん、この一週間を除いての話だが。
一方、様子を見てディディに背嚢を返却するようヒースに命じたジャスは、彼と別行動を取り、ある場所を訪れていた。
「はあ……」
ヒースは真面目だが、クリフよりずっと融通が利いていて、冗句に興じる遊び心も持ち合わせた素晴らしい侍従だが、彼の本質を見極め切れないジャスは、どうにも壁を作ってしまう。悪人ではないのは分かるが、王宮からの密偵として自分を探っているのではないかという疑念から、近頃はずっと窮屈に感じていた。
それに加えてリアには避けられ、心の和む暇もない。ヒースは喋り好きで、一度許可したが最後、延々と喋り続けるのだ。我ながら現金だと思いつつ、クリフの寡黙さが懐かしくなる。
(でも、良かったかもな)
あまりにもリアと親しげな態度をヒースに見られたら、彼は少女の素性を気にするかもしれない。ディディには灸を据える意味もあってきつい言い方をしてしまったが、主君を戴き、それに仕える者にとって、主の周辺にいる他人には目を光らせるのも役目の一つだ。そうして彼がリアのことを他の団員に聞いたりしたらすぐにバレる。
彼女が隣国における皇族筋の公爵令嬢であるのは、ヒースに知られてはならない。彼への信頼が定まりきらない今、自分のことを明かす気にはなれなかった。逆に探りを入れてみようかとも思ったが、そのたびに断念した。下手に尻尾を出しても、相手の意図が読めないのであれば愚作だ。
(もし本当に、このまま帰国になったら)
もともと残り一年弱の猶予だった。もう十分に自由な人生は満喫させてもらったし、今さら嫌だと駄々を捏ねるつもりも権利も無い。自分あるのは義務だけだ。
(リアのことはランティスに任せるとして)
彼女を連れ出したのが自分である以上、いくら事情があっても途中で放り出すような真似は嫌だった。けれど、ランティスなら何も言わずに引き受けてくれるだろう。彼なら誰より信頼できるし、リアとも親しい友人だ。ついでに個人的な私情を混ぜると、リーシャもいるから友情がそれ以上の何かに変わることもないだろう。ランティスは確かに良い男だが、ジャスとしては二重の意味で複雑だ。
リアの幸せを願っている。これだけは何があっても変わらない、本当の想いだ。誓っても良い。
これまで沢山の哀しみに苛まれてきた彼女には、この世の誰よりも幸福を掴んでほしかった。
けれど。
今はまだ、誰かと寄り添う姿を祝福できるだけの自信がない。
嫉妬が勝って暴走するのが関の山だ。
そう思うと、寧ろ今すぐ帰国して距離を置いたほうがいいような気がしないでもない。それでも結局できないのは、ジャスの心が弱いからだ。
溺れている。
離れたくなくて、渡したくなくて。
彼女が好きだ。ずっと一緒にいたい自分を否定できない。
(2番目でも構わない。なんて言ったら、どんな顔するかな)
口にできない願いだと分かっている。
ずっと昔から、仲間と離れざるをえない運命を呪っていた。
そして今、心の底から己の出自が厭わしい。あの少女から自分を引き離す、最大の要因。
「光の花、か」
少女の名が意味する言葉を思い出し、ジャスはつい苦笑した。
かつて争い続けた神々の心を解いた幻の花。
だから求めてはいけなかったのだ。
きっと彼女は、欲しがってはいけない花だった。
「どーでもいいけどぉ」
少女を想い感傷に浸っていたジャスを現実に呼び戻したのは、懐かしくも進んで会いたくはない女の声だった。
「私の前でリアちゃんの名前そぉんな切なーく呼ぶのやめてくれないかなぁ?」
「うるさいな。あんたは何を年甲斐もなく妬いてんだよ、レティ」
近くチュニアールを離れることを覚悟したジャスは、リアの実母アルナから、親子の魔力結晶を守護する役目を頼まれていた、レティアの元を訪れていた。彼女もあまりヒースには知られたくない相手なので、彼のいない今が好機だった。
「ていうか、さ。あんた、まさかまだ俺のこと好きなのか?」
「あ、自意識過剰っていうんだよ、そーゆーの」
「いや、違うならそれに越した事はないんだけど」
大概にして無礼な物言いだったが、何せレティアには前科がある。はっきり言ってストーカーと称することさえ生ぬるい暴挙に及んだ彼女を、ジャスは全く信じていなかった。
「ふーん? 遂にリアちゃんと“も”一線越えたんだ」
「うっわぁ」
殴りたい。女にこれほど殺意を抱いたのは初めてだ。
「あんた、実は全く反省してないだろ。あと、リアとは何もない」
何をさも同意した上での行為だったように語っているのか。十にも満たない幼子を思う様いたぶり弄んだ癖に。未だに悪夢で苦しむジャスの苦労も知らないで、よくもしゃあしゃあと言えたものだ。
「もしかしたら近いうち結婚どうこうって話が出るかもしれないから、その時は邪魔しないでくれって言おうとしただけだ」
結婚。
その言葉を聴いた瞬間、レティアがピシリと固まった。
「おい、すごい不細工な顔してるぞ」
嫌味でなく、本当に顔が歪んでいる。怪しいオカルト映画の広告でも、ここまで変な顔はしないだろう。
「り、リアちゃんと!? いつ!? ジャスがギル君の義息子になるの!? わ、私アルナちゃんにどう報告すればいい!?」
「いや、だから。リアとは何ともないんだって」
相変わらず人の言葉に耳を傾けない。もう訂正するのが面倒で、ジャスはやや強引に話を本筋へと引き戻すことにした。
「で、この水晶、もう大丈夫なのか?」
「へっ? あ、うん。相変わらずリアちゃんの存在には強く反応してるんだけど、リアちゃん本人の精神状態が落ち着いてるんだね。安定してるよ」
だから、揺さぶったのはあんただろう。そう指摘したいのを抑え、ジャスは淡々と続ける。
「セレナの件が関係してるのか?」
「……まあね」
渋々という風に頷く彼女は、嫌な名前を聞いたといわんばかりの表情をしている。
あれだけの事があっても、セレナに対してだけは悪びれる様子もないレティアに、ジャスはつくづく辟易した。セレナは満足げに微笑んで逝ったが、遺された者はそう容易く納得などできない。そもそも自分のせいでという思いをずっと抱えてきたジャスは、いくらセレナが許しても、この罪悪感が消えることはないと理解している。
「セレナがリアのこと、助けてくれてるんだな」
「多分ね。この魔力の塊は、もう暴走したりしないし、無理に水晶からリアちゃんの体に戻ろうともしないよ。もしかしたら、今までよりずっと扱いやすくなってるかも」
「ああ……」
先の魔法戦大会を思い出し、ジャスは軽く苦笑いした。
「ねえ、ジャス」
「なんだ?」
「リアちゃんとは何もないって言ったよね」
「そうだな」
「なんで? 目の前にいるんだから、ペロッと食べちゃえばいいのに」
「あんたと一緒にしないでくれ」
流石に、今度ばかりは眩暈がした。もちろん怒りからくるものだ。
正直に言えば、そうしたいと願ったことは何度もある。女というにはあまりに無防備なリアは、時折ジャスを大きく惑わせる。
いっそ、このまま。
手を伸ばして抱きしめ、腕に閉じ込め攫えばいい。彼女を手に入れる、一番の近道だ。
けれど。
「自分がされて一生もののトラウマを抱える原因になった行為を、俺があいつに強要すると思ってるなら、これ以上の侮辱はないな」
きっと自分達は、結ばれることがない星巡りなのだろう。
ジャスはリアに自分と同じ傷を与えたくないし、何より再び彼女を籠の鳥にするのは御免だった。
対するリアも、自分を異性として意識していないばかりか、それ以前に好意を寄せる相手がいるようだった。いつも身につけている赤い髪飾りが、もしかしたら“そう”なのかもしれない。ジャスの事は見事に圏外というわけだ。
「そうやって理知的に振舞って我慢ばっかしてると、そのうちプチッて切れちゃうよ?」
「は?」
「ジャスが誰かに遠慮してるのは分かったけど、そうやって気持ちはあるのにふらふらして、たまにじゃれ合う? そんなんじゃ駄目だよ。きっと我慢できなくなる。心のどこかでは、誰にも渡したくないって思ってるんでしょ」
見事な図星だった。相手がレティアではなくランティスなら泣き言の一つでも零しただろう。しかし、今は反発が大きかった。
「最初から俺の女じゃない」
「うん。そうだよ。だから、私はジャスが一番を決める前に行動したの」
「?」
怪訝に思った瞬間、レティアの顔が眼前に迫っていた。
「! あんた、まだ……っ」
思わず身を仰け反らせ、手加減も忘れ彼女の肩を押し返す。
今、あとほんの僅かでも反応が遅ければ、確実に唇が触れていた。
(この色狂いが!)
悪態をつくジャスの全身から冷や汗が噴き出す。やはり、彼女と二人きりになるには早すぎたかもしれない。
蘇るセレナの最期と、その直後に自身を襲った悪夢の行為。
懐かしめるはずもない記憶を引っ張り出され、ジャスは思わず膝をついた。込み上げる吐き気を飲み下し、隙を見せるな、と自身に警告する。跪いてしまっては、本当に何をされるかわからない。
「ジャス」
案の定、彼女は手を伸ばしてきた。あの時のように。
「ーーっ!」
来るな。
そう念じただけで充分だった。
敵を排除する為に、無意識下で魔法が発動したのだ。
真紅の方陣が二人の真上に輝いた次の瞬間、レティアは赤い槍の檻で囲まれていた。
「ひどいなぁ」
「黙れ」
更に最悪なのは、何をしてもジャスが自分を心底から嫌うことは出来ないと、レティアが確信していることだ。
セレナへの義理を果たすなら、袂を分かつべき相手であると分かっているのに。
結局ジャスは、その後まともに会話することなく離宮を去った。警戒として、魔法は解かないままにする。どのみち術者と対象が距離を空けすぎたなら勝手に無効化となるのだ。といって、ジャスの魔力範囲は広いので、陸に上がれば解かねばならないだろうが。
「……っ」
レティアから離れ、無事に地上の空気を吸ったことで、ジャスは強い脱力を感じた。座り込みたいが、海辺は油断できない。何より周囲に誰もいない場所に行きたくて、彼が足を向けたのは、幼い頃セレナと過ごした草原だった。
春なら見事な花畑だったろうが、生憎と今は秋の終わりに近い季節だ。それでも夕刻とあって遠くにススキが揺れている。黄昏の景色も中々いいものだと思いながら、とうとうここで力尽きた。服や髪の汚れは気にせず、そのまま地面に寝転がる。冷たい土の感触が心地よかった。
「あーあ」
正直、疲れていた。
ヒースを信頼しきれない以上、彼をどこか監査のように意識してしまう。
クリフは母の生家を主君筋とした一族の出身で、ある意味では親戚のようなものだった。そもそも、傍に仕えてくれるようになってから随分になる。だからこそ、クリフ相手ならここまで神経を擦り減らすことはない、とヒースを少し疎ましく思ってしまうのだ。彼は王命に従っているのだから、そんなことを言われても困るだけだと、理解はしているのだけれど。
本音を言うなら、いっそ廃嫡でもしてくれないか、という情けない思いがある。それはリアと出会い、彼女への恋慕を自覚してから、より一層強くなった。
けれど、それはトロナイルとチュニアールの関係に良くない影響を与えるだろう。独立国と銘打ってはいるが、チュニアールは国土も小さければ人口とて多くは無い。他国の支援が少なからず必要で、トロナイルはその筆頭格だった。
(変な話だよな)
思わず苦笑する。
トロナイルの王子である自分が即位するのは、自国ではなくチュニアールの為だ。自分が無事に王としての地位を築けば、チュニアールとの国交も安泰となる。だからこそ、今まで父からどれほど冷遇されようとも、ジャスは王位継承権を投げ出そうとだけとはしなかった。
(即位、か)
父はさほど高齢というわけでもない。本来ならこれからの治世もずっと長いはずだ。しかし病に倒れ回復の見込みがないのなら、やはりジャスの名が挙がってしまう。
気は進まないが、その手の教育も受けてはいるし、いざという時は腹を括らねば。どのみち、王宮には後一年弱で帰らねばならないのだ。
(結婚ってなぁ)
ジャスは男児である為、今の年齢で妻がおらずとも、そう遅いとは思われないだろう。何しろ事情が事情だ。しかしヒースから聞いた話によれば、ジャスの二十歳の披露目に合わせ開かれる舞踏会に向け、続々と縁談が届いているらしい。あからさまに都合のいい娘を推す者もいれば、派閥同士で牽制しあい様子を窺うもの。その派閥間でも揉め事が起きていたり、地方から贈り物と一緒に肖像画が届けらることもある。
今頃その整理をさせられているであろうクリフの渋面を思い描き、ジャスはつい忍び笑いを漏らした。全く、一年も先の夜会に向けてご苦労なことだ。クリフには少し災難だったが、気乗りしないジャスにとっては、どこか他人事のように感じられる。そもそも、相手など殆ど決まっているではないか。
(そうなれば、あいつと身内になるのか)
マリアンヌ・ルーゼランカ・ラフィファディロディア。
リアの従妹にあたる帝国の第三皇女だ。第一皇女は南大陸に同盟として嫁ぎ、第二皇女は数年前に病死している。
トロナイルとしても帝国としても、半ば暗黙の了解になっている婚姻だった。それでも正式な婚約がなされないのは、双方に問題があったからだ。
ジャスは自国での立場が不確かで、何より一年の殆どを異国の地チュニアールで過ごしている。隣国の次代を担う王子の性質を見極めるまで、帝国側も強引に話を進めたりはしなかった。
そしてマリアンヌ皇女は、異母兄であるエドワード皇太子との不仲が非常に有名だ。何せ、兄とは同じ空気も吸いたくないと吐き捨て、離宮に腰を据えているほど風変わりな姫君である。いくら皇帝の娘とはいえ、普通は女児に領地を与えることはしないだろう。それでもマリアンヌ皇女は父から豊かな領地と美しい離宮を下賜されている。どうやら異国に嫁がせて目が届かなくなるより、手元においておくほうが懸命だと判断されたらしい。大嫌いな兄が即位した時、最悪の場合トロナイルの王を誑かして両国間に溝を作ろうと画策するかもしれない。冗談にしか聞こえないが、帝国側が本気で心配しているらしく、彼女は見事に嫁き遅れているわけだ。
(リアと似てたら嫌だな)
そもそも、なぜ惚れた女の従妹を娶り親戚にならねばならいのか。もし外見が少しでも似ていれば、きっとあれこれ比べてしまうだろう。もちろんリアの従妹である以上、蔑ろにするつもりはないが、それでも気持ちは暗く沈む。結婚がこれほど不幸臭の漂うものだとは知らなかった。
(破談にならないかな)
もし仮にマリアンヌ皇女との話がなくなっても、どのみち別の令嬢を娶らねばならない。しかし、リアとそんな形で縁戚になるのは心情的に受けるダメージがあまりにも大きいので、できれば御免被りたいのが本音である。
皇女が破談となれば、次は誰だろう。あの鬱陶しいセレスフィア公女だろうか。ずっと昔から第一候補だと噂されていたマリアンヌ皇女のことは知っていたが、それ以外はあまり記憶にない。地固めに自国の貴族から選出するのだろうか。だとすればどこの氏族が最良か、と考えたところで、ジャスは溜息を零した。
(やめよう)
嫌なことは、どんなに努力しても頭から消えるものではない。それは経験を通してよく理解している。だったら、これも考えるだけ無駄ではないだろうか。一番の願いは叶わないし、叶えようという意思もない。それなのに悩み続けても意味がない気がした。
自分にとって最悪の事態はリアが不幸になることで、この件とそれが無関係ならば、さほど大きな問題でもない。どのみちジャスの独断で片付く話でもなく、父王や重鎮も交えて決めるものなのだから、考え続けるだけ時間が惜しい。こんな楽しくも無い未来を心配するより、少しでも仲間達やリアと過ごすべきだ。
「帰るか」
城につくまでに、いつもの自分に戻らねば。
トロナイルの王子ではなく、ただの組織の一員に。
リアがジャスを見つけたのは、夜の中庭だった。
「ジャス!」
「リア?」
今から部屋に戻ろうとしていたジャスは、噴水の向こう側から声をかけてきた少女に怪訝な目を向ける。
「こんなところで何やってんだ。寒くないのか?」
冬の訪れはまだ先だが、秋の夜は冷える。日暮れ間もない筈なのに、昼間の暖かさはまるで残っていなかった。
「寒いのは慣れてるのよ」
「ふうん」
なんとなく相槌を打ったジャスは、駆け寄ってきた少女をしげしげと眺めた。
特別に外見が華美なわけでもないし、慈悲の女神を彷彿させるほど優しくもない。本当に、どこまでも普通の少女だ。下町で捜せば茶髪茶眼などゴロゴロいるだろう。それなのに。
とても可愛い。
彼女の笑顔が何より尊い。
一体いつから、こんなに惹かれていたのだろう。
最初から、気付いていれば。
好きにならずにすんだかもしれない。そう思った。
「ジャス?」
一方、こちらを見つめて黙り込むジャスに、リアは戸惑った。仲直りを強引に言い渡したのは向こうのくせに、どうして何も言ってくれないのか。新手の意地悪かとビクビクしながら、彼の返事を待つ。
「今日はずっといなかったけど、どうかしたの?」
「んー」
ジャスは軽く首を傾げ、脳内で今日の出来事を整理した。
「リアと別れてから友達のストーカーに忠告して、また別のストーカーに少し用があって会いに行ったら襲われかけて慌てて逃げた」
「レティアさんに会ったの!?」
すっかりリアの中で彼女はストーカーとして認識されているらしく、ぼかした意味はまるでない。
「大丈夫なの? 吐きそう? お手洗いまで一緒に行こうか?」
リアがさっと表情を変えて、ジャスの手を握ってくる。
「いや、乗り物酔いじゃないんだけど」
「でも」
食い下がるリアの頭に手を載せ、ジャスは苦笑した。
「ありがと。大丈夫」
ポンポンと優しく叩かれ、リアはむくれた。心配くらい、させてくれてもいいのに。
「でも」
「あ、じゃあまたアレさせてくれる? そしたら元気になるかも」
「“アレ”って?」
何のことだか分からないリアが首を捻り、僅かに隙を見せた瞬間を、ジャスは見逃さなかった。
「はい、ウサギ捕獲」
「へっ!?」
ぎゅっと抱き締めれば、リアは一瞬で真っ赤になった。律儀にそのままでいてくれるのは、優しさか同情か。
一方リアは混乱していた。
突然とはいえ、この抱擁にどうして反応できないのかは自分でもわからない。これでも鍛えているはずなのに。もしかしたら、ジャスに一切の悪意が感じられなかったかもしれない。
(もしかして)
口では平気といっているが、本心ではかなり参っているのではないだろうか。思えば、以前「罰ゲーム」と称して抱擁を受けた時も、彼は随分と憔悴していた。
(ど、どうしよう)
あの時もレティアが絡んでいたし、しかもリア自身が彼に相当な負担を与えていたのだ。今回はどうか知らないが、咄嗟に拒む理由が見つからない。頬の火照りを感じながら、リアは暫く言葉を発することも出来なかった。
柔らかい。
リアの髪に顔を埋め、ジャスはぼんやりと思った。
髪も体も匂いも、纏う雰囲気さえも。
心地よさのあまり眠気を覚えそうになるほど、柔らかい。
(まずいな)
このままでは何か良くない間違いを犯しそうで怖い。早急に腕の拘束を解くべきだ。
しかし、頭で分かっていても体は動かなかった。離れがたいという本心を否定できないからだ。
(寧ろ、このまま)
気持ちが緩みつつあるのは感じていた。いや、抑えが効かなくなったというのが正しいかもしれない。
以前は動物同士の子どものような戯れで満足できていたのに、最近はそれ以上を求めている。このままでは、遠からず彼女を傷つけてしまうかもしれない。自分に対してそんな警戒心を抱いてしまうほど、少女を想う気持ちは増していた。
「ジャス?」
恐る恐る名を呼んでくるリアの頬は、噴水から漏れる光で僅かに明るいだけの暗がりでも、真っ赤であることがすぐ分かった。潤んだ上目遣いの瞳が扇情的で、思わず目を逸らしてしまう。
もう少し自覚を持て、と言いたくなるのはこんなときだ。
確かに目立つ美貌の持ち主ではない。しかし、彼女は自分を低く見積もりすぎているのだ。華やかさには欠けるかもしれないが、顔立ちだけなら寧ろ整っている。この自信のなさはどうにかならないものか、と現状に全く関係のないことを徒然と考えることで、ジャスの今更の緊張を紛らわそうとした。
迂闊だったと、ようやく我に返ったのだ。
いくら精神的に疲れていたとはいえ、これは拙い。彼女に触れて癒されたいという願望がずっとあったから、ついつい手が伸びてしまった。しかも、ようやく落ち着いたら、意中の娘と密着して見詰め合う姿勢になっているではないか。色んな意味で理性が試されている。まるで何かの修行だ。もちろん自業自得だが。
「えっと」
早く放せばいいものを、それでも手離すのは嫌で、ジャスは少女を腕に閉じ込めたまま言葉を捜す。
第三者からみれば、睦みあう恋人同士にしか映らなかった。焦っているジャスの視界には入っていないが、リアもリアで、あながち満更ではない顔をしていたのだ。これでもまだ友人だと揃って主張するのだから、周囲の生暖かい祝福は日々増すばかりだった。
曰く「素直になれない年頃なのね」等々。
こんな認識が浸透した以上、否定すればするほどに逆効果だったが、リアの方が予想を裏切らずに狼狽するのが面白いらしく、最近では【星空の宴】における人気の遊びとなってしまっていた。
「風呂、もう入った?」
「えっ? あ、ううん。まだ」
「そう」
会話終了。
それでもジャスは不思議だった。じゃあなんでこんな匂いがするんだろう。シャンプーの匂いが髪に染み付いているのだろうか。といって、もしレティアから同じ香りがしても、きっと和みはしないのだが。
「そうだ」
「?」
レティアで思い出した。彼女との嫌な接触の直後に城へ戻っても、顔色の悪さから皆に心配をかけるだろうと思い、ジャスはしばらく城下を回っていた。ランティス達がせっかく恩師との再会が叶いそうなのに、その良い雰囲気を壊すのは嫌だったのだ。
「リア。口あけて」
「ふぇっ」
え? と聞き返したかったのであろう少女の口に、ジャスはあるものを放り込んだ。おかけでリアはギョッと目を瞠って硬直したが、流石に吐き出しはしなかった。それはそれでからかって遊べただろうから、きっと楽しいのに。
僅かに歪んだ愛情を胸に、ジャスはにっこり微笑んだ。
「美味い?」
「ん、ふぁい……」
どうやら舌を噛んだらしい。
「あれ、気に入らなかったか。城下で見つけたんだけど、アーモンドのクッキー好きだろ?」
「ばかっ」
ようやく回復したらしいリアは頬を膨らませて抗議した。
「いきなり放り込まれたら、誰だってびっくりするじゃない!」
「だって、あそこまで見事に舌かむとは思わないだろ」
これは本心だったが、リアの柳眉は更に険しい角度を描く。
「何それ。あたしが間抜けって言いたいの?」
「あながち外れじゃないだろー」
すっかりいつもの調子に戻ったリアに、ジャスは弾むように笑って見せた。
傍目には抱きしめ合ったまま、いつもの言い争いを始める二人。お互い楽しそうだ。離れる気配のないふたつの影を、物陰から呆れた表情で眺める者達がいた。
「こんな人通りの多いとこでよくやるよねぇ、あの二人」
「流石にジャスは自覚あるんだよな、あれ」
「レリアルさんも、決して嫌がっている風には見えませんが」
「とってもお似合いですよね」
食堂に行く途中だったリオンとランティス、サーシェスとリーシャは、二人がその場を離れるまでの随分と長い間、秋の冷たい夜風に曝されながら、足止めを食らうことになったのだった。




