ヒトミカ
(創時来ないし……)
次の日、金曜日の授業中、舞香は横の席を見つめながらそう思っていた。
普段あまり風邪をひかない創時が風邪など、とても珍しかった。雨でも降るのではないだろうか?
舞香は、窓の外に目を向ける。
雨が降っていた。夏の夕立みたいに強い雨が窓を叩いている。今日ほどの雨ではないが、これから数日間は雨が続くらしい。
昨日あんなことがあった後なので、創時にメール一つ送ることができないでいた。
(絶対、月曜日に謝る)
自分にそう言い聞かせて、舞香は机に突っ伏す。どうせ、授業を聞いてもわからないので、寝ることにしよう。放課後のバイトの労力を残しておかなければならないのだ。そう。労力を残しておかなければ――
――チャイムの音が聞こえる。
「んん」
舞香はゆっくりと目を開ける。徐々に、周りの喧騒と雨の音が耳に入り込んでくる。
教室の時計を確認すると、三時三十分だった。
……ん?
舞香はもう一度時計を確認する。
短い針は三、長い針は六を指している。確かに三時三十分だ。
「――ッ」
舞香は思いっきり叫びたい気分だった。まさか、一時間目から六時間目までぶっ通しで寝てしまうとは思わなかったのだ。きっと、周りの生徒からは不良だと思われているのだろう。
(……まあいっか)
どうせ授業を聞いても意味がわからないのだ。創時には悪いが、もしかしたら進級できないかもしれない。
舞香は食堂で軽食を食べると、すぐにバイト先に向かう。バイトは四時からなのだ。舞香に、睡眠以外にゆっくりできる時間などない。
「疲れたー」
帰宅した舞香は開口一番に誰に言うわけでもなく、そう愚痴る。
ベッドに突っ伏そうとしたが、舞香は、はっと思い立ち、すぐに家を出る支度する。銭湯に行くのだ。さすがに、二日間お風呂に入らないのはきつい。
銭湯は舞香の住んでいるアパートから徒歩で五分くらいの場所にある。銭湯といっても、比較的新しいところなので、営業時間も長く、朝の七時から夜の十二時まで開いている。バイトで遅くなる舞香にとってはありがたい場所だった。
更衣室兼憩いの間で服を全て脱ぎ、浴場へ。いつも通り、人はあまりいなかった。夕方になればここも混むのだが、さすがに時間が遅いため、人は少ない。でも、舞香はこれを好んでいた。あまり人が多くてはゆっくりできないのだ。
丸い小さな椅子に座って頭を洗う。長い髪を洗うのは面倒だったが、創時が切るなというので、髪を切ることもできないでいた。
次に身体を洗おうとした時だった。
「お背中、流しましょうか?」
ふと声が聞こえ、舞香は振り返る。
「……」
思わず舞香は呆気に取られていた。外国人の金髪の女の子がそこに立っていたのだ。歳は、十歳くらいだ。
「どうしましたか? 私の顔に何かついていますか?」
きょとんとした顔で、少女はそう言う。
「い、いえ。なんでも。……大丈夫です。自分で洗えますから」
舞香は動揺していた。外国人としゃべったことなどないのだ。それに、英語を話すこともできない。
(……ん?)
今思えば、少女はしっかりと日本語を話しているではないか。それに、しっかりと会話もできている。
なんだかもう、舞香の頭の中はよくわからないことになっていた。
「遠慮なさらずに。女の付き合いということで……」
初対面の人にその言葉を使うのはどうかと思う。……しかし、それにしても綺麗な日本語だった。外国人特有の発音なんてものは微塵も感じない。それに、振り返って顔を見るまで、外国人に声をかけられたなど思いもしなかったのだ。
「じゃ、じゃあお願いします」
舞香がそう言うと、少女はふっと微笑んでシャンプーのついたタオルで舞香の背中を洗い始める。それにしても、どうして年下に敬語を使っているのか、舞香には理解できなかった。だが、気にしないことにする。
「舞香さんは、今帰りですか?」
「ええ。そうです。……って」
はっとして振り返ると、少女は悪戯っぽい笑みで舞香を見ていた。
「どうしました?」
とぼけたように少女はそう言う。
「どうして私の名前知ってるの? あなた、何者?」
舞香はきっとした鋭い目線で少女を睨みつける。舞香は生まれて初めて命の危険というものを感じていた。しかも、こんな、お嬢様の雰囲気を醸し出す少女に。
「まあまあ、そんな怖い顔なさらずに。……私の名前は、ヒトミカ・ボルーゼと言います。見た通り、イギリス人です。けど、ずっと日本で暮らしているので日本語しか話せません」
少女――ヒトミカは、坦々と自己紹介を始める。しかし、舞香が訊きたいのはそんなことではなかった。訊きたいのは、どうして自分の名前を知っているのか、だ。
「――待って」
舞香はヒトミカの言葉を遮ると、隙を見せないようにすばやく立ち上がり、ヒトミカを見下ろす。どうしてこんなにこの少女に危険を感じているのか、実のところ舞香もわかっていなかった。もちろん、知らないはずの舞香の名前を知っていたからということもあるだろう。でも、もしそれだけのことなのであれば、こんなに危険を感じることはなかったはずだし、それに、そんな時は「どこかで会ったことあるっけ?」と、こう思うはずだ。しかし、ヒトミカから自分の名前を聞いた舞香はそんなことを微塵も思わなかった。つまり、第六感が働き、舞香に危険を知らせたということになる。
では、どうして?
そんなことわかるわけがなかった。だって、今もヒトミカは青色の、汚れのない澄んだ瞳で舞香を見つめているのだ。きっと、どうして舞香がこんなにも怯えているのか理解できないでいるのだろう。
――いや、もしかすると全て演技なのかもしれない。だって、さっき舞香の名前を言った時、ヒトミカは悪戯っぽい笑みを浮かべていたのだ。あれは、わざと舞香の名前を言った、という感じだった。
とにかく、訊けばいいことだ。訊けば、全て解決する。
「私の訊きたいことはそんなことじゃない。どうして私の名前を知ってるの?」
まるで、取り調べのようだった。もちろん、取り調べなどしたことはないのだが……。
すると、ヒトミカは何かをいい考えを思いついたのか、にやっと笑って答える。
「簡単ですよ。……私、創時さんのフィアンセなんです」
……。
一瞬、ヒトミカが何を言ったのかわからなかった。水が滴る音だけが空気中に響く。浴室の扉を開ける音がして、おばあちゃんが出ていく。これで、この浴場にいるのは舞香とヒトミカだけになった。
「ふぃ、フィアンセ!?」
ようやく理解した舞香の口から勝手にそんな言葉が発せられる。どうしてヒトミカと創時が知り合いなのかについては、今の舞香に考える余裕はなかった。
「そうです」
尚も、ヒトミカはにやにやと笑っていた。
「だ、だって、あなたってまだ十歳くらいでしょう? 創時はもう高校生だよ?」
「恋愛に年齢なんて関係ありません」
「そういう問題じゃなくてッ」
「じゃあ、どういう問題ですか?」
この子は、本気で言っているのだろうか? 嘘を言っているようには思えないのだが、かと言って本当のことを言っているようにも見えない。
ヒトミカの真意がよくわからなかった。
「フィアンセってことは、創時も認めてるってことだよね?」
となると、大変なことだった。例え高校生でも、年端もいかない少女に手を出すなど、犯罪だろう。これは、創時と話し合わなければならなかった。もちろん、あのことを謝った後に、だ。
しかし、創時がロリコンだったとは……。
「もちろんです。今年中に籍を入れるつもりです」
悪戯っぽく微笑みながら、ヒトミカはそう言う。
「こ、今年中!?」
舞香はテンパりすぎて、十歳ではまだ籍を入れることができないことに気付いていない。
「ですです」
創時と結婚するのがうれしいのか、ヒトミカは満面の笑みを見せる。
「嘘……でしょ……」
「嘘ですよ」
「やっぱり。嘘だよね。……って! 嘘なんかい!」
舞香は思わずツッコんでしまう。しかも、どこかで耳にしたことのあるような口調で。
さっきの驚きを返してほしかった。それに、お風呂に入りに来たはずなのに、無駄に体力を使っている気がしていた。
「いや、すみません。なんだか楽しくて」
初対面なのに失礼な女の子だった。
するとその時、二人の近くでぺちゃぺちゃと水の上を歩く小さな音が聴こえてくる。
……ん?
舞香は耳を澄まし、確かにその音が鳴っていることを確認すると、音が鳴っている辺りを観察し始める。そして湯気の中に現れたそれを、最初舞香はたわしか何かだと思っていた。しかし、違う。ちゃんと動いているのだ。
「ハムスター……?」
いや、違う。猫だ。生まれたてといった感じの黒い猫がヒトミカの足元にいた。
「ヒトミカちゃん。動物を連れて来たらだめだよ」
安堵からか、舞香はヒトミカのことを自然と『ヒトミカちゃん』と呼んでいた。それに、口調も幾分か柔らかくなっている。もう、最初に感じた殺気のようなものは忘れてしまったみたいだ。
数分の間、沈黙が流れる。ヒトミカは俯いて、何かをぶつぶつと呟いていた。
そして、ヒトミカは顔を上げる。
「見えるんですか……?」
畏怖と驚きが混ざったような……なんとも言えない口調だった。
しかし、ヒトミカの言葉の意図がよくわからない。「見えるんですか?」なんていう言い方をしたのならば、まるで他の人には見えないみたいじゃないか。
舞香は確認するように、もう一度ヒトミカの足元を見る。
小さな黒い尻尾が横に揺れていた。確かにいる。幻覚ではない。幻想ではない。
「見えるというより、いるよ。ちゃんと」
首を少し傾け、質問に対しての疑問を含んだ口調で舞香は答える。
黒猫は小さな口であくびをしていた。その後、自分の前足で耳の辺りを何度もさする。なんとも愛らしかった。
――だが、それとこれとは別だ。規則として、ここに動物を連れてきてはいけない。
舞香はもう一度注意しようと思ったが、その前にヒトミカが口を開く。
「いえ。……今の質問はなかったことにしてください。……では」
ヒトミカは踵を返し、そそくさと浴場を出ていく。
「あっ、ちょっと――」
舞香のその言葉も、スライドドアが閉まる音に遮られる。
(何がしたかったんだろ……)
突然現れて、突然去って行ったヒトミカに疑問を覚えながらも、湯船に浸かる。
「ふう」
思わず、舞香の口から溜め息が漏れ出る。
少し熱めのお湯が舞香の身体に染みわたり、疲れを排水溝に流していく。今日一日の疲れは、全て消え去っていた。
明日は久しぶりにバイトが休みだ。舞香は、明日何をしようかと考える。明後日、日曜日のバイトは特別忙しくなるだろうから、明日は一日中寝るのもいいかもしれない。久しぶりに友達とショッピングを楽しむのもいいかもしれない。でも……その前に……。
舞香は湯船の口をうずめ、息を吐き出す。湯船にぶくぶくと泡が生まれ、消えていく。舞香はまるで子供みたいだった。
(創時に謝らないと……)
もうすぐ物語が動きます。次は、「時の守り人」との出会いです。




