過去のこと
過去編です。
「何読んでるの?」
舞香の耳に、聞き慣れた声が流れる。目を向けると、舞香の母親――菜穂が、舞香が読んでいる雑誌を覗き込んでいた。
「んー。なんでもないよ」
舞香は雑誌を閉じる。別にやましいものを見ていたわけではないのだが、自分の読んでいるものを覗き見されるというのは、なんだか嫌な気分になるのだ。
「ピアス?」
しかし、菜穂はしっかりと舞香が何を見ていたのか見ていたようだ。
「うん。……まあね」
舞香は観念して答える。別に、隠すつもりもなかったのだが。
「ふーん。……そっか」
「でも、ちょっと高いかなあ」
「安いやつもあるんじゃないの?」
「あるけど、でもせっかくだから……さ」
舞香は立ち上がり、雑誌をリビングの本棚に入れる。そして、ダイニングキッチンへ。
「じゃあ、創時くんに買ってもらえば?」
菜穂もキッチンに来て、ご飯をお茶碗に入れたり、お箸を用意したり――とし始める。
「どうしてそこで創時が出てくるの」
舞香にはまったく理解ができなかった。確かに舞香と創時は幼馴染ではあるが、舞香は創時に物を買わせたことなど一度もない。
「うふふ。……なんでもないわよ」
本当に、何を言いたかったのか理解できなかった。
――でも
舞香の気持ちは少し明るくなっていた。父親の浮気で離婚してから菜穂が生き生きとしているからだ。そして、舞香は両親が離婚してよかったと思っていた。それが、菜穂のためになったと思ったからだ。
舞香は今日のおかずを全てテーブルに並べると、椅子に座る。続けて、菜穂も舞香の向かいに座る。
「ねえ。お母さんは、離婚してよかったと思う?」
「急にどうしたの」
平静を装っているつもりだろうが、舞香には菜穂が少し動揺したのがわかった。やっぱり、過去を蒸し返すようなことはしないほうがよかったかもしれない。
舞香は反省して、今の言葉をなかったことにする。
「いや……なんでもないよ」
「そっか……」
重い空気が二人にのしかかる。舞香はこの話題を出してしまったことを後悔していた。もうきっと――ずっとこの先、このことを口にする日は来ないだろう。
舞香は沈黙を破るために口を開く。
「さっ、食べよ――」
「私は――」
でも、菜穂がそれを遮る。
「私はね、もう男の人には清々してるの。また裏切られたら嫌だしね。……それに、私には舞香がいるからいいの。……それが私の答え。これでいい?」
菜穂は満面の笑みを見せる。
きっと、今の言葉に嘘はないのだろう。
舞香はそう信じて、うん。と頷いた。
――でも、信じていたのに、舞香は裏切られた。
菜穂が男性と歩いているのを舞香が見たのは、数日後の十二月八日だった。
その日、舞香は友達とショッピングセンターで買い物をしていた。
そうして、買い物がひと段落しようとしていた頃――
「ちょっと私、トイレ行ってくるね」
よほど我慢していたのか、舞香の友達は駆け足でトイレに入っていく。
舞香は壁に身体をもたれさせ、少し休憩する。一日中歩いた身体は、休息を欲していた。
「ふう」
特に何もすることもなく、舞香は何気なく通路のほうに目を向ける。吹き抜けを挟んだ向こう側の店頭には、子供が好きそうなぬいぐるみがたくさん並んでいた。今も、仲のよさそうな家族が三人一緒になってぬいぐるみを見ている。
そして、女性が横の小さな男の子に笑いかけた時、舞香の全身に衝撃が走っていた。舞香の身体が痙攣し始める。
一瞬、見間違いかと思った。でも、何度見てもやっぱりその女性は菜穂だった。
「嘘……でしょ……」
自然、舞香の口からそんな言葉が漏れていた。
『私はね、もう男の人には清々してるの』
ほんの数日前の菜穂の言葉が舞香の頭に流れる。
――あれは嘘だったのか? 信じたほうが馬鹿だったのか?
しかも、相手の男は、舞香より少し上くらいの若い男性だ。それがまたショックだった。
――いいや、本当に大事なのはそこじゃない。
大事なのは、その二人の間に、子供がいるということだ。しかも、そこまで小さくない。おおよそ、五歳といったところだ。まさか、五年も隠していたとは……。
舞香の肺が上手く機能せず、呼吸困難に陥る。必死に空気を求めてもがくが、目に映るのは幸せそうな菜穂の笑顔だった。
(ああ……ああ……。
――私を裏切ったんだ……)
その日から、舞香は菜穂と口を利かなくなった。あの日のことは、聞くまでもなかった。結局、菜穂が浮気していたから舞香の父親も浮気して、離婚したということなのだろう。
舞香は、今まで菜穂を信じていた自分が馬鹿らしく思えた。
そうして、何も話さないまま一週間が経った。
菜穂が病院に運ばれたことを知らせる電話が来たのは、その日の三時三十分だった。
その日、家にいるのが嫌で、舞香は創時を誘って駅前をぶらぶらしていた。
創時には菜穂のことを話していた。言うのは辛かったけど、それでも誰かに聞いてほしかったのだ。舞香の話を聞いた創時は、「話してくれてありがと」と言って、それ以上は何も言わなかった。でも、それが舞香にとって一番だった。
「ねえ、隣の通りに行ってみない?」
舞香は創時にそう提案する。
「いいけど、何かあるの?」
「うん。クレープ屋さんが」
「また食べるの?」
創時は呆れ顔を見せる。確かに、さっきたこ焼きを食べたばかりだが、そんなことは関係なかった。舞香は子供のように元気に頷く。
「はいはい。わかったよ…………って、どうしたんだろ……」
突然、創時の口調が不安そうなものになる。
創時の目線を追ってみると、そこは今から行こうとしている筋へ続く路地だった。
確かに妙だった。なぜか、大勢の人が路地から走って出てくるのだ。その人たちはみな、怯え、一心不乱に何かから逃げていた。この事態には、創時と舞香だけでなく、周りの人たちも戸惑っている。
「ちょっと行ってくる! 舞香はそこの喫茶店にでも入っていて! 絶対追いかけてきちゃだめだからね」
捲し立てるように創時はそう言って、逃げる人とは逆方向に路地を走っていく。
「あっ……ちょっと」
舞香がそう言っても、もうそこに創時の姿はなかった。すぐに心細くなる。
母親に裏切られ、幼馴染にも置いて行かれ――まるで、周りに誰もいなくなってしまったかのような気分だった。
逃げてきた人の肩と舞香の肩がぶつかる。舞香は、痛みも感じなかった。
(創時……早く帰ってきて)
舞香の寂しさを象徴するように、木々の間を風が通り抜け、もがり笛が鳴っていた。
いつの間にか、舞香は創時に言われた通り喫茶店に入店していた。気付けば、飲めもしないコーヒーを頼んでいた。現実逃避したかったのかもしれない。
コーヒーの水面に創時の顔が映ったような気がした。
もう、創時のことしか考えられなくなっていた。一人にならなければ、こんな感情に気付かなかった。きっとこの感情は――。
時刻を確認すると、三時三十五分だった。さっきの出来事からまだ三十分くらいしか経っていない。
電話が鳴る。
(創時ッ)
そう思って着信先を確認せずに電話に出る。
『菜穂様の娘の舞香さんですか?』
しかし、相手は聞いたことのない男性の声だった。
『はい……』
舞香は不安に駆られながらも正直に答える。
刹那、舞香の背筋に悪寒が走る。
『――菜穂様が病院に運ばれました。医師がすぐに来いと言っていますので、大至急来てください』
端的にまとめられた言葉だった。でも、だからこそ舞香はすぐに理解した。
そして、タクシーに飛び乗って病院に着いた頃、もう菜穂は帰らぬ人となっていた。
菜穂の遺体を前にして、なぜか舞香は泣くことができなかった。それどころか、笑いがこみ上げてきた。
――ははは。……ざまあみろ。
心のどこかがそう告げる。しかし、周りに警官のような人がいたため、表に笑いを表現することはできなかった。
その後、菜穂が通り魔に殺されたことを聞いた。犯人の目撃証言は多いものの、まだ捕まえることはできていないそうだ。
次の日、菜穂の葬式が行われた。舞香には多くの同情がかけられたが、あまりよくわからなかった。
そして、それから数日後、犯人が海外に逃げたというニュースが流れた。警察は、あと一歩で間に合わなかったそうだ。
――でも、そんなことどうでもよかった。
大事なのは、これからの生活がどうなるか、だ。
菜穂と住んでいた家のローンを舞香一人で払うのは不可能だし……。そもそも、舞香には身寄りがいなかったのだ。どこかに行った父親が見つかればいいのだろうが、舞香は父親を頼る気になれなかった。なので、舞香は中学に行かずにメイド喫茶でバイトを始め、未成年でも貸してくれる不動産を探し、ついにアパートを新居とした。高校は行く気がなかったのだが、創時に説得され、通うこととなった。
――そうして、舞香は『一人』でいることに慣れていった。
舞香の記憶は、現代へと戻ってくる。
(なんか、いろいろ思い出しちゃったな……)
でも、思い出したからこそわかった。やはり、舞香にこんな手紙なんていらないのだ。
舞香は手紙をゴミ箱に捨て、時刻を確認する。午後の十一時だった。一応、家の近くの銭湯はまだ開いているだろうが、なんだか行く気になれなかった。となると、他にすることはないので、できることとなれば一つだけだ。
舞香はさっとパジャマに着替え、布団に潜り込む。
ふと、一年前の創時が頭に浮かぶ。あの時から、創時は舞香の心配をしてくれていていた。だから、今回のこともきっと、舞香のことを真剣に考えた結果だったのだろう。なら――
「明日、創時にしっかり謝る」
まるで呪文のようにそう唱えながら舞香は眠りについた。
次は、金髪幼女が出てきます。




