スパゲッティ―
ヒトミカの提案によって、舞香たちは佐倉駅の大通りに来ていた。
平日の昼間だというのに、案外人が多い。一体、仕事もせずに何をしているのだろうか? ……まあ、学校をさぼっている舞香たちにそんなことを言う権利はないが。
舞香は、あの日とほとんど同じように創時を横にして通りを歩く。あの日と違う点は、ヒトミカと京一が後ろからついてきていることだ。
喫茶店の前を通ってすぐに右に曲がって、細い路地に入る。一年前と変わらずに、舞香の食欲をそそる店が軒を連ねていた。
ちょうど昼時なので食事にしたいところだったが、後ろを歩くヒトミカの目が怖いのでやめる。
しかし、さっきから妙に注目を集めていた。その視線はやはり、ヒトミカに集まっている。男性は見惚れ、女性は羨望の眼差しを送っていた。
ヒトミカを舞台に立たせるように風が金髪を乱れさせる。四方に舞った髪は、太陽の光を反射してきらきらと光りながらヒトミカの背中に戻ってくる。誰もが振り返る美貌の持ち主のヒトミカは、しかしさっきから不機嫌な顔をしている。「創時さんの隣がよかった創時さんの隣がよかった」と、呪言みたいな呟きが聞こえてくるが、きっと空耳なのだろう。ほら、あんなに空は青くて綺麗だし。
やがて、再び大きな通りに出る。
秀美な赤煉瓦造りが誰もの目を奪う。そこに軒を連ねるのは、洋の雑貨を集めた店や古風な古本屋などだ。どこの店も、景観を損なわないように派手な装飾を行っていない。きっと、条例で決まっているのだろう。
知らず、舞香は気を張っていた。
強制的に思い出されるのは、夢の記憶ではなく、未来の舞香を見た時の召集の記憶だった。
『いってえなあ!』
その叫び声で舞香は屋根の上で足を止めた。
――いや、止めたはずだった。
確証はない。でも、もっと前からその光景を見ていたような……そんな気がした。
そして、同時に何かが欠けているような感覚があった。何か、大切なことを忘れてしまったような……。
舞香は頭に痛みが走る。
わからなかった。どれだけ考えたって、頭は舞香を妨げるかのように痛みを発する。脳に支配されている舞香に、勝ち目などなかった。
さらに追い打ちをかけるかのように、脳は舞香に夢のことを思い出させる。
目の前で母親を殺される光景がフラッシュバック。
あまりのショックに、一瞬、自分が刺されたのかと錯覚してしまう。
舞香は吐き気に襲われ、必死に口を押さえて脳に抵抗する。
心が痛む。
何も思い出せない自分も、自分の感情に負けてしまう自分も、舞香は大嫌いだった。
――今の舞香なら、母親を助けることができたのだろうか?
「舞香? 大丈夫?」
舞香の異変に気付いた創時が倒れ込みそうになっていた舞香を支える。舞香はそれに応え、「大丈夫」と言いながら創時の肩を掴んで態勢を戻す。
本当は大丈夫じゃなかった。だけど、創時に心配をかけたくないから。
もう少し歩けば、辿り着く。菜穂が殺された場所に。
店と店の間の壁にあるポリエチレンの花合羽が強風に吹かれてかさかさと揺れていた。保護されている花はなんだか元気がないように見えた。
小さな子供が置いてくれたのか、名前もわからない赤色の一輪の花が茎から下がない状態で供えられていた。
舞香はこの一年間、一度としてここに来たことはなかった。電車を使う際には、わざわざ地下鉄で一つ隣の駅まで行く始末だった。
その理由はもちろん、菜穂を嫌っていたからだ。
だけど、もう誤解は解けた。
舞香は今、とても後悔している。どうして今までここに来なかったのか。……だけど、それはもう戻らない過去だった。
許してもらえるかわからないけれど、菜穂に懺悔しなければならない。
いや、許してもらえなくてもいい。それだけのことを、舞香はしてしまったのだから。
舞香は花の前にしゃがみこみ、手を合わせる。
長い時間、舞香はそこで合掌していた。
菜穂に――母親に言いたかったことを全て吐露した。
舞香は立ち上がる。振り返ると、創時、ヒトミカ、京一と目が合う。
アイコンタクトで、「終わったよ」と伝える。
「さっ、それでは本題に入りましょうか」
少し経った後、ヒトミカが言う。
本題とはもちろん、過去改変の原因を探ることだ。
「原因が見つからなくても、何かヒントが見つかればいいんだけどね」
創時が呟く。
「そんなことより、この近くにSM――――どぐしゃッ!?」
京一の言葉は、創時が京一の腹部に肘打ちを入れたことによって遮られる。ナイス、創時。
京一は腹部を押さえてうずくまっていたが、自業自得だった。というか、こんな、異国情緒溢れる場所で、「SM」なんて言葉を発しないでほしい。……いや、京一には何も話さないでほしい。
しかし、ヒント……か。
舞香は何気なく辺りを見回す。
壁の向かい古本屋の老年男性店員が、はたきで本の埃を払っていた。腰痛なのか、片手で腰を押さえている。斜め向かいのフレンチレストランには、たくさんの客が来店していた。横にある花屋の店先には、綺麗な黄色のチューリップが咲いている。
……ん?
舞香の心の中で、何かが引っ掛かる。
少し記憶を戻す。
違和感があったのは、向かい側にある古本屋だった。
舞香はもう一度そこに目を向ける。
やはり、店員が本の埃を払っていた。
……いや、そこじゃない。もっと根本的な部分が……。
やはり何かが引っ掛かり、舞香はページをめくるように記憶を巡る。
ずっとずっと奥。何気ないことまで。
そして、舞香は見つける。
これは、遊園地で久藤と対峙した時の記憶だ。
あの時、久藤はこう言っていた。
『私はあの日、事件現場横のコーヒーショップで息子が殺されるところを見てしまったんです』
おかしい。確かに、ここから数十メートルいったところにコーヒーショップはあるが、そこからこの事件現場が見えるとは思えないのだ。
――つまり、その言葉だけ、過去改変の影響を受けていない。
まるで、最初からあらかじめ作られていた言葉みたいだった。
――ッ!
そこで舞香は気付く。
口をついて、言葉が外に漏れ出ていた。
「久藤さんは、久藤さんじゃなかったんだ……」
舞香の言葉を聞いた三人は、きょとんという顔を見せる。
頭の整理がついて、今度は自ら言葉を外に押し出していた。
「久藤さんは、コーヒーショップの前で息子さんが殺されたと言っていたけど、そんなことありえないの。もし、それが真実なら過去改変の影響を受けて、何かしら言葉が変わっているはず。でも変わっていないということは――」
「それは、嘘っていうことか」
創時が舞香の言葉の先を奪ってそう言う。
「そういうこと」
舞香は頷く。ヒトミカは、驚きに目を見開いていた。
「でも、だからって包帯男が久藤じゃないってことにはならないんじゃないか? 久藤が嘘をついているだけって可能性もあるし」
京一はいつになく真剣な顔つきをしていた。眼鏡の奥の鋭い目がぎらりと舞香を見つめる。
確かに、それもあるかもしれない。
でも、舞香にはそれをきっぱりと否定できるだけの自信があった。
「久藤さんは、息子を殺されたんだよ? 息子の死を嘘で飾るはずがないし、そもそも嘘をつくメリットが見つからない。だから、久藤さんとはまったく関係のない人が久藤さんを演じて、計画通りに話しをしたって考えたほうがよっぽど現実的でしょう?」
舞香たちが見たのは包帯の顔であって、久藤ではない。つまり、侵入者は顔がばれないように火傷を装って包帯を巻いたということだ。
舞香の言葉に穴が見つからなかったのか、それ以上京一が何か言うことはなかった。
しかし、穴を見つけたのは、ヒトミカだった。
「しかし、そうなると不可解ですね」
「何が?」
創時が問う。
「だって、私たちは実際に久藤の顔を見たわけではありません。侵入者が久藤を装って素顔で来たとしても、私たちにはわからなかったはずです」
「写真を見られたらまずいからじゃないの? 久藤には家族がいるわけだし」
創時が反論する。
「……それか、犯人は私たちが知っている人かもしれませんね」
ヒトミカは創時を見つめ、不敵な笑みを見せた。
直後、舞香は寒気を感じていた。知っている人物……。そんなこと、考えたくもなかった。だって、変わる前の未来で、舞香は包帯男に殺されているのだ。……いや、もしかしたら、まだ殺される可能性はあるかもしれない。
「それと……」
ヒトミカの言葉は続く。
「どうしてわざわざ包帯男は『コーヒーショップ』にしたんでしょうか。見たところ、他に店はいくらでもあります」
「確かに……」
納得する三人を代表して、創時が言う。
「考えられる可能性として、過去が変わる前は、本当はコーヒーショップ付近で事件が起きていた……」
「でも、それだと、過去改変が起きたと共に、証言も変わっちゃうんじゃない?」
「確かにその通りです。……ですが、私にはどうしてもこの言葉が重要だとは思えないのです」
「どういうこと?」
「だって、わざわざ『コーヒーショップ』をつける意味がわからないじゃないですか。『息子が殺されたところを目撃した』。これだけで、言いたいことは伝わるはずです」
「うーむ」
創時は難しい顔をして唸る。だが、一応納得はしているようだった。今は、整理段階なのだろう。かくゆう舞香も、ついていくので精一杯だった。
「つまり、包帯男は『コーヒーショップ』という単語を用いることによって、状況を具体的にし、さもその現場にいたかのように装ったのです」
「うーん。でも、それだとやっぱり過去改変で言葉が変わっちゃうんじゃない?」
「いいえ。さっきも言いましたが、包帯男にとっては目撃場所なんてどこでもよかったんです。コーヒーショップの向かいにある店でもよかった。つまり、事件現場付近というだけで、包帯男はコーヒーショップを選んだんです。特に確かめもせず……」
だんだん、ヒトミカの言いたいことがわかってきた気がした。
「だから、過去改変の影響を受けなかった……」
創時が呟く。そこでなければいけないという理由がなかったからこそ、過去改変の影響を受けなかったのだろう。
「そういうことです。……でも、それによってさらに疑問が浮かびます」
「……」
創時はヒトミカの洞察力に驚きを通り越して呆れを感じていた。ヒトミカ一人で探偵でもできるのではないだろうか?
「コーヒーショップ付近からここまで、徒歩で一分もかかりません。つまり、過去改変が起こったといっても、時間に一分程度のずれが生じただけなんです。……しかし、そうなると、侵入者は何をしたかったのでしょう」
「確かに」
ヒトミカの洞察力に感心したのは舞香だった。
一分ずらして、侵入者は何がしたかったのだろうか? ……いや、そもそもどうやって時間を一分だけずらしたのだろうか? はたまた、偶然ずれたのか……。
どちらにせよ、侵入者の目的がまったく謎だった。
「うーむ」
舞香はどういうことなのか考えようとして、しかし失敗する。
「結局、過去が変わった原因は見つからなかったってことか……」
京一の言う通りだった。過去がどのように変わったのか、詳しくはわかったものの、根本的な部分はまだわかっていない。
「残念ですが、仕方ないですね」
ヒトミカは肩を落とす。
悪い未来の前兆のような生温かい風が通りを抜ける。
「解散しようか」
嫌な空気を破り、創時がそう提案する。
「ですね」「だね」
ヒトミカと京一が首肯。舞香は何も言わずに頷いた。
冬の空気は冷たく、風はそれを倍加させる。しかし、この時の舞香は、雨の前に感じるような生温かい風を感じた。
なんだか、嫌な予感がする。
直後、けたたましいクラクションが通りに響く。
何事かと思い目を向けると、猛スピードで車がこちらに向かって走って来ていた。
大勢の人が急いで道の端に逃げる。一体何を急いでいるのか知らないが、人が多いところをそんな速度で走ってはいけないだろう。
そこで舞香の目線に一人の少女が目に入る。ちょうど、ヒトミカちゃんと同じくらいのショートカットの女の子だ。どうやら逃げ遅れたらしいその少女にみるみる内に車が迫ってくる。少女も驚きに足が竦み、動けないようだった。今から助けに行っても巻き込まれるだけだ。
もう手遅れか。
誰もが少女の死を予感した。
刹那、舞香の横を何かがものすごいスピードで横切る。車より速いと見まがうほどのそれは、果たして創時だった。
創時は一瞬にして少女との距離を詰めると――間一髪、少女を抱き留め、アスファルトを数メートル転がり、壁にぶつかって静止する。車は何事もなかったかのように過ぎ去っていった。車のほうを追いかけねばならないのだろうが、今優先すべきは創時だった。
辺りが騒然とする中、舞香は創時に駆け寄る。
「大丈夫?」
舞香が声をかけると、「ああ。大丈夫」と苦痛に顔歪めながらも創時は応答する。そして、手元の少女を確認。少女は、心配そうな目で創時を見つめていた。どうやら、少女のほうは大丈夫らしい。
創時は立ち上がると、少女を立たせてあげる。少女は、創時の制服についた細かい砂を払って、
「ありがとうございます」
少女がぺこりとお辞儀すると、創時は頭を撫でる。されるがままになっていた少女は、やがてもう一度お辞儀すると、路地に走っていった。
「ロリコン」
振り返ると、京一はにやにやとして創時を見ていた。京一の隣に立つヒトミカは、少し不機嫌そうな顔を見せていた。「私のほうが可愛いし」と呟いていたのは、気のせいではないだろう。
「一応、逃げた車のナンバープレートを警察に通報しておきました。その内捕まるでしょう」
車が走っていった方向を見つめながらヒトミカはそう言う。
「ありがと」
創時が言う。
「いえいえ。それより、怪我はありませんか?」
創時に目を向けたヒトミカは、今度は心配そうな顔を見せる。
「実は、ちょっと右足痛いかな」
創時は苦笑いを浮かべる。
舞香は、どうしてさっき言わなかったのかと思ったが、少女の前だ。少女に罪悪感を覚えさせたくなかったのだろう。
「まあ、たいしたことないと思うけど」
心配をかけないようにするためか、創時はわざと地面を強く蹴って、右足が平気なことをアピールする。
「本当に?」
舞香は心配になるが、「ほんとだよ」と笑顔で言われてしまえば、何も言えなくなってしまう。
召集の時に支障が出なければいいのだが……。
「ロリコンロリコン」
もうそろそろしつこいです京一さん。死んでください。というか、創時の心配しろよ。まあ、創時を信頼しきっているという見方もできなくはないが。
「じゃあ、創時も大丈夫そうなんで、今から俺はSMショップ行ってくるわ」
剣呑な空気を破ろうとしたわけでは決してないだろうが、京一のおかげで少しだけ気が休まる。
京一は満面の笑みで手を振りながら通りを歩いていく。手を振り返す気にもなれず、代わりに三人は軽蔑の目で京一を見送った。それを受けて尚うれしそうな顔をする京一がいらつく。Sに鞭で打たれてご臨終になればいいのだ。
「舞香はどうする?」
創時がそう言った直後、舞香のお腹が鳴る。
「あはは。ご飯食べにいこっか」
「うん!」
元気よく頷いてしまってから、財布を持ってきていないことに気付く。無駄使いしないように、必要のない時は持ち歩かないようにしているのだ。
舞香は上目使いで創時を見る。「おごってほしいなあ」の目。ほんの何日前までは他人におごってもらうなどできなかったのに、いつの間にかこんなことをできるようになってしまった。守り人の収入でお金に余裕ができた分、人間性を失ってしまったかもしれない。本当に、お金というのは怖かった。
しかし、そんな舞香の裏を知らない創時は、やさしく微笑む。しかし、舞香の上目使いに頬を染めないなど、創時も強くなったものだ。はたまた、内心ではめちゃくちゃ照れているのか?
「もちろんおごってあげるよ。……ヒトミカちゃんはどうする?」
創時はヒトミカに目を向ける。
「私はいいです。学校の給食があるので」
「学校行くの?」
創時は驚く。まさか、まだ学校に行く気があったとは。
「もちろんです。私はそちらの腹ペコ女とは違い、真面目なのでね。それに、大人になったら夜景の見える綺麗なレストランで創時さんにおごってもらいますし」
腹ペコ女とは一体誰のことだろうか? 舞香にはまったくわからなかった。
「……」
ヒトミカの言葉が遠回しに直接的すぎて、創時は何も言えない。
ヒトミカは、面くらっている創時の表情を見ると、満足したのか、「それでは」と言って、金髪を風にたなびかせながら路地に消えて行った。
しかし、まだ小学生の子にそんなことを言われて咄嗟に否定できないなど、創時はやっぱりロリコンなのだろうか?
「行くよッ」
舞香はなぜか不機嫌になった。自分でもよくわからないのだが、心がもやもやする。
だから、創時に強く当たることしかできなかった。
「う、うん」
どうしてそんなに舞香が怒っているのか創時には理解できなかったが、これ以上何か言うと逆鱗に触れそうなので、口を閉じた。
「……で、どこ行くの?」
舞香は肝心なことを決めていなかったことに気付く。
「どこでも」
なら、うーんと高いところに行こうか。
と思ったが、やはりやめる。奢ってもらうのだ。贅沢はできない。
舞香は携帯端末を取り出し、ネットの口コミを見る。
すると、すぐに目ぼしいところが見つかった。
「ここなら、すぐ近くだよ?」
そう言って携帯端末の画面を創時に見せる。
「うん。じゃあそこにしよう」
ちゃんと見たのか定かではないが、まあ創時がいいと言ったのだし、文句は言われないだろう。
「よしっ決まり」
舞香は地図を頼りに通りを歩く。
ここを左に曲がって、次の角を右……。
路地に入ると、すぐに煉瓦造りはなくなり、普通の建物となる。しかし、やはり見慣れたこちらのほうがいいかもしれない。
だんだんと人通りが少なくなってくる。雰囲気も心なしか暗くなったような気がした。言い換えれば、落ち着いた雰囲気とも言える。
ここを右……。
そこは、狭い路地だった。こんなところに店があるとは思えない。まさか、迷ってしまったのだろうか?
しかし、地図を見ているのに迷ってしまったことを馬鹿にされる気がして、舞香はそのまま進む。
そして、見つける。看板はあまりにもひっそりとしていて、見逃してしまいそうだった。
木質の扉を開けると、鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
男性店員が営業スマイルで迎えてくれる。
「二人です」
「二名様。こちらへどうぞ」
店員に促されるがまま、店内を奥に進む。その間、舞香は店内を見回していた。
さっきの赤煉瓦ほどではないが、朱色の煉瓦が外壁を囲っていた。店の周りに建物が建っているため、窓を取り付けることができないが、LEDシーリングファンがその役目を充分に担っていた。しかも、照明も少し暗く設定されており、落ち着いた雰囲気を味わえる。それに、この落ち着きは、さっきの落ち着きと段違いだ。場所がわかりにくすぎるのか、口コミ評価がいい割に客が少ない。だが、そのほうがよかった。人の気配を感じず、二人の空間を味わうことができる。ジャズのBGMはこの雰囲気を促進させるためのものだろう。
「こちらへどうぞ」
舞香と創時は案内された席に腰掛け、メニューを受け取り、開く。
スパゲッティ、ペンネ、フェットチーネ……。さすがはパスタ専門店。様々な種類のパスタが用意されていて、そこからさらに様々な料理にわかれていた。正直、パスタの違いがわからないが。
しばらく考えた後、舞香は、無難にミートスパゲッティにする。オススメと書かれているにし、おいしいのだろう。
創時はもうメニューを閉じていた。どうやら、そうそうに決まっていたようだ。
「すみません」
近くを通った店員に声をかけ、注文を伝える。
店員が機械に注文品を入力しているのをうらやましく思ってしまったのは、職業病だろうか? 『メイド喫茶 CAT』でも、取り入れればいいのに……。
最近授業が難しいとかどうとか創時が話始めるが、そもそも授業をろくに聞いていない腹ペコ女――もとい、舞香には、授業が難しいかどうかもわからなかった。
二年生に上がれるかわからない。
創時にそう言うと、創時は冬休みにスパルタ勉強会をすると言ってきた。言わなければよかった。
背後で流れるジャズが盛り上がりを見せてきた時、注文してきたパスタが運ばれてくる。
舞香の前にミートスパゲッティが、創時の前に海鮮パスタが並べられる。
トマトの香りを含む湯気が舞香の鼻に到達し、舞香の食欲は最高潮を迎える。
合掌して、さっそくいただく。
フォークにスパゲッティを絡めて、口に運ぶ。
咀嚼する度にスパゲッティの弾力とミートの甘さが絡まり合う。さらにそこにひき肉の甘味が加わり、舞香の頬は思わず落ちそうだった。
これはあれだ。なんちゃらの宝石箱だ。なんちゃらの部分が何か知らないが。
創時のほうの皿には、海老や貝類などがごろごろと転がっていた。創時がおいしそうに食べていたので、おいしいのだろう。ちょっと食べたい。
舞香は創時よりも早くスパゲッティを平らげ、創時の皿に手を伸ばそうとする。
それに気付いた創時がパスタを切りながら空いている手で舞香の手を叩く――その直後。
突如、左鎖骨辺りに微かな痛み。
そして、脳に流れ込んでくる言葉の羅列。
――一年前、二〇三二年十二月十九日、二時五十六分
――佐倉町、東地区にて、侵入者一人を感知。
――ただちに向かってください。繰り返します……
召集。しかも、この日付は……。
「ついに来たね」
創時が言う。
そうついに来た。未来が変わっていなければ、舞香が死ぬかもしれない未来。
しかし、なぜか怖くなかった。
だって、きっと未来は変わっているから。
それに、隣には創時がいる。きっと、創時なら守ってくれる。
舞香と創時は同時に席を立ち、店を横断して扉に向かう。
「あっ、ちょっとお客様ッ! お会計ッ」
扉に手をかけようとした直前、店員の慌てた声で舞香の手は止まる。
しかし、即座に創時がポケットから財布を取り出し、お札を二枚差し出す。
「釣りはいらねえ」
ドラマでよくある決め台詞を吐き捨て、創時は扉を開ける。
どうしてそんなに急いでいるのかと目を白黒させている店員が少し気にかかったが、召集を急がなければならなかった。舞香も扉を開き、日付を念じながら過去に戻る。
店内に残ったのは、疑問符を浮かべている店員と、激しく揺れて音を鳴らす鈴だけだった。
次回予告。思い出の場所に行きます。戦います。




