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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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4/50

第四話 砂利は靴を覚えている

 夜が明けきる少し前、川にはまだ色がなかった。


 流れはあるのに停まって見え、橋脚の影だけが底から伸びてくるように濃い。


 頭上の高架は冷たく、梁にぶつかった風が砕けると、低い唸りだけが岸へ落ちてくる。


 通りのガードレールには夜露が細かく並び、誰かの呼吸に合わせるみたいに微かに震える。


 紫の看板はその震えの奥でぼんやりと浮き、まだ灯のない店内の暗さを、紙の繊維の奥からゆっくり温めていた。


 常夜紫煙堂の鍵を回すと、鈴は朝向きの短い音を鳴らした。


 湿度計は五十七%。


 針は控えめに揺れ、上がり切らない胸の鼓動のように落ち着かない。

 黄銅の秤は静かに皿を閉じ、縁の小傷に窓からの淡い光を一粒だけ宿す。

 カウンターには陶器皿が三枚。


 昨夜のうちに整えた吸殻が紙片の上で順番を守っている。

 紙片には鉛筆で引いた短い線が多すぎるほど刻まれ、線の隙間にはまだ夜の湿り気が挟まっていた。


 夜村紫郎は、最初に店の「音」を揃える。


 換気扇を一段上げ、瓶の列の口縁を指でゆっくりなぞって、乾いた硝子の囁きが同じ高さで鳴るか確かめる。

 囁きが揃うまで三往復。

 瓶の唇は朝の温度を指先に渡し、刻んだ葉の乾き具合は指の腹を軽く跳ね返す。

 その跳ね返りは日によってほんのわずかに違う。

 違いは店の呼吸の癖で、癖は後で必ず役に立つ。


 口紅の粉は、夜の間にほとんど紙へ沈んでいた。

 無水エタノールは開けず、虫眼鏡だけを取る。

 粉は粒が大きく、角が立つ。

 角が立つという事は、付着した時油分が少なかった証拠だ。

 布で擦り付けられた赤は、唇の丸い拡がりを持たない。

 角は嘘を立て、朝の光で簡単に影へ変わる。


 ドアベルが鳴き、天田芽衣子が入ってきた。

 制服の肩に夜露が一粒光り、髪に残る冷たさを店内の温度が受け取り、すぐに溶かす。


「おはようございます、紫郎さん」


「おはよう」


「倉庫の件、管理会社から。名義は個人です。ただ、家賃の引き落としは“都心リンク運送”。あのインテリア会社の関連会社です」


「直接じゃない、というわけだ」


「ええ。間にもう一つ下請け。“弦月げんげつサービス”が立替えて、都心リンク運送へまとめて請求。今の所、断片的です」


 紫郎は頷き、皿の列に視線を落とす。

 夜の間に灰の粒は落ち着き、崩れの線が昨日より澄んだ。

 澄み過ぎると、逆に嘘の輪郭が浮く。

 十の声のうち、一つだけ、朝に弱い声がある。


「今日は、裏の駐車場の砂利を見る」


「アパート裏のですよね?」


「うん。丸い砂利は靴底に残る。灰と揉まれると、音が変わる」


「音……?」


「砂利は靴を覚える」


 その言い方に、天田の口元がわずかに上がる。

 メモ帳を開き、一行目にそのまま書き写す。

 線は薄く始まり、二文字目で力を帯び、終わりで抜ける。

 筆圧の癖は、彼女の歩幅の癖に似ている。

 まっすぐで、途中で小さく跳ねる。


「それと、佐伯さんから。“まあまあ焦るな。駐車場は午後からでいい”って」


「午後からの理由は」


「“管理人が昼過ぎに来るから”。だそうです」


「了解」


 紫郎は一拍置いてから灰皿を拭う。

 円ではなく、木目に沿う細い楕円で。

 陶器の白が音を飲み込み、布の糸が灰の細粉を集める。

 集めた粉には丁子の微かな匂いが残っていた。


「もしお暇でしたら署に来ますか?あ、お仕事ありますよね……」


「行く」


 即答に苦笑する天田。


ーーー


 署の廊下は、朝の光より蛍光灯の白さが勝っていた。

 壁の掲示は月初めのままで、角のめくれた紙の影が直線を崩す。

 捜査第一課の会議室に入ると、机の上に書類の山が二つ。

 片方は薄く「倉庫契約関係」、もう片方は高く「川沿い高架下屋台聞き込み」。


「お疲れさまです」


 北条隆司が立ち上がり、軽く会釈する。

 ネクタイはきっちり、靴はよく磨かれ、目は眠っていない。

 眠っていない目は、時に他人の焦りを吸い取る。


「倉庫の名義は“村垣”という個人。住民票は外れ。居所不明。“弦月サービス”が賃料を立替えて、都心リンク運送へ一括請求」


「弦月……」


 天田が反芻した。

 響きは柔らかいのに字面が固く、どこか音楽の匂いが混ざる。


「それと“丁子”の仕入れ。屋台で売られていた包みの一部は雑貨扱いの小口。源流は、まだ見えません」


「焦るな」


 背後から声。

 会議室の空気が半拍遅れる。

 佐伯浩一が、いつもの眠たげな顔で入ってきた。

 上着の肩は落ち、ネクタイは緩い。

 笑顔の輪郭は、朝でも崩れない。


「まあまあ、若いのは走りたがる。午前は整理。午後に駐車場なら、管理人へ先に電話を」


「はい」


「それと、屋台の方は勝手に動くな。……紫郎君、君も無茶はするなよ?色々と許可はしたが君はあくまで一般市民だからな」


「心得ています」


 佐伯は椅子に腰を下ろし、紙の山を一度だけ撫でた。

 雑に見える撫で方なのに角は崩れない。

 紙の縁は指先に触れ、触れた感触は記憶される。

 記憶に残る触れ方を無意識に選ぶ人間を、紫郎は何人も見てきた。


「村垣の足取りは」


「生活安全課にも当てています」


 北条が即答し、天田へ視線を送る。

 天田は頷いてメモを取り、ページの端を折る。

 折り目は鋭く、指の腹に紙の硬さが残る。


「午後まで間がある。灰をもう一度、見ておく」


 紫郎の言葉に、天田は短く「はい」と返し、会議室の窓を少し開けた。

 冷たい空気が入る。

 温度差は紙を反らせる。

 反りの違いは書類の古さを浮かび上がらせる。

 古い紙は湿り、手に取ると音が鈍い。

 新しい紙は軽く鳴る。

 机上の山の下から、一枚だけ鈍い音がした。


「佐伯さん、この書類――」


「ん? それは前の案件。関係ない」


 佐伯は眠たげに手を振り、椅子を少し引いた。

 椅子の脚は床を擦らない。

 偶然か癖か。

 紫郎は見ないふりをして、紙の音だけを引き出しにしまった。


―――


 午後。

 アパート裏の駐車場は冬の光を跳ね返して白い。

 砂利は丸く、太陽の位置に素直に影を作る。

 管理人が帽子の庇を下げ、胸ポケットから鍵束を取り出す。

 古い鍵に一本だけ新しいのが混じる。

 刻みが鋭く、日差しを強く返す。

 新しい鍵は、最近の習慣の変化を示す。


「どの区画?」


「ここ一帯です。住人の出入りは少ない。たまに夜に見慣れない車が来るくらい」


「夜に」


「ええ。二十三区のナンバーを見た事が。型は……詳しくなくて」


 記憶は曖昧でも、曖昧さは正直だ。

 紫郎はしゃがみ、靴底の溝が作る細い谷を探す。

 谷は爪で触ると柔らかく崩れ、混ざった灰は音を持たない。

 音のない灰は夜に落ち、日の出前に湿りを吸って角を失う。


「ここだ」


 紫郎は一つの谷を指し、天田に示す。

 底の灰粒が、昼の光を嫌って潜るように縮れている。

 縮れは両切りの灰の崩れ方に似て、粒の大きさは屋台の板で見たものと同じ。

 縁に白い細粉が薄く乗る――塩。

 塩の角は丸い。

 袋から出たての角ではない。

 靴底で揉まれて角が取れた塩。

 揉まれた回数は多くない。


「塩、撒いたんでしょうか」


「撒いたのではなく、こぼした。もしくは袋の口が開いていた」


「口……」


 天田は口元で繰り返し、メモに「袋」と追記する。


 紫郎は砂利の表面を指の腹で撫で、丸さと重さの違いを確かめる。

 丸い粒は靴底の溝に入り、角のある粒は留まらない。

 丸い砂利は都会の駐車場の定番。

 鳴る音は低い。

 低い音は、夜の方がよく通る。


「車は?」


「昨夜は一台。黒っぽいワゴン。二時間ほどで出ていきました」


 管理人の視線は曖昧な空へ。

 雲の薄い層が光を均し、影を浅くする。

 浅い影の中で、砂利は形を保ったまま音だけを残す。


「ナンバーは」


「覚えとらんです」


「監視カメラは」


「角度的に出入り口の一部だけ。画質も……」


「見せてください」


 天田が素早く頭を下げ、管理人室へ消える。

 北条は砂利にしゃがみ、指で谷の縁をなぞる。

 無駄な力を使わない。

 谷を崩さず、輪郭だけを触る。


「……灰だな」


「はい」


「両切り」


「左のねじり」


 短い応酬に同じ拍がある。

 拍は心拍と重なり、紫郎の耳に心地よい。


 天田が戻り、タブレットをこちらへ向ける。

 ポールをかすめて通る黒いワゴン。

 画素は粗いが、影の切れで車種の輪郭は割れる。

 後部座席の窓に小さなステッカー。

 ロゴは読めないが、色は赤と白。


「ナンバーは……厳しいです」


「後ろを追うしかない」


 北条が立ち、砂利を離れる。

 砂利の低い音のあと、コンクリート階段の硬い音が続く。

 音は場所を正直に語る。


―――


 午後の後半。

 高架下の影は少し伸びた。

 倉庫のシャッターは開いたまま、内側の空気は古い木箱の匂いを保っている。

 机の上の鏡は昼より曇って見えた。

 埃ではなく、光の質のせい。

 光が弱ると粉の赤は生き物じみて、キャップの縁の粉は固まり、指で触れると音もなく崩れる。

 その崩れは灰と同じ音だ。


 床に残る擦り傷は朝よりはっきり見える。

 細い金属脚――スツールは二脚。

 練習用。

 練習の拍が規則正しいほど、長く嘘を続ける準備になる。

 規則は同時に痕を深くする。


「紫郎さん」


 入口で天田が手を振る。

 頬に少し汗が光る。


「管理人さん、思い出しました。“黒いワゴン、後部に赤白ステッカー。荷台に銀色のケース”」


「銀色のケース」


「楽器の……みたいだ、と」


 銀のケース。

 松脂。

 昨日の紙袋の角に残った粘り。

 弦月サービス。

 音の言葉が少しずつ繋がる。


「楽器でない可能性もあるが、重さは似る。……追う」


「はい」


 北条が段取りを手短に切る。

 駐車場の出入口、高架下の抜け道、交差点の信号周期、巡回の位置。

 全てが拍の上に置かれる。

 拍が揃えば、足は無駄に動かない。


―――


 夕方。


 川沿いの道に黒いワゴンが一度だけ現れる。

 後部座席の窓に赤白のステッカー。

 荷台の形は四角く、銀の面がひとつ。

 車体の音は薄く、タイヤだけが路面に音を残す。

 北条の車は距離を保ち、天田は助手席で息を整える。

 紫郎は後部座席で風の流れだけを見ている。

 風に押される方向へ車がわずかに流れ、曲がり角で嘘を吐かない。


「曲がる」


 北条の短い声。

 ワゴンはコンビニの駐車場へ。

 看板は白く、夜の始まりの空に浮かぶ。

 端に止まり、運転席からフードの人物。

 腕時計は右、手の甲の古い火傷がドア縁の反射で白く浮く。


 人物は店内へ。

 天田は降りず、ガラス越しに目で追う。

 紫郎は風の動く音を聞く。

 ドアが開く時だけ、風は姿を見せる。

 その形は、指の動きに似る。


 やがて人物が紙袋を抱えて戻り、発進。

 北条の車も動く。

 二度の信号で間を空け、ワゴンは小さな倉庫街へ。

 シャッターが二つ開き、一つが閉じ、角のカーブで砂利が新しい音を立てる。

 ワゴンはその音の上で止まり、バックで細い路地へ消えた。


「見失った」


 北条が舌打ちを飲み込む。

 天田が息を詰め、バックミラーを睨む。

 紫郎は影の切れを見続ける。

 影は嘘を吐かない。

 消えた影は、どこかに残っている。


「戻る」


 判断は早かった。

 元の角へ戻る。

 路地の入口に、踏み潰れなかった灰がひとつ。

 白い点。

 風に運ばれず、地面に貼り付くように止まっている。

 温度はもう持たないが、湿りは少ない。

 落ちて間がない。


「ここに入って、まだ出ていない」


「張りましょう」


 車を陰に入れて待つ。

 待つほど音は増える。

 遠くのエンジン、近くの自転車のブレーキ、高架で砕ける風の唸り。

 音が増えるほど、必要な音だけが薄くなる。


 裏で金属が擦れる音が一つ。

 鍵に似ているが鍵ではない。

 スツールの足がコンクリートの端で鳴らす音に近い。

 紫郎は息を止め、耳だけを伸ばす。

 伸ばした耳の先で、シャッターの内側の空気が小さく動いた。


「出る」


 北条がドアを開け、影へ近づく。

 天田が並び、紫郎が続く。

 路地の角で、黒いフードがシャッターの隙間から滑る。

 足音はほとんどない。

 ないが、灰は隠せない。

 靴底から白い粉が一粒落ちる。

 塩だ。

 角を失って丸い。

 昨夜と同じ。


「止まって。警察です」


 天田の声がまっすぐ届く。

 影は肩をすくめ、一瞬の躊躇のあと走り出す。

 拍に素直な走り。

 一定のリズムで、角は浅く曲がる。

 北条が追い、影は路地を二度曲がり、三度目で袋小路へ。

 先はシャッター。

 鍵は閉じている。

 影は振り向き、両手を上げる。

 フードは濃い影を作り、目は読めない。

 だが腕時計は右。

 腕の動きは左利きの癖。

 内側に古い火傷。

 指は細く、爪は短い。


「フードを取って」


 天田の声は落ち着いている。

 影はゆっくりフードを外す。

 髪は長いが、不自然――ウィッグ。

 顔は若い男。

 頬がこけ、目が乾く。

 口元に粉の赤が薄く残る。

 布から移った赤だ。


「名前」


「村垣……村垣曜司」


 声は震えないが、喉は乾いている。

 乾いた喉は、長い嘘に向かない。


ーーー


 夜の取調室は、定規で引いた線のように真っ直ぐだ。

 ライトは角度を変えず、椅子は床を擦らない。

 壁の時計は一秒を伸ばしたりしない。

 天田は腰かけ、メモ帳を開く。

 紫郎は壁際に立ち、村垣の呼吸の拍だけを数える。

 佐伯は背後で腕を組み、眠そうな目を閉じたり開いたり。

 北条は正面で短い質問の準備をする。

 短い拍は相手の心拍に近づく。


「村垣曜司。二十六。職業は」


「運送の手伝い……日雇い」


「川端祐介とは面識なし?」


「……ない」


「昨夜、あのアパートの部屋にいたな」


 沈黙。

 喉が鳴る音が一つ。

 粉の赤は口元から消えているが、爪の間に薄く残る。

 短い爪に粉が残るのは、布を強く押し付けた証拠。


「……いた」


「何をした」


「言われた通りに……吸って、捨てて。誰かが来る前に出ろって」


「誰に」


 長い沈黙。

 佐伯の背後で時計が一秒だけ長くなる――気がしただけだが、沈黙は確かに伸びた。


「“梶谷さんの所”から、だ」


 天田が目を上げ、北条の眉がわずかに動く。

 佐伯のまぶたは動かない。

 紫郎はほんの少し息を吸う。


  村垣の口から出たのは「梶谷」という名だった。

地元では顔の広い会社の重役。

 だが、その響きは人名というより“所”を指すように濁って聞こえる。

 誰の“所”か、どこの“所”かは、まだ曖昧だった。


「直接、誰に言われた」


「運送の……“弦月”の連絡。“練習しろ。十本。左で。灰皿は使うな。女に見えるように”」


「口紅は」


「百円のでいいって」


「塩は」


「……湿気で灰がくっつくから。床で広がらないように、って」


 紫郎は目を閉じ、床の灰の崩れと塩の角の落ち方を思い出す。

 塩は嘘を手伝うために撒かれた。

 だが角は揉まれて丸くなる。

 丸くなれば音は低くなる。

 低い音は、よく聞こえる。


「川端祐介は、なぜ狙われた」


「知らない。“うちに口を出したから”って」


「“うち”?」


「“所”……」


 村垣は場所で語り、人で語らない。

 人を名指ししないのは、怖れか癖か。

 怖れは汗に、癖は目に出る。

 村垣の目は紫郎を見ない。

 見ないのは、壁に映る自分の影を見ているからだ。

 影は正直で、いまも左側に濃く右に薄い。


「……川端は運が悪かっただけだ。俺は言われた通りに」


「誰に」


 さらに伸びる沈黙。

 人差し指で机の木目をなぞるくらいの長さになった時、佐伯が背を離した。

 椅子の背が短い音を出し、場が切れる。


「まあまあ、今日はここまで。若いのは焦る。焦ると余計な事を聞く」


 佐伯は眠たげに笑い、天田を見る。


「上へは俺から報告する。北条、村垣は一晩ここだ。……天田、夜村君。二人は帰りなさい」


「まだ――」


 天田が言いかけるが、北条の目が優しく止める。

 優しい止め方は、信頼を壊さない。


 廊下へ出ると、蛍光灯がわずかに明滅していた。

 規則的ではなく、長かったり短かったり。

 拍は壊れている。

 壊れた拍は夜に向かない。

 夜は規則的なものの方が、嘘を吐きにくい。


―――


 外へ出る。

 川風が一度だけ強く吹く。

 高架の梁で砕け、低い唸りが岸に落ちる。

 通りのネオンは色を持ち過ぎ、正しい影を作らない。

 正しくない影は嘘を助ける。

 だが煙は、光より影に正直だ。


「……紫郎さん」


「うん」


「村垣は、ただの“使い”ですね」


「使いだ。拍は別にある。“弦月”、“所”、“梶谷”」


「佐伯さん……来るの、早すぎませんか、あと少しで真相が分かったかも知れないのに……」


 天田が小声で言った。


 紫郎は答えなかった。

 ただ、そういう“習慣”もあるのだろうとだけ思った。


 言わなくても風が言う。

 風は音を運び、音は砂利を鳴らす。

 砂利は靴を覚える。

 覚えた靴は、同じ場所に戻ってくる。


 常夜紫煙堂に戻る途中、橋の下で誰かが煙草を吸っていた。

 火は弱く、灰は短い。

 灰は灰皿に落ちず、欄干の外へ零れ、風に運ばれずに水へ落ちて音もなく消えた。

 消えた音は石の下で長く残る。


 店に入ると、瓶の列は夜の顔だ。

 湿度計は五十八%。

 針は高くも低くもなく中央で息を止める。

 秤は皿を閉じ、針は零。

 皿の縁を指で軽く叩くと、陶器の心臓は一度だけ打ち、すぐに木に吸われる。


「紫郎さん」


「なんだ」


「……今日の“決め”、お願いします」


 天田の声は笑ってはいないが、強くもない。

 ただ、そこに在る。

 肩に今日一日の拍が乗っている。


 紫郎は灰皿を中央に置き、瓶の唇をひとつ撫で、息を一度だけ整えた。

 店の空気が静まり、言葉が自分の位置を見つける。


「煙は嘘を吐かない」


 声は大きくない。

 だが瓶も木も秤も、その長さを知っていた。

 言葉は店に沈み、紫の看板の色で止まる。

 外の風が一度だけ向きを変え、通りの砂利が低く鳴る。

 砂利は靴を覚え、靴は拍を持つ。

 拍は、必ず戻ってくる。


 夜はまだ浅い。

 店の呼吸は長くなりはじめ、十の声は騒がしい。

 けれど、その中の一つの声は、確かにいま、輪郭を持ちはじめていた。


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