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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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23/50

第二十三話 湾岸の灰

 港の朝は、金属の匂いで始まる。

 クレーンの腕は曇り空をゆっくり掻き、コンテナの角は潮を含んだ風で鈍く光る。

 舗装の石はまだ夜の湿りを抱え、タイヤ痕の黒が細い帯になってヤードの端から端へ伸びていた。

 常夜紫煙堂の瓶とは違う種類の硬さが、ここでは空気そのものに混ざっている。

 これは常夜紫煙堂事件録である。


「紫郎さん、入構証、確認されました」


 天田芽衣子が胸ポケットを軽く叩く。

 制服は作業ベストに隠し、首からは安全帯。

 靴底は新しいゴムで、油に強い。

 目は眠っていない。


「よし。北条は外周、島倉は搬入動線、杉谷は管理事務所の目録。俺達は“置く”」


「“追わない”」


「そうだ」


 湾岸管理棟の影を抜ける と、冷却ドラムの低い唸りが地面に伝わって来た。

 弦月サービスの仮設エリア。

 金網で囲われた中に、木箱が四つ。

 ラベルは『回収用器材』『香盤表箱・返却予定』『舞台小物・洗浄済』。

 脚高は“四”。

 真鍮の取手は指の腹を通す 為に“裏へ二センチ”の空間を残し、蝶番は左寄せが 一つ混じる。

 昨日まで舞台裏で見た顔が、港でも同じ顔をしていた。


「札だけ違う」


「箱は同じだ」


「――“一分”の外だと、丁寧に並べるんですね」


「自分達だけしか触らない 時間帯だからな」


 紫郎は手袋越しに取手の裏を軽く撫で、綿棒で“橋”を薄く置いた。

 見えない。

 匂いも無い。

 だが触れた指だけが、確かにそれを覚える。

 カメラの死角は、潮風の流れが教える。

 置いて、戻る。


「紫郎さん。――例のロッカーの木箱、やっぱり“葉巻用ヒュミドール”の偽装で間違いなさそうです。『七十/七十の法則』、葉巻は湿度七十%・温度華氏七十度が目安って……けど、あの箱は加湿の痕跡が薄かった」


「葉巻なら“スペイン杉”の香りと水がもっと“生きて”いる。――『七十』はここじゃない」


「はい」


 フォークリフトが一台、鼻先に白い塊を付けて通り過ぎた。

 充電エリアの近く、灰色の床に小さな黒い点が三つ、寄り添うように残っている。

 タバコの吸い殻。

 紙は白く、フィルターの端が薄く灰色。

 一本は先が潰れ、一本はまっすぐ、もう一本は真ん中から折れている。


「拾う」


 天田がピンセットで慎重に三本とも証拠袋に入れた。

 紫郎は別の綿棒で、フィルターの内側をわずかに触る。

 爪先で軽く転がしてみる と、米粒より小さな黒い粒が一つ、袋の角で光を吸った。


「活性炭の“化粧落ち”だ。炭入りの銘柄が混ざっている」


「この場所で?」


「“臭いの仕事”をする人間は、匂いを“薄める”為に活性炭フィルターを選ぶ 事がある。だが、炭は手に乗る。――汚れを嫌う手は、口元でそれを外す癖がつく」


「フィルター無しも一本あります。味を強くしたい 為に?」


「或いは“引き”を確かめる 為。フィルターは煙の路を狭め、香りを吸う。好みが分かれる」


 管理棟のドアが開き、青いベストの現場主任が歩いて来る。

 名札は『洞口』。

 肩は真っ直ぐ、靴は油に馴れている。


「安全確認。ここで何を」


「資料の回収です。協会からの依頼で」


 杉谷が先に出て、バインダーを差し出す。

 洞口は一瞥して頷き、ヤードの端を顎で示した。


「十時から搬出一本。赤白のバンが入る。停車は五分厳守」


「ありがとうございます」


 洞口が去る と、風向きが変わった。

 海からの湿りがわずかに増し、遠くのホイッスルが短く鳴る。

 天田は周囲を見回し、囁く。


「“K”は来ますか」


「来る。札は変えても、箱は変えない。――ここで“戻し返す”準備だ」


「了解」


 紫郎は工具袋から薄いピンセットと紙やすりを 一つ出し、天田は証拠袋の角に吸い殻を寄せて“紙の目”を観察した。

 一本は薄いクリーム色に繊維が浮き、少し長い。

 もう一本は真っ白で薄く、もう一本は淡いベージュで“透明感”がある。


「この紙、麻繊維の感じがします。オーガニック麻紙の巻紙、よく見ますよね。OCBとか」


「それだと燃え方が“軽い”。灰は“細く”なる」


「港の風なら、先端が右に倒れる」


「倒れる」


 二人は視線だけで頷き、置いた“橋”の周辺に無造作の布切れを二枚、無印のガムテープ、黒マジック。

 舞台裏の空気のまま、港に“袖”を作る。

 追わない。

 置く。


ーーー


 十時三分。

 赤白のステッカーを貼った黒いバンが金網のゲートで止まり、洞口の手振りで静かに入って来た。

 運転席は帽子の影、助手席は空。

 荷室は薄暗い。

 バンは冷却ドラムの前で一度停止し、アイドリングの鼓動だけが地面に伝わる。


「三分」


 天田が小さく言う。

 バンのスライドドアが音も無く開き、作業着の男が一人降りる。

 肩は細い。

 踵の返しは左。

 歩幅は一定。

 左の手は、水平に動く 時にわずかに内へ入り、指は“角”を押さえる癖。

 舞台で見た“手”だ。


 男は『舞台小物・洗浄済』の箱に寄り、真鍮の取手に触れず、蝶番の隙間に左の指を入れて薄底を呼吸させる。

 黒い封筒が 一つ、取手裏の二センチを滑って出てきて、同じ厚さの封筒が入る。

 戻す。

 座る。

 三十秒。


「今」


 男が去る背中を目だけで“見送る” と、紫郎は箱の前に膝を落とした。

 蓋は触らない。

 蝶番の“抜け”だけをなぞって薄底を“呼吸させずに”滑らせ、封筒を 一つ取り出す。

 封は切らない。

 紙だけを抜き、用意した“空白紙”を差す。

 戻す。

 座らせる。


 バンの後ろに男が戻り、スライドドアは無音で閉じた。

 アイドリングが一度だけ強くなり、すぐ弱まる。

 エンジンは切れない。

 五分が近い。


「外周、北条。ナンバーは拾えた。運転席、電話。相手不明。停車四分三十」


「了解。――杉谷、管理帳、押さえられるか」


「試みます」


 杉谷は管理棟へ小走りに消え、島倉は台車でヤードの角に“偶然”を作った。

 洞口が腕時計を見、バンへ手振りを送る。

 出る合図だ。

 バンは静かに動き出し、ゲートの向こうに消えた。


「……『在った事実』、置けました」


「ああ」


 二人は同時に息を吐き、箱から抜いた紙を開く。

 紙は三枚。

 『搬入・回収ルート』『回収後の“一時置き場”図』『ブレンド補填メモ』。

 最後の紙には短い英略号がいくつも並ぶ。

 『BVT 60/OR 12/BR 25/LO 3』『水分 9→6』『北回り』『帳尻:鳳章』『通関:別便/箱経由』。

 角に『K-12/31』。

 筆記は軽いが“左の入れ”。


「“BVT”:ブライト・バージニア、甘味。『OR』はオリエント。香りを“立てる”。『BR』はバーレー、キック。――“北回り”で水分を六まで落とす」


「産地名は無い。『帳尻:鳳章』だけ」


「名札は扉を開ける 為の言葉だ。匂いの仕事は別の紙に書く」


「“K”は『名札』を使い、港で香りを“組む”。舞台で“見せ”、展示で“渡す”。」


「筋が出たな」


 紫郎は紙の角を指で押さえ、呼吸を 一つ長くした。

 港の風が、その呼吸の長さに合わせて一瞬だけ細くなった気がした。


ーーー


 管理棟の廊下は、油と紙の匂いがうすく混じっている。

 杉谷が眼鏡を押し上げ、コピーを三枚、バインダーに挟んで戻って来た。

 目は赤いが、芯は揺れていない。


「回収ルート、コピー取れました。保管棚『D』から『F』へ。『F』は扉が二重で、外側の目録には“空”。内側にだけ“有”。朱は……増えました」


「無理はするな」


「はい」


「『F』の扉、手は?」


「真鍮ノブ。高さ百五。――“左”の擦れがあります」


「良い。今夜は『F』で“置く”。――“追わない”」


「了解です」


 廊下の角に、眠たげな目と緩いネクタイが見えた。

 佐伯浩一。

 いつもの歩幅、いつもの白線の避け方。

 粉は踏まない。

 彼はふわりと笑って、何気ない調子で言う。


「若いの、焦るな」


「はい、課長」


 天田の返事は短く、表情は動かない。

 佐伯は頷き、外へ向かった。

 背中は軽い。

 軽さが“在った事実”として紙に残る。


ーーー


 昼を過ぎる と、風向きが変わった。

 陸からの乾いた風に、どこか甘い影が混じる。

 紫郎は鼻先でそれを捕まえ、目を細くした。


「“北の乾き”。――オリエントは“日”で乾かし香りを立て、糖は少ない。バージニアは“火”で乾かし、糖が残る。混ぜる と、甘さの線の中に香りの針が立つ」


「今日の紙、“BVT 60/OR 12”。……数字通りの匂いがします」


「港の風で、なおさら“立つ”」


 充電エリアの灰色の床で、朝拾った吸い殻の近くに新しい灰が落ちた。

 灰は軽く、先端が右へ倒れて止まる。

 紙は淡いベージュ。

 薄く透ける。

 火はよく走る。


「麻紙の燃え方ですね。――“透明感”がある」


「麻は軽い。――『紙で速度、葉で香り、フィルターで印象』をいじる」


「“K”は“紙”も選ぶ」


「選ぶ」


 紫郎が小さく頷いた 時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 差出人不明のメール。

 件名は空白。

 本文は、一行だけ。


 『扉F、今夜二十二時。――K』


 時間が“置かれた”。


ーーー


 日が落ちて、ヤードの影は細長く伸びた。

 金網の外は暗く、内は白い照明で均されている。

 『F』の扉の前。

 真鍮ノブは手の高さに冷え、足もとのラインには人の往来が薄く重なっている。

 北条は外周、島倉は台車で入口の“偶然”を作り、杉谷は管理室の“朱”と戦う。

 紫郎と天田は扉の前、影の縁に立つ。


「“置く”のは二つ」


「“橋”と、“戻し返す”為の空白紙」


「そうだ」


 扉が開いた。

 中は細い通路。

 金属棚が二列。

 棚のトレイに箱が二つ。

 『香盤表箱・返却予定』。

 脚高“四”。

 蝶番は左寄せが 一つ。

 取手裏の二センチ。

 ――同じ。


 天田が写真を撮り、紫郎が薄底を“呼吸させずに”滑らせる。

 封は切らない。

 紙だけを抜き、同じ重さの空白紙を入れる。

 戻す。

 座らせる。

 薄底の戻る音は短く、棚の金属に吸われた。

 扉を閉める。

 鍵はそのまま。

 “在った事実”だけが、こちら側に来た。


 廊下に戻る瞬間、通路の端で誰かの靴音が止まり、すぐ動いた。

 眠たげな目。

 緩いネクタイ。

 ――見間違える訳もない。

 佐伯が別の扉へ曲がって行く。

 偶然。

 偶然は重なる。

 重なりは、今はただ“置く”。


「戻ろう」


「はい」


ーーー


 常夜紫煙堂。

 夜の店内は、瓶の唇が囁く高さで静まり返っている。

 秤は皿を閉じ、針は零。

 鏡の面は曇らず、ガラス戸の向こうの看板の紫が歩道のタイルを薄く染めた。


「開けるぞ」


「お願いします」


 封筒から紙を出す。

 今日のは二枚。

 『“補填ブレンド”の調整指示』『“口封じ”の空欄契約書(未記入)』。

 調整指示の紙には、短い行が三つ並ぶ。


 『BVT 58→54(甘味抑)/OR 15(香立)/BR 27(キック)』


 『紙:麻 透軽(※OCB可)』『フィルタ:デュアルチャコール(※AFT不可)』


 『F→D→港外 ※三分止/一分差/“戻し返し”警戒』


 角に『K-12/31』。

 筆圧は軽い。

 左の入れ。

 紙の目は“港の縦”。

 昨日の“横”と、また繋がる。


「……“K”は、こっちの“戻し返し”に気づいてる」


「『警戒』と書く人間は、『出来ない』と書かない」


「出来ない、と言わない」


「うん」


 紫郎は紙の『麻 透軽』『デュアルチャコール』を指で叩いた。

 軽いリズム。

 瓶の唇が一つ囁き、甘い影が机に浅く落ちる。


「麻紙は薄く、燃えが軽い。灰は細く倒れる。活性炭は臭いを抑え、揮発成分を吸う。――“見せたい香り”だけを前に出す 為の配合だ」


「BVTを下げて、ORを上げる。……甘味を抑えて『立ち香』を強くする」


「舞台向けの“演出”だ」


「展示は“渡す”。舞台は“見せる”。港は“混ぜる”。」


「名札は“通す”。朱は“遅くする”。――『K』はそれを全部、時間で繋ぐ」


 天田はうなずき、もう一枚の紙――未記入の契約書――を指で押さえた。

 発注先、金額、日付、全て空白。

 右下だけ“社印”のスペース。

 『鳳章』の名が、小さく透かしで入っている。


「……『口封じ』は、紙でやる」


「紙でやる」


「“K”の『名札』は、鳳章の扉を開ける 為の言葉。――扉の向こうで、誰が“時間”を作ってるかは、まだ置く」


「置け」


 紫郎は灰皿を中央に寄せ、指先で縁を 一度だけ鳴らした。

 店の空気が身を縮め、すぐ戻る。

 瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。

 鏡は曇らない。


「天田」


「はい、紫郎さん」


「煙は嘘を吐かない」


「……はい」


 言葉は小さく、木と金属と硝子の間に沈んだ。

 外で川風が橋脚で砕け、低い唸りが地面に溶ける。

 港で拾った灰は袋の中で静かに横たわり、麻紙の“透明感”はなお薄く残っている。

 追わない。

 置く。

 置いた“在った事実”は、明日も時間をこちら側へ引き寄せる。


「次は、“F”の先。『D』で『誰の手』かを押さえる」


「はい」


「杉谷には休ませろ。朱は俺達の仕事じゃない」


「分かりました」


 ガラス戸の札を“準備中”に返す と、看板の紫が一段と濃くなった。

 港の金属の匂いは遠のき、店の香りが戻って来る。

 瓶の列は影の節で静かに区切られ、秤は皿を閉じたまま針を零に置く。

 紙の上の『K-12/31』は、まだ名ではない。

 だが、手の記号は十分に濃くなっている。

 焦らず、しかし急いで――二人は次の置き場所を、静かに決めた。

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