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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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第二十二話 直らない座り

 朝の光がアーケードの天窓でやわらかく割れて、常夜紫煙堂のガラス戸に白い帯を何本も作っていた。

 瓶の列は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。

 カウンターの端には“返却箱”と同規格のダミーが 一つ。

 脚高“四”、真鍮の取手、蝶番は片側だけ左寄せ。

 取手の裏には二センチの空間。

 木口は乾いているのに、板の芯には薄い甘さが残り、触れる 指先がその温度差を覚える。


「おはようございます、紫郎さん」


 鈴が鳴って、天田芽衣子が入ってきた。

 襟は正しく、胸ポケットのペンは二本で差し込み向きが揃っている。

 靴底は昨夜の小雨をほとんど拾っておらず、踵のゴムが新しい。


「おはよう、天田」


「協会の杉谷さんから。今日、展示棟と事務棟で“札の貼替え講習”。『訂正印の箱』は午後いちで“監査部”が回収に入るそうです。弦月サービスの便で」


「“札を変える言葉”と“箱を運ぶ手”が、今日も同じ紙の上を歩く」


「それと、弦月のヤード。フェルトの厚みが混在してるって島倉さんから。『急ぎの切り方と丁寧な切り方が混じってる』そうです」


「混在は“二種類の手”。……今日は『直らない座り』を用意する」


「そんな事が出来るんですか?」


「角だけ、ごく薄く。音は直らない。――“習慣の手”はそこで苛つく」


 紫郎はピンセットでフェルトの角をほんの紙一枚分だけ起こし、極細の砂粒を 一つ潜らせた。

 貼るのは角だけ、中心は敢えて“浮かせる”。

 指で押して戻して、押して戻して――“座り”の音が柔らかく裏返る 所まで追い込む。

 板と床が歌う高さは、現場で働く人間の耳ほど正直に拾う。


「『橋』は」


「取手裏の二センチに、綿棒で一筆。――触れた指だけが覚える薄さだ」


 棚の瓶から、小さなスポイトで“No.18 試作三一”を綿棒に 一滴。

 蜂蜜の影のような甘さが、見えない薄い膜になって空気の底に沈む。

 違法性は無い。

 ただ“在った事実”を指先に残す薄さだ。


「北条は外周、島倉は搬入動線、杉谷は“監査部”の回収の揺れ。私達は『扉の手前』を押さえます」


「追わない、置く。――それと、紙の癖も見ておけ」


「紙の癖?」


「札のベース紙は上質紙でも、切り出しの向きで繊維の割れ方が変わる。アラビアガムの水で貼る と、繊維が立つ“縦”、寝る“横”。『K』の手はそこを跨いでくる」


「了解です」


 鈴がもう一度鳴った。

 眠たげな目、緩いネクタイ。

 課長の声が、入口の影で止まる。


「夜村さん。展示棟の講習、臨検扱いで覗くなら、これを胸に付けとけ」


 差し出されたのは「来客管理」の仮バッジだった。

 色褪せた透明ポケットに紙片が入っている。

 字は癖がない。

 公的に用意されたものだ。


「課長。ありがとうございます」


「礼はいい。――焦るな。段取りで勝て」


「はい」


 佐伯は鏡の面で自分の額の汗を拭き、粉も白線も踏まず、鈴を鳴らして出て行く。

 足音は軽く、言葉は淡い。

 必要な物だけを置いて、何も持って行かない。


「……頼れる上司って、こういう人なんでしょうね」


「そうだな」


 紫郎は短く笑い、ダミーの箱の蓋を閉じた。

 黄銅の秤は皿を閉じたまま、零の位置で店の気配を止めている。


ーーー


 午前十一時、紫園ホール併設の展示棟。

 白い廊下は照明で均され、各ブースの看板はやや過剰に眩しい。

 鳳章インテリアのブースは角地。

 表は木口の面取りが過剰に丁寧で、裏には“札違いの同じ箱”が 二つ。

 脚高“四”、取手裏二センチ。

 蝶番は左寄せが 一つ。


「貼替え講習はこの裏です。監査の方も見に来ます」


 杉谷が眼鏡の奥で目だけを動かし、天田に合図を寄越す。

 北条は通路の角で外周カメラの角度を確かめ、喫煙所の“流れ”と時間の拍を頭に入れた。

 島倉は台車を押しながら、箱の脚と床材の“遊び”を指で撫でる。


「入館。弦月サービス、二名」


 無線に北条の低い声。

 黒い作業着の女――朝比奈。

 軍手の上に薄い手袋、角を押さえる癖。

 もう 一人は男――三谷。

 踵の返しは左、利き手の“入れ”は左、拭き癖は右腿。

 歩幅は一定、目は箱の“座り”に落ちる。


「貼替え、お願いします」


 講習の名目で、二人は“返却箱”の札に手を伸ばす。

 朝比奈は角を押さえ、真ん中を指で軽く押して紙の中で“裂き”、滑らせる。

 手は清潔で癖が少ない。

 三谷は角に指を入れかけ、思い出したように真ん中押しに“訂正”して滑らせる。

 古い癖は指に残ったまま、動きだけが直る。


「座り……悪いな」


 三谷が小さく吐き、脚のフェルトを押さえる。

 角で“鳴く”。

 キュ、という短い音。

 三谷の第二関節が白くなり、息が 一度だけ止まる。

 苛立ちを音が拾う。


「雨の日は、床が膨らむ事がある」


 紫郎は淡々と答え、何も直さない。

 音は“直らない”。

 三谷はもう 一度、角を押さえる。

 キュ。

 鳴く。

 息が詰まる。

 朝比奈が視線だけで制し、札の貼替え作業を続ける。

 端で空気を抜く 所作は、美しい。


「喫煙所、使わせてください」


 朝比奈が言う。

 講習は一区切り。

 通路の視線が表へ寄り、裏が薄くなる“止まり”。

 二人は灰皿へ向かった。

 活性炭粒タイプのフィルターを潰す と微かに黒い粉が指に付く。

 両切りの火皿は温度が上がりやすく、灰は細く裂けて落ちる。


「活性炭、粒の径は国産の『J規格』。両切りはバージニア寄りの甘さ。葉はブライトが強い」


「『港外混合ロット』の帯って、これですよね」


「そうだ。フィルターの炭は匂いを吸うが、葉の糖までは吸わない。――だから、甘さは“残る”」


 灰皿の縁に押し付ける 指の癖。

 三谷は右腿で 一度だけ指を拭いた。

 布の毛羽の上に薄い“曇り”が残る。

 朝比奈は角を押さえる癖のまま、灰皿の“角”を避けて煙を置く。


「外周、拾えている。活性炭は『北の乾き』。両切りの灰は“途中で潰れた”帯。――港外混合」


 北条の声が落ちる。

 天田はノートに小さく『右腿/曇り』『鳴き→白』『活性炭粒・甘さ残る』とだけ置いた。

 名に飛ばない。

 事実だけを並べる。


ーーー


 正午過ぎ、協会の事務棟。

 廊下の空気は紙と油の匂いで乾き、金属の棚が等間隔で並ぶ。

 壁際の机の上に小さな木箱。

 “訂正印”と朱で書かれ、蓋は半開き。

 中には札の切れ端と判の薄い布が入っている。

 胡桃油の甘い影がかすかに揺れた。


「“監査部”の回収は、あと十五分」


 杉谷が囁き、管理室の向こうを顎で示す。

 通路の端に弦月サービスの帽子――だが制服の胸ポケットに“協会”のバッジ。

 外部と内部の“名札”が混じっている。


「“扉を開ける言葉”を二つ持つ手だ」


 紫郎は頷き、木箱の脚に視線を落とした。

 ――フェルトは新しい。

 だが角の 一つだけ、飴のように“鳴く”ように見える。

 触らない。

 音は“在る”だけで良い。


「回付します!」


 事務員が二人、小走りで現れる。

 背中の緊張が“急ぎ”を描き、踵の返りが一定で無駄がない。

 机の“訂正印”の箱に手を伸ばす 直前、通路の影が 一つ、薄く膨らむ。

 ヘルメット無し、肩の線が硬い。

 “左の入れ”。

 ――三谷だ。


 彼は事務員の動きに重なる ように近づき、箱の取手に触れず、蓋の“真ん中”を指で軽く押して“裂き”の感触を確かめる。

 ――『現場と同じ手』。

 一息。

 持ち上げようとして、止める。

 踵の返りが半歩だけ乱れる。


「おう、ここに居たのか。――臨検の紙、管理へ預けておいてくれ」


 通路の奥から、佐伯が現れた。

 眠たげな目、緩いネクタイ。

 手には透明ポケットの書類。

 天田へ、それを渡す。


「課長、助かります」


「段取りが先だ。――続けろ」


 佐伯は視線を机から外し、事務員に目を向け、背を向けた。

 通路の白線を踏まず、粉も踏まず、すぐに消える。

 誰かの手を遮ったわけではない。

 ただ“必要な紙”を置いて行った。


 “監査部”の腕章が 二つ、台車を押して現れる。

 帽子の角度、歩幅の一定、声の高さ――“手順に慣れた”役者の動き。

 杉谷が脇に控え、天田は壁際で“見送る目”で見た。

 木箱は台車に“座り”、鳴かず、静かに動き出す。


「北条」


「裏へ回る。外周にバン。弦月の便。――搭載、今」


「島倉」


「搬出動線、変わらず。台車のゴムは新しい。音が静か過ぎる」


 運び出された木箱は、弦月の白いバンの奥で、一つだけ“鳴かない”。

 ――直らないはずの“鳴き”が消えた。

 誰かが現場で直した。

 三谷か、“安全対策”の別の手か。


「追わない。置け」


「了解」


 天田は箱の通路を目で追うのを止め、紙の角に短く『座り良過ぎ/静音台車』と書き添えた。


ーーー


 午後四時、弦月サービスのヤード。

 海からの風は乾いていて、簡易倉庫のシャッターは半分上がっている。

 フォークリフトの唸りが低く、鉄の匂いに薄い油が混じる。


「戻った。“訂正印”の箱」


 島倉が帽子のつばを触り、顎で指す。

 白いバンの荷台から、台車へ、そして簡易棚へ。

 動きは滑らかで、音は静か過ぎる。

 三谷が“座り”に満足した顔で、一歩下がる。

 朝比奈は角を押さえる癖のまま、箔の剥げに目を落とす。


「今だ」


 紫郎は“見せる動き”だけで近づき、箱の“真ん中”を押して紙の中で“裂く”手順を口の中で反芻する。

 触れない。

 触れてはいけない。

 ただ、音を聴く。

 棚に乗せられた 音は、鳴かない。

 ――やはり直してある。


「フェルトの角、貼り替え。接着剤は速乾。シアノ系じゃない、ニカワ寄りの匂いだ」


「応急で“現場材”。『安全対策』の腕章、指の幅は“左”」


 北条の静止画が天田のスマホに届く。

 腕章の白、袖の縫い目、手袋の薄さ。

 顔は映らないが、手の入れは左。


「紙袋の口に胡桃油の匂い」


 島倉が囁く。

 棚の陰で誰かが古い“返却札”をまとめている。

 袋口の布目に、胡桃油の甘さが薄く残る。

 布を巻く癖――『K』の記号。


「胡桃油は『K』の手。――名ではなく記号だ」


 紫郎は鼻先で風を嗅ぎ、紙と木と油の層を分けて心に置いた。

 『札を変える言葉』は“港”へ。

 箱は木で運び、紙で帳尻を合わせ、手は左。

 音は直され、座りは良くなる。

 けれど、取手裏の二センチに置いた“橋”は薄く呼吸している。

 触れた者の指の温度が、木に短く残る。


「杉谷」


「監査部名義の伝票、鳳章の湾岸倉庫へ直行。“別便”。品名は『訂正印管理用具』」


「用具、ね」


「言葉で扉を開ける 為の名札です」


「扉は開く。――中身は変わらない」


 天田の喉の奥が緊張で鳴った。

 拳を握り、吸い込み、吐く。


「……紫郎さん。追いませんか」


「追わない。――置く」


 紫郎は静かに言い切った。

 音は直せる。

 だが、匂いは消えない。

 木が覚える 指の高さは消えない。

 喫煙所へ行けば、右腿で拭く。

 布の曇りはまた出来る。

 『習慣の手』は変わらない。


ーーー


 日暮れ前、常夜紫煙堂。

 看板の紫が濃さを増し、ガラス戸の内側で細く伸びる。

 瓶の唇は同じ高さで囁き、秤は皿を閉じたまま針を零。

 鏡は曇らず、木目は浅い谷を素直に見せる。


「まとめよう」


「はい」


 天田はノートを開き、今日の“在った事実”を箇条書きで置く。

 三谷の苛立ち――第二関節の白。

 右腿の拭き跡。

 喫煙所の活性炭粒タイプ(炭は匂いを吸うが、糖の甘さは残る)。

 両切りの灰(火皿温度が上がり、細く裂け落ちる)。

 事務棟で“訂正印”の箱の回収。

 弦月の台車の“静音”。

 ヤードでフェルト貼り替え。

 “安全対策”腕章。

 紙袋の胡桃油。

 伝票『監査部名義/別便/湾岸倉庫』。

 仮バッジは佐伯が用意。

 ――名は書かない。

 手だけ置く。


「紙の話をもう少し。――札のベース紙、今日のは“横”で切ってた。繊維が寝て、端の毛羽が短い」


「展示棟の標準は“横”。港の伝票は“縦”。『K』の記号はそこを跨いでいる」


「場所を選ばない、ですね」


「そうだ。――それと、巻紙」


「巻紙?」


「今日、三谷がポケットから一度だけ出して、すぐ戻した薄青のブック。角の銀、端の膠の乾き……OCBの薄紙だ。薄紙は燃焼温度が上がりやすく、灰が細くなる。『両切りの灰の裂け』と一致する」


「だから、港外混合の“甘さ”を残せた」


「フィルターを通さず、薄紙で。――味は強く出る。匂いも強く残る」


「……匂いは残る」


「匂いは残る」


 天田はメモの角を指で整え、筆圧を刻む ように一行ずつ重ねた。

 『左の入れ/複数』『“K”は記号』『鳴き→直し/安全対策』『紙 横→港 縦』『OCB薄紙→灰細』『活性炭→甘さ残存』『用具名札→湾岸』。

 線と点が増えるのに、名はまだ出ない。

 出さない。


「課長へ、どう報告しますか」


「講習の様子と、手順の“良い面”だけ。音の話はしない。――段取りで勝て、と言われた」


「はい」


 ポストに薄い音。

 封筒は白。

 封は無く、紙は 一枚だけ。

 『直らない音は、現場で直せ。煙のない手で。――K』。

 筆圧は浅く、入りは左。

 紙の端に微かな灰色。

 触れて崩す と、葉巻の灰が“途中で潰れた”匂いを ほんのわずか残す。


「“煙のない手”……」


「『音』だけで進めという 挑発だ。――だが、音は“直せる”。匂いは“直らない”」


 紫郎は封筒を閉じ、カウンターの端に置いた。

 黄銅の秤の皿を軽く押す と、縁が 一度だけ薄く鳴る。

 鏡は曇らず、店の空気がそっと身を縮め、すぐに戻る。


「紫郎さん」


「なんだ」


「私、あの『鳴き』の音、嫌いです。妙に神経を撫でられるみたいで」


「嫌いでいい。嫌い は、耳が敏感になる」


「……はい」


「耳が拾い、鼻が置き、紙が繋ぐ。――それで十分だ」


「ええ」


 鈴が鳴り、眠たげな声が入口の影で止まった。

 佐伯が、仮バッジの控えと、臨検の受付印の写しを差し出す。


「手続きは通しておいた。――書類は机に置いとけ」


「助かります」


「礼はいい。若いのは、段取りで勝て」


「はい」


 佐伯は踵を返し、通路の白線を踏まず、粉も踏まず、鈴を鳴らして出て行った。

 置いていったのは、必要な紙と短い言葉だけだ。

 天田はその背を目で追わず、ノートに一行だけ加えた。

 『手続き→課長/段取り』。


「天田」


「はい、紫郎さん」


「煙は、嘘を吐かない」


「……はい」


 言葉は大きくない。

 けれど、木と金属と硝子と布の間で、その長さを皆よく知っている。

 外で橋脚の風が一度だけ低く鳴り、商店街の影が長く伸びた。

 扉の札を“準備中”に反し、二人は静かな歩幅で、湾岸へ走る“札の言葉”の先――次の“置きどころ”へ段取りを進めた。

 焦らず、しかし急いで。

 匂いは残り、音は消え、紙は繋がる。

 だからこそ、彼らは“追わない”。

 置いて、待つ。

 そうして必ず、届く。


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