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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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第二十一話 座りを崩す

「おはようございます、紫郎さん」


 鈴が鳴り、天田芽衣子が入ってきた。

 濡れた傘を外のスタンドに立て、制服の袖に走った水の筋を手の甲で払う。

 胸ポケットのペンは二本で、芯は新しいまま揃っている。


「おはよう、天田」


「協会の杉谷さんから。『昨日の差し替え後に“訂正印”が回ってきた。返却札の書式、急遽一部改定』だそうです。現場の箱は“札を貼り直し”。――『貼替手順の説明に、常夜紫煙堂で口頭説明を』というFAXが来ています」


「口頭で。紙を残さず」


「はい。差出人は『監査部』名義。FAXの送信元は弦月サービス」


「“扉を開ける名札”と“木で運ぶ手”が、同じ紙に居る」


「……呼びますか」


「呼ぶ。『座りの良い箱』を、座りを悪くして返す為にな」


 紫郎はダミーの脚を持ち上げ、フェルトの一枚を剥がすと、厚みの違うフェルトを薄く貼った。

 貼り方は角だけに接着剤を付け、中心部は“浮かせる”。

 薄く、柔らかく、音が変わる。


「座りは音で分かる。浮かせの音、戻しの音、置きの音。――“習慣の手”ほど、この変化に敏感に反応する」


「反応、ですか」


「不機嫌に“拍”が速くなる。指の第二関節が白くなる。息が一度だけ止まる」


「見えますか」


「見える。音が教える」


 紫郎は取手の裏に、綿棒で“橋”を一筆だけ置いた。

 香りは空気ではなく木にだけ触れる薄さ。

 触れた指だけが覚える。

 無色。無味。後で喫煙所で指先が残す“曇り”の高さが変わる。


「北条には店外の角、島倉には搬入口の先、杉谷には電話とFAXの“揺れ”を拾ってもらう」


「了解です。――課長には」


「『焦るな』を先に言われる。だから何も言わない。言うのは、匂いと音だ」


「はい」


 秤は揺れず、針は零。

 鏡は朝の光を浅く返し、店の温度は“すぐ動ける”高さのまま保たれていた。


ーーー


 午前十一時、常夜紫煙堂。

 看板の紫が水滴で少し滲み、通りの足音が薄くなった 時間に、白いバンが一台止まった。

 側面には弦月サービスのロゴ。

 降りて来たのは二人。

 作業着の女――朝比奈。軍手の上に薄い手袋。

 角を押さえる癖。

 もう一人は男。

 ベストの陰で肩の線が硬い。

 踵の返しは左。

 ヘルメットは被らない。

 ドアの白線を踏まない。


「ごめんください」


 朝比奈が頭を下げ、店の匂いを一度だけ吸い込んだ。

 口元の筋肉がわずかに緩む。木の甘さを知っている鼻だ。


「協会監査部からの依頼で、“返却札の新書式”の貼替手順の確認に参りました。弦月サービスの朝比奈です。こちら、三谷」


「夜村だ。――札はそこに」


「ありがとうございます」


 朝比奈はカウンター越しに封筒を差し出し、視線だけで箱の脚と取手を測った。

 角を押さえ、座りを確かめる癖。

 三谷は店内に一歩だけ入り、取手の裏を覗くふりをして、蝶番の隙間を左手の指で探った。

 指の幅。

 指の腹の厚み。

 動きは“習慣”。息は浅く短い。


「“座り”、ちょっと違いますね」


 朝比奈が小さく言う。紫郎は頷いた。


「雨で床が膨らむ と、座りは変わる」


「そうですよね。――三谷、脚にフェルトを当てます」


 女は膝を着こうとして、すぐにやめた。

 埃で膝を汚さない癖。

 かわりに、台布巾を手早く畳んで膝に敷いた。

 手順は現場の手だ。三谷は取手の裏を二度だけ撫で、“橋”の薄い影に触れた指を無意識に拭いた。

 拭くのはジーンズの右腿。

 拭き癖は右。

 左の手の入れ。

 拭く手は右。


「貼替手順、口頭で」


 朝比奈が視線だけで合図を寄こし、封筒の中の紙を机に置いた。

 札の新書式は、字体がほんの少し変わっているだけ。

 朱の印の位置は同じ。紙の目は横。

 角の切り口が微妙に粗い。

 切り出しが急ごしらえ。


「札は角に薄く糊。貼った後、端で空気を抜く。――剥がす時は、角を持ち上げず、札の“真ん中”を指で軽く押して、紙の中で“裂く”。そのまま滑らせる」


「“薄底”と同じ」


「そう。――剥がした札は廃棄しないで『訂正印』の箱へ」


「“訂正印”」


「訂正は“遅くする道具”だ」


 朝比奈が唇の端だけで笑い、すぐ真顔に戻った。

 三谷は脚のフェルトを指で押さえ、座りを変える角度を探る。

 フェルトの角が少し浮いている。

 戻すかどうか、迷う指。迷いが指先の白さに出る。


「座り、戻しますか」


「戻すと“音”が戻る」


 紫郎は淡々と答え、三谷の指先の右腿の拭き跡へ視線を落とした。

 布地に残る薄い曇り。

 店の“橋”の薄さは、布の上でも一息だけ残る。


「喫煙所をお借りできます?」


 朝比奈が言った。

 声は緊張の高さで、しかし息継ぎは滑らかだ。


「外。右に二十歩」


「ありがとうございます」


 二人は会釈し、店の外へ出た。

 鈴が鳴り、空気が少し軽くなる。

 紫郎は瓶の唇に耳を寄せ、店の真ん中の“橋”を二ミリだけ動かした。

 動かした香りは見えず、音も無い。

 ただ、指と布と金属にだけ残る。


「北条」


「外、拾えている。女は活性炭粒タイプ。男は両切り。――どちらも“北の乾き”。」


「拭き跡は右腿。布の曇りをのちほど写真で」


「任せろ」


 天田がカウンターの上の札を整え、紙の角を指で撫でて、切り口の荒さを心に入れた。

 紙の目は横。

 港の乾きの紙は縦。

 混ぜて使っている。

 名は書かない。

 手だけ置く。


ーーー


 喫煙所の灰皿は、午前中の雨で縁の金属が冷え、吸い殻の灰が薄く固まっていた。

 朝比奈は活性炭粒タイプを一本、三谷は両切りを一本。

 火のつけ方が違う。

 朝比奈は火を弱く、唇で香りを選ぶ。

 三谷は火を近づけ過ぎないが、最初の二吸いが早い。

 “短気な癖”。

 吸い終わって灰皿に押し付ける時、三谷の指はジーンズの右腿で一度拭かれ、“橋”の曇りが灰皿の縁に小さく移る。

 曇りは一瞬で薄れ、残るのは微かな“位置”だけ。


「座り、どうでした」


「雨で床が膨らむ と、座りは変わる」


 紫郎の言葉が、そのまま三谷の口から出た。

 朝比奈は目だけで男を見た。

 声は出ない。

 彼女の動きは現場のものだが、“言葉”は外から来る。


「戻ります」


 二人は灰皿に残った吸い殻を指でなぞらず、そのまま置いて店に戻った。

 天田は眼だけで灰の縁の欠けを拾い、活性炭粒の穴の並び方をノートに写した。

 粒の数。

 並びの偏り。

 港で手に入る規格。


「貼替手順、理解しました。――一度、実際に貼っても良いですか」


「どうぞ」


 朝比奈は札を 一枚取り、角に薄く糊を引いて、箱の面に乗せた。

 端で空気を抜く。

 滑らか。

 剥がす手順も正確。『真ん中』を押して、紙の中で“裂き”、滑らせる。

 ――手は清潔。三谷は別の札を持ち、剥がす手順を“少し”乱した。

 角を持ち上げようとして、すぐに“真ん中押し”に戻した。

 癖が古い。

 『角で剥がす』の記憶を“訂正”した指。


「ありがとうございます。貼替の“見本”として、これを弦月のヤードに持ち帰っても」


「構わない」


 朝比奈は丁寧に頭を下げ、箱を持ち上げようとして、止まった。


「座り、やはり悪いですね」


「雨と、床」


「フェルトが……」


 朝比奈は言葉を止め、視線だけで三谷に合図した。

 三谷は脚に手を伸ばしかけ、やめた。

 迷う指。

 第二関節が白くなる。

 息が止まる。


「座りは“現場”で調整します」


「頼む」


 二人は鈴を鳴らして出て行った。バンの扉が閉じる 音。

 エンジン音は低く、発進は滑らか。北条の声が落ちる。


「白いバン、南へ。喫煙所の灰皿、写真は拾った」


「右腿の曇りは」


「拡大で取った。布の繊維の上に、薄い“線”だけ」


「十分だ」


 紫郎はカウンターの箱の脚を一度だけ指で押さえ、貼り換えたフェルトの“座り”の音を心に置いた。

 柔らかい戻り。

 薄い呼吸。

 ――“座り悪い”は、今日の為の音だ。


ーーー


 午後、弦月サービスのヤード。

 空は再び明るく、潮の匂いが薄く戻っていた。

 簡易倉庫のシャッターは半分上がり、フォークリフトの唸りが低い。

 島倉が台車の影で帽子のつばをいじり、顎をわずかに上げた。


「戻って来た。“見本”。脚、片方だけフェルトが柔らかい。――座りの音が“軽い”」


「音で分かる」


「分かる。三谷、苛ついてた。『何でここで座らねえんだ』って顔」


「顔じゃなく、指の白さで怒る奴だ」


「そうそう。――で、朝比奈が『現場で調整します』って引っ張ってった」


「ヤードに“貼替手順”の声を流す 為だ」


「声は広がる」


 紫郎はヤードの片隅、規格外のフェルトの切れ端が散っている場所に目を落とした。

 厚みが違うものが混在している。

 鋏の刃の跡が粗いのは忙しさ。

 角が丁寧なのは“習慣”。

 ――混在は“二種類の手”。


「杉谷」


「監査部から追加のFAX。『訂正印の箱は監査部で回収』。――“現場”では廃棄するな、との指示です」


「“訂正印”の箱は『机の匂い』の 所へ戻る」


「はい」


 北条が白い封筒を掲げて歩いてきた。封はゆるい。中に写真が三枚。

 喫煙所の灰皿の拡大、三谷の右腿の布の曇り、箱の脚のフェルトの角の浮き。

 どれも“在った事実”だけが写っている。


「三谷の右腿、拭き癖は右。左の手の入れ。灰皿の活性炭粒タイプは『北の乾き』。港のロット混合の走り書きと合う」


「“K-12/31”の手は『場所を選ばない』。――だが、“音”は嘘を吐けない」


「座りの音、ですか」


「ああ。――明日、座りの良い箱だけを“音”で選り分ける。『現場で調整』の過程で、音を“わざと外す”」


「相手の苛立ちを引き出す」


「苛立ちは、手を粗くする」


 ヤードの奥で、フォークリフトが一度だけ大きく唸った。

 運転手の手が合図を出し、台車が二台、奥へ消える。

 鳳章インテリアの湾岸倉庫へ行くのだろう。

 紫郎は鼻先で風を嗅ぎ、板と紙の乾きを分けて心に置いた。


ーーー


 夕暮れ前、常夜紫煙堂。看板の紫は濃くなり、アーケードの灯りが水滴の面で揺れている。

 瓶の唇は同じ高さで囁き、秤は皿を閉じたまま針を零。

 鏡は曇らず、木口は浅い谷をそのまま見せる。


「まとめよう」


「はい」


 天田はノートを開いた。

 今日の“在った事実”だけを箇条書きに置く。

 ――『監査部名義/弦月送信』のFAX。

 口頭説明指定。

 座りの悪いフェルト。

 朝比奈の“角を押さえる癖”。

 三谷の“角で剥がそうとして訂正する癖”。

 右腿の拭き跡。

 喫煙所の活性炭粒タイプと両切り。

 “北の乾き”。

 灰皿の縁の曇り。

 ヤードで混在するフェルトの厚み。

 『訂正印の箱:監査部回収』。

 ――名は書かない。手だけ置く。


「『訂正印』の箱が“机”に戻るなら、そこで『札』が変わる」


「はい」


「“札”が変わっても、『箱』は音を持っている」


「音は、嘘を吐かない」


「そうだ」


 ポストに薄い音。

 天田が封筒を拾い上げる。

 白紙に短い文字。

 『座りの音は、現場で直せ。――K』

 筆圧は浅い。入りは左。胡桃油の影が薄い。


「挑発、です」


「挑発は『自信』の裏返しだ。――明日は『直らない座り』を用意する」


「直らない」


「フェルトの角に、意図的に“鳴き”を入れる。音は直らない。――“習慣の手”は、そこで苛立つ」


「苛立った手は、雑になる」


「雑になった手は、“角で剥がす”」


「剥がした“角”に、“橋”が残る」


「喫煙所へ戻れば、指で曇る」


 天田の目に小さな笑いが点いた。

 笑いは短く、芯は強い。


「課長に、何か言いますか」


「言わない。言うのは、音だ」


「はい」


 鈴が鳴り、いつもの声が店の入口で柔らかく止まった。

 佐伯だ。眠たげな目。

 緩いネクタイ。

 粉は踏まない。

 白線も踏まない。


「夜村さん。貼替は、進んでいるか」


「現場で。音は直らない」


「音か。――音は、主観だ」


「『主観で揃う』のが、良い音です」


「ほう」


 佐伯は笑って、鏡の面に映る自分のネクタイを整えた。

 視線は一度だけカウンターの箱の脚へ降り、すぐ戻る。


「焦るなよ」


「焦らない」


「天田」


「はい、課長」


「喫煙所でタバコを吸う時は、灰皿の位置を元に戻せ。係の人間が困る」


「はい」


 佐伯は踵を返し、鈴を鳴らして出て行った。

 音は短く、粉は踏まない。

 残らない事が、在った事実として紙に残る。


「……課長、喫煙所の位置、見ている」


「見ているが、『誰の灰』かは言わない」


「はい」


 天田はノートに『喫煙所/位置/佐伯』とだけ、小さく置いた。

 名に飛ばない。

 事実だけ。


「紫郎さん」


「なんだ」


「今日の『座り』、怖さはあったけど、音が“嘘を吐かない”のは、はっきり分かりました」


「音も、匂いも、紙も。――煙は、嘘を吐かない」


「はい」


 言葉は大きくない。

 けれど、木と金属と硝子と布の間で、その長さをよく知っている。

 看板の紫が夜の手前で濃さを増し、商店街の影が長く伸びた。

 扉の札を“準備中”に反し、二人は静かな歩幅で、明日の“直らない座り”へ段取りを進めた。

 焦らず、しかし急いで――時間を“置く”側の仕事は、また 一つ先へ進む。


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