第二話 灰に残る声
雨は夜のうちに上がっていた。
「近頃はよく雨が降るな……」
朝の路面はまだ薄い水の膜をまとい、風が吹くたび水たまりの形が少しずつ変わる。
街路樹の葉から落ちる雫が、舗道に小さな輪を作って消えた。
商店街の端で、紫色の看板が影と光の境目に浮く。
墨で書かれた「常夜紫煙堂」の文字は、濡れた朝でも落ち着いて見える。
ガラス戸を押すと、鈴の音に続いて、瓶どうしが触れ合う「コツン」という小さな音がした。
店の湿度計は「56%」。
針の揺れは人の呼吸みたいに、わずかに上下している。
黄銅の秤は皿を閉じ、縁の小傷に朝の光を一つだけ乗せていた。
夜村紫郎は、いつもの癖で瓶の口を一本ずつ指でなでた。
ガラスの厚み、触れた瞬間の温度、向こう側に詰まった刻み葉の重さ――毎朝それを確かめる。
葉の「乾き具合」がちょうどいい時だけ、指先が軽くなる。
火のつき方も味も、まずはここで決まるからだ。
鈴がもう一度、今度は高く鳴り、軽い足音が近づく。
制服の肩には、まだ乾ききらない雫が一つ光っていた。
「紫郎さん!」
声はまっすぐ。緊張と急ぎが半分ずつ混ざっている。
「どうした」
「新しい事件です。現場に吸い殻が十本以上。しかも、ぜんぶ銘柄がバラバラでした」
紫郎は道具を置き、白い陶器の灰皿をカウンターの真ん中に寄せた。
底に残っていた灰の輪が、風もないのに自分の重みでふわりと崩れる。
「灰皿に?」
「いえ、床に。わざと散らしたみたいに」
紫郎はいったん瓶の列を眺め、それから天田に視線を戻した。
外の朝日がガラスに細い筋を作り、亜麻色の葉が一瞬だけ明るく見える。
「場所は」
「西区の古いアパート。鑑識がまだいます。……一緒に来てくれますか」
言い終わる前に、紫郎はうなずいた。
瓶の位置を目で再確認し、湿度計の針が「56→55%」へふれるのを見届け、秤の針が零で止まっているのをもう一度見る。
ガラス戸を引くと、鈴は二回鳴った。
二回目が短い。
風向きが少し変わった合図だ。
通りに出ると、水の膜はもうほとんど剥がれていた。
車の窓から、塗装が温められる匂いが流れてくる。
西区へ向かう途中、信号をいくつか過ぎるうちに、その匂いはいつもの錆の匂いに戻った。
現場は三階建ての古いアパート。
塗装ははげ、鉄の手すりは錆で赤い粉を落とす。
三階に上がる途中、一段だけ高さの違う段があって、足が一瞬つまづきそうになる。
「どこで疲れるか」は身体が覚える。
犯人の歩き方にも、その一瞬は出る。
黄色いテープの前には靴が整列し、記名の紙がひらりとめくれた。
部屋に入ると、空気は重く、窓は閉まっている。
換気扇は止まり、煙草の匂いが床の近くに溜まって、天井に届く前に折り返している感じだ。
靴底の音は湿り、声は布に吸われて広がらない。
床に、吸い殻。
白いフィルター、赤い帯、青い帯、茶色の紙、フィルターなし――見た目も長さも、くわえ方もバラバラに見える。
けれど、投げられた方向はドアから机、机から布団へと緩い弧を描いて、意外と揃っていた。
遺体は布団の上。
額に鈍器の跡。
手は机の上へ伸ばしかけのまま止まっている。
指先が紙片を掴みそこね、爪の腹だけが湿って光っていた。
紙の文字は滲んでいる。
紫郎は膝をつき、一本目を「摘む前に」観察した。
紙の焦げ目は「火の回り方」を教え、灰の厚みは「口から離した距離」を教える。
フィルターのつぶれは「唇や歯の強さ」や「指の癖」を教える。
「一本目。白フィルター。焦げは均一、紙は薄い。灰は短くて粗い。乾き気味だ」
「二本目。赤い帯。紙が厚く、燃え足が遅い。円すいの灰が細く立って、崩れかけで止まってる」
「三本目。茶紙。フィルターなし――“両切り”。巻き終わりは“左ねじり”。左の親指で押し出してねじった跡が出ている」
「四本目。フィルターの根本に赤。口紅に見えるけど、脂分が抜けて粉っぽい。直接の唇じゃないかもしれない」
「五本目。“活性炭フィルター”。吸い口の跡が浅く、吸いが弱いか、使い慣れていない」
(※活性炭入りのフィルターは、煙の成分や匂いの一部を吸着して口当たりを丸くするため一部の紙巻でも使われる。完全に「害を消す」ものではない。 )
紫郎は崩れる時の音も聞いた。
灰が「サラサラ」と細かく崩れれば火は急ぎ、「ポトン」と鈍ければ火は留まっていた証拠だ。
「被害者は川端祐介、二十九歳。近所の人は“よく吸ってた”と言ってます。……無職です」
天田の声は落ち着いているが、最後の一語でわずかに沈む。
部屋の温度が、その一語で変わる。
窓へ寄る。
カーテンの隙間は狭く、窓は閉まっていた。
窓枠の木口に、内側から指でカーテンを少し開いた黒い筋。
誰かを「待っていた」動きだ。
床の吸い殻は十本以上。
でも足跡は多くない。
靴を脱いだのか、脱がせたのか。
殻の位置は部屋の中央から放射状ではなく、さっき見た弧に沿って並ぶ。
「一本吸っては落とす」を繰り返した形だ。
灰皿の習慣がない。
灰皿に慣れている人は床に落とす前に一瞬躊躇い、その躊躇いが灰の形に出る。ここにはそれがない。
「複数人……ではない?」
「同じ手だよ。握りと離し方が全部同じ。十銘柄“使い分け”でも、動きは一人分。違うのは見た目だけだ」
紫郎は口紅の赤がついたフィルターを摘み、光から少し外して赤の厚みを見た。
乾いた粉が布から移ったような赤。
唇ではなく「布→フィルター」の順でついた可能性が高い。女を装う為の、安い工夫。
机の横に小さな鏡。
そばに百円ショップの口紅。
キャップの縁に粉っぽい赤。
鏡は埃を薄くかぶり、拭いた跡は一本だけ。
鏡はほぼ使われていない。「布」を使った線が強い。
冷蔵庫の上には塩。
袋の口はふやけ、角の粉が湿って白い輪になっている。
灰と混ざると光らない。
鑑識の写真で反射の差が出れば、手の移動がもう一段わかる。
布団の手の先に、丸められた広告紙。裏に「3」の手書き。
上の横棒だけインクが濃い。二度なぞった癖だ。
紫郎が紙袋の角に書いた「31」のインクの感触が頭をよぎるが、すぐに捨てる。
早つなぎは、あとで糸が切れる。
床板に並行して、細い擦り傷が二本。
金属脚でこすった跡。
スツールの脚だろう。
この部屋にスツールはない。
持ち込まれ、すぐ引き上げられた。
脚に灰が付けば、車のマットに落ちる。
落ちた灰は足の熱で砕け、埃と混ざる。
混ざり方は「灰の声」を変える。
あとで誰かの足元から、その声が聞こえるはずだ。
ドアの内側のノブに、白い粉が薄く残っている。
滑り止めのパウダー。
手袋をしていたと見ていい。
口紅は手袋の布から移す――その段取りが見える。
「……近所は“夜に長い髪の人影を見た”と言ってます。顔は誰も見てません」
天田の情報は曖昧だが、曖昧さは時に正直だ。
人は見たものを、自分の語彙で補う。
補っていない隙間に、手がかりが残る。
「店に戻る。灰を“秤”にかけて、火の高さを再現する。室内の湿度も揃える。塩の袋のふやけは“時間”を喋る。いつ開け、どのくらい置いたか」
「塩まで……見えるんですね」
感嘆が混じる。
紫郎はうなずき、廊下に出た。
踊り場の窓から陽が差し、手すりの錆が赤くひかる。
常夜紫煙堂に戻ると、店の湿度は「57%」。
瓶の口に触れた瞬間の「軽さ」が、朝よりほんの少し長い。
葉が空気に馴染んだ証拠だ。
吸い殻は、カウンター奥の“縦目の木”の上に並べる。
真ん中がわずかに窪んでいて、灰が逃げない。
袋から一本ずつ出す。
現場の位置順ではなく、「崩れの音」「火の色」「紙の穴の並び」で並べる。
「紙の穴」というのは、フィルター近くに開いた“ベンチレーションホール”の事。
紙やフィルターにある小さな穴で、外気を混ぜて「吸いを軽く」する仕組みだ。
(測定値のタールやニコチンを下げて見せる作用も知られている)。
巻紙そのものにも“微小孔”があり、空気の通しやすさ(通気度)は「CORESTAユニット」で測る。
穴が多いほど火はゆっくり、煙は薄くなる。
「十の声の中に、一つだけ“本当の声”がある」
紫郎は口紅の殻を列の真ん中から少しずらして置く。
人の目はそこに戻る。
ここが「偽物の声」じゃないからだ。
両切りの一本は端に置く。
左ねじりの巻き尻。
ねじりの芯が少し潰れている。
急いで巻いた時の形。
急ぐ手は、手の高さが一定になりやすい。
現場の「落下高さの揃い」と一致する。
「犯人は“灰皿を使う習慣”がない。床に落とす。……それと“選ぶ”。十銘柄は“見せかけ”。選び方に癖が出てる」
「選び方?」
「色と名前。赤、青、白。帯色が“赤→青→白→赤→青→白”って、リズムになってる。床の並びも、ドアから机、机から布団へ、同じ弧。歩幅も、手の高さも、ずっと一定。癖ってのは、音楽の拍みたいに出るんだ」
天田の目が少し開く。
バラバラに見えた床が、五線譜みたいに整って見え始める。
「それと、丁子の香りが混じってた」
「クローブですね。珍しいですよね」
「そう。丁子の主成分“オイゲノール”は、甘くスパイシーな匂いが強くて、軽い麻酔みたいに舌を痺れさせる。インドネシアの“クレテック”(クローブ混ぜの紙巻)に使われるやつだ。この街じゃ、まず衣服から移る匂いでわかる。長く一緒にいたんだろう」
紫郎は最後に、灰皿の縁を指で軽く叩いた。
陶器が一度だけ、短く鳴る。
「煙は、嘘を吐かない」
声は大きくない。
でも店の木も瓶も秤も、その言葉の長さを知っている。
「私は署に戻って、交友関係と近所を当たります。紫郎さんは?」
「灰を“秤”に。火を並べる。スツール脚の擦り傷の幅も測る。……それから“活性炭フィルター”の方は、炭の粒の顔を顕微鏡で見る。炭の吸着は“穴の大きさ”で性格が出るから」
「分かりました。戻ったらすぐ連絡入れます」
天田はメモ帳を閉じ、胸にあててうなずいた。紙の角が制服の布を押し、形が少し変わる。
その形は、決めた時の形だ。
天田が出ていくと、店はいっそう静かになった。
湿度計は「55%」。瓶の列は黙り、葉は声をためる。
確かに木目を叩く音が、規則正しく揃ってきていた。
夕方、陽が傾き、路面の水は消えた。
ガラス戸の外で風向きが変わり、紫の看板の縁に薄い影ができる。
紫郎は照明を一段落とし、木の板の前に座った。
火を入れない葉を指で転がし、音を聞く。
乾きがちょうどいい葉は、紙の上で「サラ」と鳴る。
湿り過ぎると「ペタ」と鈍る。
――音は時々、嘘を吐く。紙も、濡れると嘘を吐く。
でも、煙は、嘘を吐かない。
常夜紫煙堂の夜は、ここからが本番だった。




