第十五話 袖で交わる手
朝の光は薄く雲で濾され、常夜紫煙堂のガラス戸に白い面を作っていた。
棚の硝子瓶は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置いている。
カウンターでは、透明袋に戻した細切りのシャグと、鳳章インテリアの搬入記録、駅ロッカー“312”の使用ログ、そして文化連絡協会からの資材リストが、角を揃えて並んでいた。
紙の匂い、木の匂い、わずかな銀粉の金属臭が、朝の空気に薄い層を作る。
「おはようございます、紫郎さん」
鈴が鳴って、天田芽衣子が入ってきた。
制服は整い、目の下の陰は薄くなっている。
右手には封筒、左手には薄手の手袋。
「おはよう、天田」
「協会の杉谷さんから追加です。“K”が現場で使う資材リストの細目、少し出ました」
「『反射粉(銀・微粒)』『粘剤(低香・水溶性)』『巻紙型治具(可変)』」
「型番は相変わらず空欄」
「それと、今夜“紫園ホール”で舞台の仕込みがあるそうで、立会いに“K”か“その手”が入る可能性があると」
「“袖”に行く口実が出来た」
「ええ。……課長決裁は“監査部経由”。『焦るな』と」
「いつも通りだ」
紫郎は透明袋の端をつまみ、シャグの色と軽さを指で確かめた。
明るい色。
繊維は細く、茎の割合が少ない。
乾きは早い。
添付の原産地証明は“小さな南”。
だが、香りの影は“北”へ寄っている。
陸路で乾いた“風の乾き”が紙の目に残っている。
「これは“途中で”混ぜた」
「港に来る前」
「来る前だ。輸送の“北回り”で乾き過ぎた葉と、証明書のロットを合わせた……倉庫ではなく、ルートの途中で“権限”がある手がやる仕事だ」
「梶谷礼司さん」
「まだ断言はしない。名前は“匂い”だ。扉を開ける言葉になる――匂いの方を先に詰める」
「はい」
天田は封筒を開き、紫園ホールの搬入予定表を広げた。
仮設ステージ、展示什器、排煙ダクトの仮設、そして「安全対策アドバイザー立会い」。
時間は午後三時から。
協会の押印欄には、見慣れない朱が一つ混じる。
監査部の印と似た濃さだが、文字は読めないほど小さい。
「この朱、昨日見た“監査部回付”の朱と似ています」
「同じ“棚”に置かれている朱だ。段取りの棚――準備して行こう」
「了解」
紫郎は瓶の口を一つだけ緩め、空気に薄い層を置いた。
朝の層は軽く、すぐに梁で止まる。
秤の皿に指を置くと、黄銅の縁が音を立てずに震え、やがて零へ落ち着いた。
ーーー
紫園ホールの搬入口は、いつもよりも人の流れが速かった。
反射ベストの背中、黒いテープが一本、二本、そして何も貼っていない背中。
フォークリフトの低い音。
舞台袖へ続く長い通路には、黒布を掛けた箱やパネルが、番号札とともに等間隔で並んでいる。
空気は新しい木と古い埃、それに薄い粘剤の匂いで満ちていた。
「協会の杉谷です――あ、こちらは夜村さん、そして警視庁の天田さん」
受付で落ち合った杉谷は、黒縁の眼鏡の下に寝不足の赤を少し残しながらも、目は生きている。
入館証を三枚渡し、小声で続けた。
「“K”名義での入場は、今の所ありません。ただ、“Kの手”かも知れない人は、いる」
「どこに」
「袖の“下手”」
「巻紙型の治具を触っていた人」
「軍手の上に薄手の手袋」
「……昨夜の特徴と似ます」
「見に行こう」
三人は袖へ向かった。
舞台上では、合唱団のリハーサルが始まり、子ども達の声が空気を揺らしている。
譜面台の金属が光り、照明の角度が少しずつ動く。
袖は薄暗く、黒い幕の匂いと、汗と、金属の冷たさの匂いが交じっていた。
柱の影に、黒いフードのような帽子。
背の高い女が、机の上の治具に触れている。
木製のベースに金属のスロット、細いピンで幅を可変に出来る“巻紙型治具”。
その横に、銀粉の入った小瓶と、無地の巻紙束。
「近づき過ぎないように」
「分かってます」
天田は視線を上げず、舞台監督の動線を避けながら、治具の“手順”を目で追った。
女の手は角を押さえ、刃を滑らせる角度は一定。
切り口は“甘い”。
新しい刃ではない。
指の腹には銀粉が薄く光る。
昨日見た手と、同じ癖。
「北条さん、合流します」
無線の声が袖の暗がりに落ちた。
数分後、北条隆司が影の切れ目から入り、目だけで挨拶を寄越した。
背広の肩に紙粉、踵の返しが滑らかだ。
彼は舞台監督に軽く名刺を見せ、視線を袖の“下手”へ流した。
「天田」
「正面は俺が押さえる」
「お前らは動きを見るだけにしろ」
「了解です」
女は治具のピンを一本抜き、幅をわずかに狭め、巻紙を三枚、斜めに切り上げた。
切り口は甘く、角が丸い。
束の帯に“ K-12/31 ”の印。
舞台用の“クセ”がそのまま紙に写る。
彼女は束を布の袋に入れ、軍手を直し、袖の奥へ消えた。
追えば混ざる。
天田は深呼吸を一つ置き、机の上の治具に目をやった。
ベースの角に、胡桃油の甘い影。
「和泉の油だ」
「治具屋の」
「女は“作った側”ではない」
「“使う側”だ」
「布の巻きは正しく、油はほんのわずか」
「手順を覚えている」
「“手の届く距離”にいる」
「そうだ」
舞台上で指揮者が手を振り下ろし、ブラスの短い音が袖へ跳ねた。
天田はその波が引くのを待ち、治具の下の引き出しをそっと開けた。
中には予備のピンと、刃が四枚。
刃のうち一本は微かに欠け、角が丸い。
甘い切り口の原因。
布で包んだ手で刃を持ち上げると、銀粉がうっすらと指袋に移った。
「写真を」
「はい」
天田は手際よく撮影し、引き出しを元に戻す。
視線だけで杉谷に礼を送ると、杉谷は小さく頷いた。
「今の女、名前は『朝比奈』で入ってます」
「フリーの舞台進行、アルバイト登録」
「顔写真は古く、今日の姿と一致しません」
「偽名か借用名だ」
「はい」
「――それと、搬入口に鳳章の台車」
「梱包の帯に“木口・装飾パネル”の印」
「隣に弦月の箱」
「『排煙仮設』」
「二重の“協力”。昨夜の書類と同じだ」
その時、袖の入口で柔らかな声がした。
「天田」
「課長」
佐伯浩一が立っていた。
眠たげな目、緩いネクタイ、靴の先に粉はない。
袖の床の白い印を踏まずに、自然体で入ってくる。
「舞台を見るのは悪くないが、仕事は仕事、遊びは遊びだ――監査部から通達が来てる」
『現場との非公式接触は控えよ』
「通達は読みました、ですが今は“見るだけ”です」
「見るだけなら、俺も一緒だ」
佐伯は笑い、袖の暗がりを眺めた。
目が“治具”に一度だけ降り、すぐに戻る。
北条が軽く会釈し、天田は胸の奥で息を整える。
「課長」
「鳳章の台車、弦月の箱、協会の立会い」
「“K”の資材」
「偶然が重なってます」
「港は狭い」
「会場も狭い」
「偶然はある」
「偶然は続けば必然です」
「言い回しは覚えたな」
佐伯は笑い、舞台の方へ視線を投げた。
合唱は止まり、舞台監督が袖で何かを探している。
女――“朝比奈”が現れ、監督に何かを渡し、すぐに引き返してくる。
軍手の上の薄手の手袋。
角を持つ癖。
踵の返し。
天田の視界が、女の動線を捉える。
「来ます」
「来るな」
佐伯が一歩、天田の前に出た。
女はわずかに速度を落とし、視線を上げないまま横を通り過ぎた。
佐伯は動かない。
女も動かない。
交わらない視線。
天田は拳を握り、力を抜いた。
「課長、今の」
「“舞台の人”だ」
「――俺の出番じゃない」
言い残して、佐伯は踵を返した。
粉を踏まない足。
通路の白線を自然に避ける癖。
袖の出口で一瞬だけ振り返り、北条に目で合図を送る。
「焦るな」。
声に出さず、口だけで言った。
「……紫郎さん」
「見た」
「何を」
「歩き」
「――『ここを踏むな』『ここで止まるな』を身体が知っている」
「舞台の動線を、若い頃に叩き込まれた人の歩きだ」
「課長が、ですか」
「断言はしない」
「だが、『そうして歩ける』」
舞台の音が再び上がり、ライトが袖に薄い刃を作った。
天田は視線を治具に落とし、机の端の“印”に気づいた。
細い線。
鉛筆で書かれた“T/3:15”。
時間の印。
三時十五分。
昨夜のロッカーの開閉ログの“あの時間”。
紙の影に残った座標の“あの傾き”。
「同じ時間……」
「『合わせた』のか、『合わせてしまった』のか」
杉谷が小声で言い、天田はうなずいた。
机の下の箱に、紙束がある。
キューシート。
場当たりの時間、転換の順番、排煙の試験。
三時十五分、排煙の“停止”。
十五分。
――昨夜、換気扇を止めた時間と同じ。
「合わせた」
「合わせて、匂いを“切る”」
「――十五分だけ」
天田はキューシートを写真に収め、箱を元に戻した。
視界の端で、女が黒幕の影に一瞬立ち止まり、袖の外へ滑り出ていく。
追えば混ざる。
追わずに“置く”。
その選択を身体で覚えつつある自分に、天田は気づいた。
「北条さん」
「おう」
「外周カメラ、出口二つ」
「女の通り抜けを拾えますか」
「拾う」
「……ただ、今は現場を荒らすな」
「監査部が嗅いでる」
「はい」
北条は軽く顎を引き、袖の影にとけた。
紫郎は治具の角に残る胡桃油を指先で拾い、空気に擦り付けるようにして消した。
油は消えても、指に残る“向き”は消えない。
左巻き。
和泉の店で見た逆巻きの布。
左の手が急いで巻いた向き。
「左利きの手が一人、近くにいる」
「女は右でした」
「だから“協力”だ」
舞台の仕込みは順調に進み、午後の光がステージの奥へ薄く差し込む。
杉谷が袖で小走りに戻ってきて、囁いた。
「鳳章の台車、搬出開始」
「弦月の箱は“仮置き”のまま」
「どちらも、帳尻が合い過ぎてます」
「『揃える』のは、手口の一つだ」
「何を」
「時間を」
「匂いを」
「――そして『見え方』を」
紫郎は言い、天田は胸の奥の焦りを押し下げた。
焦りは視界を狭める。
急ぎは視界を広げる。
今は急いでいい。
だが、走らない。
「紫郎さん」
「なんだ」
「“K”は、名前ですか」
「肩書ですか」
「“合図”だ」
「――『ここから先、匂いを切る』という合図」
「合図は変えられますか」
「変えたがる手は、癖を残す」
袖の空気が、ほんの少し変わった。
排煙がふっと弱まり、舞台上の薄い煙が止まる。
三時十五分。
時計は一分だけ前へ出ていた。
治具の角の鉛筆の線と、キューシートの印と、昨夜のロッカーの数字が、薄い透明の糸で結ばれる。
「“今”」
「天田、ここで一旦切る」
「――『在った事実』だけを持って帰る」
「はい」
袖を離れると、搬入口の風は港の匂いを運んできた。
梱包のテープが粘った音を立て、台車のゴムが床で低く鳴く。
反射ベストの背中が四つ、五つ。
黒いテープは一本。
二本。
何もない背中。
合図は混ざり、意味を薄められていく。
「薄めるのは“逃げ方”です」
「濃くするのは“追い方”だ」
天田は頷き、入館証を返した。
杉谷は小さく頭を下げ、声を落とした。
「監査部の朱、あれ、協会の机に“今日”も置かれてました」
「手書きの付箋で『至急』」
「『急げ』と『焦るな』が同時に来る」
「はい」
「――『誰かの都合』の為に」
街へ出ると、午後の光は金物屋の看板で跳ね、坂の上の風は川の匂いを連れてきた。
常夜紫煙堂の前に立つと、紫の看板が歩道に薄い影を落とす。
ガラス戸を開けると、瓶の唇がいつもの高さで囁き、秤の針は零で止まった。
「まとめよう」
「はい」
天田はノートを開き、今日の“在った事実”だけを箇条書きに置く。
紫園ホール。
袖の治具。
甘い切り口の刃。
胡桃油の向き。
女の歩き。
キューシートの三時十五分。
排煙停止の十五分。
鳳章と弦月の“揃い過ぎた帳尻”。
監査部の朱。
佐伯の“焦るな”。
――それらが同じ紙に乗ると、薄い筋が一本、紙の上を走った。
「紫郎さん」
「なんだ」
「『一気に踏み込むな』がいちばん利くの、向こうだと思います」
「だから、使っている」
「はい」
紫郎は瓶の口をそっと開け、香りの層をほんの少しだけ店の中央に置いた。
空気は身を縮め、すぐに戻る。
鏡の面が薄く曇り、消える。
秤は揺れず、針は零。
「天田」
「はい」
「『どちらの手でも出来る仕事』というのが、一番厄介だ」
「――鳳章でも、弦月でも、協会でも」
「名前が借りられる所では、誰でも『誰か』になれる」
「なら、名前じゃなく“手”を見ます」
「そうだ」
「手は嘘を覚えられない」
外で自転車のブレーキが鳴り、子どもの声が通り過ぎた。
ガラス戸の鈴は鳴らない。
代わりに、ポストに小さく紙が落ちる音。
天田が取りに行くと、封のない白い封筒。
中には、切り抜かれた広告の片と、手書きの小さなメモ。
『袖で、十五分。――K』
「挑発です」
「挑発は『自信』の裏返しだ」
「でも、十五分なら私達も得意です」
「そうだ」
紫郎は封筒を置き、ゆっくりと灰皿を中央に引き寄せた。
天田は息を整え、目を閉じ、数えるのをやめた。
時間は“重ねるもの”ではなく、“置くもの”だ。
置いた時間は、誰の物でもない。
「紫郎さん」
「なんだ」
「……煙は、嘘を吐かない」
「ああ」
紫郎の返事は小さく、しかし確かだった。
瓶の唇は同じ高さで囁き、看板の紫は歩道の端で止まる。
風が一度だけ橋脚で砕け、匂いは店に戻ってきた。
匂いは記憶になる。
記憶は筋になる。
筋は、やがて『誰か』に繋がる。




