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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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13/50

第十三話 座標は港へ還る

 午前九時。


 曇り硝子の向こうで、商店街のシャッターが順番に開き始めた。


 常夜紫煙堂のガラス戸はまだ半分だけ閉まっていて、棚の硝子瓶は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま、針を零に置いている。


 カウンターの上には、昨夜持ち帰った透明袋と白紙の“名刺”、駅務室で出してもらった使用ログのコピー、それに天田芽衣子のメモ帳。


 メモ帳は借り物だ。

 ページの縁は、夜更けの手汗で少し柔らかくなっていた。


「おはようございます、紫郎さん」


 鈴が鳴り、天田が入ってきた。

 制服の襟は正しく、目の下にはうっすらとした陰。

 だが口元は軽く上がっている。

 持っている紙袋には駅務室宛の文書と、香りの抜けたコンビニコーヒー。


「おはよう、天田」


「防犯カメラの照会、課長決裁が下りました。午前十一時に駅務室で映像確認、録画は午後に引き渡し。……“焦るな”との事です」


「いつも通りだ」


「はい。いつも通り、です」


 天田は軽く息を吐いてから、透明袋をそっと机に戻した。

 袋の角に残る薄い光沢は、昨夜よりも更に薄い。

 空気に混じって剥がれていっているのだ。

 紫郎は袋の縁を指先で撫で、紙と油のささやきを確かめる。


「袋の角に触れた“二つの手”は、やはり別の仕事の人間だ。握り方が違う。舞台の手は“角”を押さえるが、配送の手は“面”で持つ」


「映像で、顔が分かればいいんですが」


「分からなくても、歩き方で分かる。足の置き方は“癖”だ。嘘を吐き続ける事は出来ない」


「はい。……あ、それと」


 天田はもう一枚、コピーを出した。

 駅のロッカー清掃の委託先リスト。

 清掃会社名の横に、清掃責任者“矢倉”の名前。

 朝五時押印のスタンプ。

 署内の受付からの返答が付箋で貼られている。


「清掃の“鍵”は駅務室と清掃責任者しか持っていないそうです。矢倉さんは朝五時に押印。ですが、押印後にロッカーの列の前で“ベストの背中”が出入りした、と早番の駅員が証言しています。……これ、非公式情報ですけど」


「押印の五分後。矢倉の視界から外れた時間だな」


「はい。駅員は“掃除の人だと思った”と言っていました。反射ベストは皆同じですから」


「ベストは“顔”を消す為の道具にもなる」


「はい」


 紫郎は頷き、ノートの端に細い線を引いた。

 線の終点は湾岸の倉庫街の座標。

 昨夜、紙に残っていた“影のQR”が示したのは湾岸倉庫街の一帯。

 そこには弦月サービスのヤードと、大手インテリア会社“鳳章インテリア”の港湾倉庫が並んでいた。


「天田、鳳章インテリアに当たりを付ける。家具の通関は“木工品”だ。だが、木箱にタバコの匂いを作ってあれば、輸送の途中で“すり替え”は 出来る」


「鳳章に、知り合いは」


「ない。代わりに“協会”に戻る。展示の杉谷は、昨夜の言い方が誠実だった」


「分かりました。連絡を入れます」


「その前に一つ」


「はい」


「コーヒー、貰おう」


「どうぞ」


 二人は短い笑いを共有し、すぐに真顔へ戻った。


ーーー


 文化連絡協会のロビーは一昨日よりも明るかった。

 午前の日差しがガラス越しに入り、展示ケースの舞台模型の埃が微かにきらめく。

 受付に声を掛けると、黒縁の眼鏡の杉谷がすぐに現れた。

 ネームプレートの下のネクタイは真面目に固く、目は寝不足の赤を抱えている。


「一昨日はどうも。今日は何を確認しましょう」


「鳳章インテリアとの物流経路です。分室に入る仮設機材で、弦月サービス以外の“協力会社”が絡むケースが最近増えていませんか」


「……正直、増えてます。舞台の安全対策という名目で、照明や排煙の専門家が現地で“助言”をする。その人達が独自に運搬を手配してくる。こちらの管理は追いついていません」


「その“助言”の名目で、協会の名義を使って申請する?」


「はい。現場では“協会名義”の書類が一番通りが良いので」


「申請書の控えを見せて欲しい」


「上司の許可があれば、閲覧だけなら」


「お願いします」


 杉谷がファイルを持って戻り、会議室に通された。

 長机の上に並べられた申請書は五件。

 三件が弦月サービス、二件は“鳳章インテリア物流部・協力委託”の印。

 そこに“安全対策アドバイザー:Kイニシャル”の記載。

 連絡先は協会経由のみ。


「“K”」


「名字の頭文字でしょう。実名を記さないのも、現場の慣行ではありますが」


「鳳章インテリアの協力委託。担当者名は」


「ここです。……“梶谷 礼司”」


 天田が息を呑んだ。

 一昨日、喫茶“ベイライト”で話した配送主任と同じ姓。

 だがこちらは名刺の肩書が違う。

 “執行役員・サプライチェーン統括”。


「梶谷さんは、別人ですか」


「姓は多い。だが、問題はそこではない」


 紫郎は紙を指で撫で、押印の圧、サインの癖を見た。

 梶谷礼司の筆記は、力強く、横滑りはない。

 職業的な硬さ。

 昨夜の配送主任・梶谷の、紙で切った古傷のある指の柔らかいサインとは違う。


「役員の梶谷礼司が、協会名義の搬入に“協力委託”として絡む。本人が現場に来るとは思えない。だが、名前は“匂い”になる」


「匂い?」


「現場で『梶谷さんから』と言えば、扉は開く」


「……現場、緩いですよね」


「緩いから回る。固いと、動かない」


 杉谷は苦笑して肩を竦め、真面目な目に戻った。


「協会の管理の甘さは、確かに弱点です。ですが、だからこそ外部から“悪意”が入る余地がある。……私から鳳章に連絡を入れますか」


「いえ。私達から行きます」


 天田がきっぱりと答えた。

 杉谷は首を縦に振り、控えのコピーを二枚、丁寧に重ねて渡した。


ーーー


 鳳章インテリアの港湾倉庫は、弦月サービスのヤードの斜向かいにあった。

 白い壁面に緑のロゴ。

 受付で身分を示す と、案内された会議室は無機質で、壁に大型の輸送マップが掛けられている。

 北条隆司が後から合流し、ネクタイを緩めずに座った。


「刑事の北条です。物流の“協力委託”について話を伺いたい」


 扉が開き、背の高い男が入ってきた。

 四十代半ば、無駄のない動作。

 ネームプレートには“梶谷 礼司”。

 スーツはよく仕立てられ、指には薄いマメの痕がある。

 現場を知らない手ではない。


「鳳章の梶谷です。協会さんから連絡を受けました。安全対策の協力はしておりますが、現場の搬入は全て委託会社経由です」


「“K”と名乗るアドバイザーをご存知ですか」


「イニシャルだけの方は存じ上げません。協会さんからの紹介で現場に入る方は時々いらっしゃる。私達は“安全が担保されるなら”という前提で協力しています」


「昨夜、駅のロッカーで物の“受け渡し”がありました。座標はこの辺りを指しています」


「ロッカーと弊社に関係が?」


「まだ断定はしません。ただ、弦月サービスさんのヤード近く、御社の倉庫と通り一本を隔てた座標です」


「港は狭い。偶然でしょう」


「偶然は続けば必然になります」


 梶谷は一瞬だけ目を細め、すぐに笑顔に戻った。


「刑事さん、言葉が上手い。……倉庫の出入り記録はお見せします。委託先の車両番号も」


 北条が頷き、資料を受け取る。

 出入り記録は整然としている。

 車両番号の一覧、入退時間、荷の分類。

 木製装飾パネル、仮設ステージ用パーツ、展示什器。

 重さの欄に、二件だけ妙な数字があった。

 パネルの立米に対して、軽すぎる。


「この二件。軽すぎます」


「中身がスカスカの梱包材です。中で組む前提の、空のフレーム。……こちらは実物を見ていただいた方が早い」


 倉庫内へ案内される。

 フォークリフトの警告音が、広い空間に短く低く鳴り、パレットの間を抜けていく。

 梱包テープの接着剤の匂いと、木の樹脂の匂い、油の匂い。

 紫郎は足を止め、鼻で空気の層を確かめた。

 家具の木の匂いの下に、別の甘さが薄く重なっている。

 舞台用の粘剤が、乾いて粉になりかけた匂いだ。


「このフレームです」


 担当者が示したのは、アルミの枠に薄い木目シートが貼られた“パネル”。

 中は軽い。

 だが、縁の内側にわずかな“余白”。

 そこに紙一枚、挟める隙間。


「これ、二重になってますね」


「反り防止の為の二重です」


「反り防止にしては、内側の接着が弱い。動産保険の“査定”をくぐる為の“重量合わせ”か」


 梶谷は笑いを崩さない。


「詳しいですね、店主さん」


「匂いは覚えるので」


「匂い、ですか」


 紫郎は黙って、パネルの縁を指で撫でた。

 指に、ほんのわずかな粉。

 舞台の反射粉と同じ銀。

 照明で光を拾う為の粉が、ここにもある。

 担当者は気付かない。

 梶谷は目で追っている。

 追いながら、何も言わない。


「北条、写真を」


「おう」


 北条がパネルの縁、隙間、接着の継ぎ目を撮る。

 天田はメモに“銀粉/縁/反射”と走り書きし、倉庫の空気をもう一度吸った。

 匂いは混ざるが、完全には消えない。


「梶谷さん、今後も協力願えますか」


「もちろん。安全が第一ですから」


「こちらも安全第一です」


 会釈を交わし、会議室へ戻る。

 出入り記録の最後のページに、手書きで“監査部回付”の朱。

 誰かが資料を監査部へ送っている。

 小さいが、濃い朱。

 佐伯課長の朱印に似た濃さだ。

 天田は目を細め、それでも何も言わなかった。


ーーー


 昼下がり。

 駅務室での映像確認は、想像以上に骨が折れた。

 角度の違うカメラが四台。

 解像度は足り、露出は過多。

 だが、十分だった。

 配送ベストの背中の反射。

 黒テープ一本。

 顔は映っていない。

 背格好は、昨夜の“合図”と同じ。

 女の方は、視線を上げない歩き方。

 踵の返しが無駄なく、階段を避け、踊り場で一次停止。

 柱の影を利用し、対面から来た男の“偶然の衝突”に合わせて動線を切る。

 型通り。

 つまり“訓練された手”。


「この女、プロですね」


「舞台の裏方か、イベントの段取り屋。……“顔が出てはいけない仕事”に慣れている」


「清掃責任者の矢倉さんは?」


「映像では別の列を掃除している。押印の時間にはロッカー“312”の前にいない」


 駅務室の係員が、映像から切り出した静止画を二枚、プリントしてくれた。

 背中と横顔の断片。

 顔は見えないが、顎の線と耳の形。

 ピアス穴が 一つ。

 穴は古く、塞がりかけている。


「ピアス、昔はしてた」


「舞台の人間に多い癖だ」


 署へ戻る途中、佐伯からメッセージが入った。

 “確認ご苦労。深入りはするな。鳳章は大手だ。監査部に回せ、焦るなよ?”。

 句読点は少なく、短い。

 いつもの“焦るな”が、今は少しだけ乾いて見えた。


「天田」


「はい」


「課長は正しい。大手の倉庫に踏み込むには、文書と手順がいる」


「でも、動いたのは“向こう”です」


「そうだ。だから、こちらは“動かない”で待つ。匂いは“来る”」


「来ますかね」


「来る。鍵を机に入れたように」


 交差点で信号待ちの間、天田は深呼吸を二度した。

 潮の匂いとアスファルトの熱が肺に差し込む。

 目を閉じると、昨夜のロッカーの金属音が耳の奥で薄く響いた。


ーーー


 夕方、常夜紫煙堂。

 ガラス戸の外の提灯が風に揺れ、店内の温度は落ち着いている。

 紫郎は瓶の口を 一つだけ緩め、香りの層を薄く置いた。

 壁の湿度計は中央で動かない。

 秤の針は零。

 鏡の面は薄く曇り、すぐに消えた。


「紫郎さん」


「なんだ」


「梶谷礼司さん、どう見ます」


「“現場を知らない手”ではなかった。指にマメがある。かつては現場にいた。今は“現場に行かない人”の動きをしている」


「協会の“K”と繋がってるでしょうか」


「イニシャルは偶然にもなる。だが、“名前は匂いになる”。現場で『梶谷さんから』と言えば扉が開く。その効果を狙っているなら、名前は“借りられている”」


「借りられている?」


「誰かが“梶谷”を使っている。あるいは、“梶谷”が誰かを使っている」


「……堂々巡りです」


「堂々巡りは嫌いじゃない」






「ただ、それよりも、気になる事がある」


「どうしました?」







『詳しいですね、店主さん』





「あの時、名乗ったのは北条だけ」


「あ……って事は……!!」


 鈴が鳴った。

 背広の肩に紙粉を乗せた北条が入ってくる。

 コートの裾に潮風の匂い。

 目は冴えている。


「駅の映像、科捜研に回した。女の歩き方、耳の形、ピアス穴、手の幅。既知のデータに一致があるか、数日で返ってくる」


「ありがとうございます、北条さん」


「それと――」


 北条は小さな紙包みをカウンターに置いた。

 中には、使いかけの巻紙。

 片端だけ斜めに切り上げられた癖のある束。

 帯には“ K-12/31 ”の印。


「どこで」


「弦月のヤード裏の喫煙スペース。灰皿の脇のゴミ箱の底に、押し込むように入ってた。掃除前に拾った。……匂い、分かるか?」


「ああ」


 紫郎は束を鼻に寄せ、目を閉じた。

 紙の匂いは薄い。

 糊の匂いは更に薄い。

 だが、指に移る“手の匂い”は嘘を吐かない。

 消毒液、段ボール、銀粉、微かな香水の残り香。

 女性用の強いものではなく、舞台で使う“匂いの邪魔をしない”微香。

 昨夜の女の“気配”と繋がる。


「同じ手だ」


「女の、ですか」


「そうだ。斜めの切り上げ方が同じ。切り口が“甘い”。刃が新しくない」


「刃物の角度まで分かるのかよ」


「煙草屋だ」


 北条が笑い、笑いはすぐ消えた。


「で、次はどうする」


「“合図”を待つ。梶谷(弦月の方)からの」


「向こうが動くか」


「動く。拾われたと知れば、穴を塞ぎに来る。その“手”を見たい」


「……危なくないか」


「危ない」


「即答かよ」


「危ないから、警察がいる」


 北条は肩を竦め、顎を撫でた。


「今夜、弦月の喫煙スペースに俺が立つ。おまえらは距離を置け。俺が“赤白ステッカーに黒テープ二本”を見つけたら、通りの角に流れる。……“二本”が合図だ」


「あの時は一本でした」


「塞ぎに来る時は、別の合図を使う。癖のある奴は“変えたがる”」


「了解」


 準備は淡々と、手順に従って進んだ。

 天田は胸ポケットに小型カメラ。

 紫郎は香りの“壁”ではなく、“橋”を薄く店の前に置く。

 香りは通り過ぎる人の足にわずかに絡み、すぐに消える。

 残るのは、通ったという事実だけだ。


ーーー


 夜十時を回る頃、湾岸は昼よりも音が少なかった。

 フォークリフトの警告音は止み、船の腹が遠くで軋むだけ。

 弦月サービスの喫煙スペースのポール灰皿には、紙巻の先端が数本、浅く押し込まれている。

 北条はコートの襟を立て、灰皿から五歩、壁の影に立った。

 風は弱い。

 匂いは動かない。


 赤白のステッカーの白いバンが、一台、二台と入ってきて、ヤードの奥へ消える。

 三台目がゆっくり止まり、運転席から梶谷(配送主任)が降りた。

 彼は灰皿の前で立ち止まり、ポケットから巻紙を出す。

 端は斜めに切り上げられている。

 だが、その切り口は“甘くない”。

 昨夜の女の束とは違う。

 刃は新しい。


「……見せに来たか」


 北条が小さく呟く。

 梶谷は火を点けず、巻紙をくるくると指の間で転がし、視線をヤードの奥の建物へ向けた。

 そこから、反射ベストの背中が一つ、二つ。

 背中のステッカーには黒テープが“二本”。

 北条はスマホを握り、短く打つ。


『二本。角へ』


 通りの角。

 だが、そこへ向かったのは梶谷ではなかった。

 背の高い女が、軍手の上に薄い手袋をはめ、フードを目深に下ろして歩く。

 足取りは変わらない。

 踵の返しは無駄がなく、踊り場で止まらないまま直進する。


「来る」


 天田は無線を押さえ、角の陰に身体を寄せた。

 紫郎は看板の影の“端”で後ろを向き、路面の小さな欠けを見ているふりをする。

 香りは薄く、広がらず、ただ“そこに在る”。

 女が角を曲がり、看板の影の端を横切った瞬間、空気が一瞬だけ固まる。

 女の手が、わずかに“止まる”。

 そこで紙を入れ替えるはずだった。

 だが、そこに箱はない。

 昨夜はロッカー。

 今夜は“角”。

 箱の代わりに何があるか。

 ――目印だけだ。


 女は“何もない”空間に、手を入れた。

 指先が空を掴み、すぐに彼女は身体の向きを変えた。

 動きは滑らかだが、わずかに“迷い”が生じる。

 紫郎はその迷いを見て、低く言った。


「今だ」


 天田が前に出る。

 女の腕を取るのではない。

 前へ一歩出て、目の高さを合わせ、静かに声を掛ける。


「警視庁です。少し、お話を伺えますか」


 女は止まらない。

 だが、走りもしない。

 歩幅を半分にして、別の方向へ流れる。

 北条が通りの反対から回り込み、進路を切る。

 女は立ち止まった。

 フードの縁の影で、顎の線だけが見える。

 ピアス穴が 一つ。

 塞がりかけ。

 昨夜の映像の“断片”が、今ここにある。




「何か御用で」


「あなたの手の匂いを嗅がせて下さい」


 女は少しだけ笑った。

 それは嘲りではなく、理解の笑いだった。


「匂いで逮捕は出来ないでしょう」


「匂いで話は始められる」




 沈黙が三拍――いや、一息分。

 女は肩をすくめ、軍手を外した。

 薄い手袋の上に、反射粉が微かに光る。

 天田は手袋越しに、彼女の指の腹に近づいた。

 香りは強くない。

 だが“在る”。

 舞台用の薄い粘剤。

 銀粉。

 消毒液。

 段ボール。

 香水ではない“誰かの言葉の匂い”。


「どこで、これを」


「仕事で」


「どこの」


「鳳章でも、弦月でも、協会でもない所」


「“名前が残らない所”ですね」


 女は答えない。

 だが、否定もしない。

 紫郎は一歩、近づかない距離を保って言った。


「あなたは“鍵”を使える。駅のロッカーの鍵。清掃の鍵。……鍵は、誰が渡した」


 女は視線を落とし、軽く首を振った。


「鍵は、拾うもの」


「拾って、使う」


「そう」


「誰かに『拾え』と言われた?」


「言われていない」


「なら、あなたは“使う”側だ」


 女は沈黙し、やがて小さく息を吐いた。


「質問はそれだけ?」


「もう一つだけ」


「どうぞ」


「あなたは煙草を吸う」


「仕事の時だけ」


「紙の端を“斜めに切り上げる”癖がある。刃が甘い。刃を替えられない環境で仕事をしている。即興が多い」


「観察眼ね」


「煙は嘘を吐かない」


 女は視線を紫郎に移し、笑わなかった。


「あなたが夜村さん」


「そうだ」


「あなたの店の“匂い”は、仕事の邪魔をする」


「それは良かった」


「良くないわ。次は消す」


「消せない。匂いは残る。残った匂いは“道”になる」


「道、ね。――では、道を塞ぐ」


 女はふっと身体の重心を落とし、次の瞬間には二歩、三歩と後退していた。

 北条が一歩踏み出す。

 だが、女は走らない。

 歩く。

 歩いて、角で消える。

 追えば、混ざる。

 追わなければ、残る。


「追いますか」


「追わない。今は、“在った”事実だけで十分だ」


「北条さん」


「おう」


「今の女の歩き、映像で拾えますか」


「拾える。港の外周カメラを当たる」


「お願いします」


 北条が短く頷き、電話に出た。


ーーー


 風が一段冷たくなり、看板の紫が歩道に薄く伸びる。

 紫郎は店のガラスに映る自分達の姿を一度だけ見て、鍵“312”のプレートを指で弾いた。

 金属の音は鳴らない。

 だが、掌には冷たさが残る。


「紫郎さん」


「なんだ」


「梶谷礼司さん、さっき“偶然は続けば必然”と笑いました。あれ、癖でしょうか」


「言葉の癖は、匂いの癖と同じだ。繰り返される」


「課長の“焦るな”も」


「そうだ」


「私は、焦ってますか」


「おまえは“急いでいる”。焦りは視界を狭めるが、急ぎは視界を広げる。――今は、急いでいい」


「分かりました」


 天田の返事は静かで、芯があった。

 彼女はノートを開き、今日一日の“在った事実”だけを箇条書きにした。

 鍵。

 箱。

 封筒。

 銀粉。

 女の歩き。

 ピアス穴。

 梶谷礼司のサイン。

 監査部回付の朱。

 佐伯の“焦るな”。


「全部、繋がる気がします」


「繋がる為に、ばらばらに置く。――ばらばらに置いた物は、風が吹くと“筋”になる」


「風は、いつ吹きますか」


「誰かが嘘を吐いた時だ」


「……煙は嘘を吐かない」


「そうだ」


 紫郎は瓶の口をそっと閉め、秤の皿に指を置いた。

 黄銅の縁が薄く震え、音もなく止まる。

 外で橋脚の風が低く鳴き、港の方角から船の腹の軋む音が遅れて届いた。

 夜はまだ長く、匂いはまだ残っている。


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