第十二話 錠前と煙の記憶
朝の川風は細い鉄の匂いを連れて、常夜紫煙堂のガラス戸をそっと揺らした。
棚の硝子瓶は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま静かに光っている。
カウンターの上には陶器皿が二枚。
片方には塩の粒、もう片方には巻紙の切れ端と、昨夜の現場で拾った両切りの灰が 一つ。
灰の先は細く、右へわずかに折れていた。
「おはようございます、紫郎さん」
鈴が鳴って、天田芽衣子が入ってきた。
襟元の布には細かな皺が増え、短い眠りを早足で畳んだ顔だ。
右手には小さな真鍮色の鍵。
プレートには“312”。
「それは」
「机の引き出しの一番奥から出てきました。昨日の夕方までは無かったはずなんです。……誰かが入れた。そうとしか思えません」
「見せてくれ」
紫郎は手のひらで鍵をころがし、鼻先で軽く息を吸った。
金属の匂いの下に、手指消毒液のような薄いアルコール、そして、ごくわずかに胡桃油の残り香。
家具や木箱に使う仕上げ油の甘い影がついている。
「駅のコインロッカーの鍵だな。プレートの書体が新しい。だが油は新しくない。最近触った手が“木工”をやっている」
「木工……ヒュミドール?」
「匂いは嘘を吐かない。行こう、駅だ」
「課長への報告は?」
「報告した途端に鍵が“元の持ち主”に戻るかもしれない。見るべき事は自分の眼で見よう」
「了解です」
天田は頷き、鍵を握り直した。
金属の冷たさが掌の線をなぞった。
ーーー
駅のロッカーは新旧が入り混じる列を作り、人の波の切れ目にあわせて口を開けたり閉じたりしていた。
その一角、塗装の剥げた古い扉が 一つ。
新品の群れの中で、そこだけが時間を抱えたように沈んで見える。
プレートの数字は“312”。
天田は鍵を差し込み、紫郎は周囲の通行人の流れを一度だけ横目で確かめた。
「開けます」
「待て。……今、通り過ぎた配送ベスト。背中の赤白ステッカー、黒テープ一本」
「昨夜の合図」
「顔は見えない。だが、警戒はした方がいい」
天田は小さく息を止め、鍵を回した。
金属が鳴り、扉が開く。
中から現れたのは、掌より少し大きい木箱。
厚みのある蓋、角の面取り。
艶は深く、木口は赤みがかった褐色。
スペイン杉――いわゆるスパニッシュシダーの匂いが、箱の外側にまで薄く漂っていた。
「……棺みたいですね」
「葉巻用のヒュミドールだ。輸入品の定番仕様だが、金具の作りが粗い。量産の廉価版か、“内側だけ本物”の寄せ物かもしれん」
蓋を開ける。
中は空。
だが空気は空ではなかった。
乾いた木の息にまじって、揮発しきっていないプロピレングリコールの甘さ、そして、香料をほとんど含まない糊の匂い。
巻紙の端に塗られた透明な糊が、かすかに箱の内壁へ移っている。
「長期保管の匂いじゃない。最近“匂いを作った”箱だ」
「何かを隠す為?」
「匂いで匂いを消す。葉巻の箱は最適だ。家具扱いで通関出来る。中身は“木工品”。……だが、これは偽装が下手だ」
紫郎は内壁の隅に黒い点を見つけた。
指先でそっと擦ると、指にほんのわずか茶色がつく。
焦げ跡。
そこに鼻を寄せ、瞬きを一度置いて匂いを確かめた。
「紙巻のフィルターを炙った匂いだ。酢酸セルロースの焦げと、微量の香料の残り。葉巻なら、ここまで“酸”は立たない」
「誰かが、ここで試した」
「火の回りを確認したんだろう。“燃え残り”を確かめる為だ」
天田は息をのみ、指で箱の縁をなぞった。
指に伝わるのは薄い粉の感触。
白い微粉。
箱の角に、シリカゲルの小袋の破れが押し付けられた痕がある。
「湿りを嫌った。匂いが“残る”から」
「ロッカーは空気が動かない。香りは籠もる。ここで使えば、誰の手にも匂いが移る」
紫郎は箱を閉じ、手早く内側に視線を走らせた。
蓋の裏、浅い凹みの横に目立たない針金の引っ掛け。
簡素な二重底の仕掛けだ。
底板の縁を爪で押す と、薄い板がわずかに浮いた。
だが中は空。
「外された後だな。受け渡しが済んでいる」
「受け渡し……誰と」
「合図を出した“黒テープ”の方だ。ここまで見せる為に、鍵を天田の机に入れた」
「挑発、ですか」
「誘導だ。『見に来い』。――そして『報告をすれば消える』という予告でもある」
「課長に言えば、無くなる」
「だから今ここにいる」
その時、背後から柔らかな声が落ちた。
「お二人さん、こんな所で何を」
佐伯課長が立っていた。
制服の襟は緩く、手にはコンビニの小袋。
夜食の湯気が白く薄い。
「課長……」
「駅で夜風に当たるのも仕事のうちだ。で、それは?」
「店の仕入れで似た箱が紛れていて。確認を」
「ふうん。ほどほどにな」
佐伯は笑って、視線を箱へ落とすでもなく、ロッカー群を一目だけ見渡した。
足元の線を踏まない歩き方で、静かに背を向ける。
「天田」
「はい」
「夜食のついでに巡回だ。偶然だな。――いい夜だ」
佐伯はそれだけ言い残して雑踏へ消えた。
風の向きが変わり、コンビニの揚げ物の匂いが人波の間でちぎれた。
「……偶然、ですか」
「偶然は続けば必然だ」
「報告、どうします?」
「箱は返しておく。鍵は預かる。――記録は残すが、今は“人”より“匂い”を信じる」
「分かりました」
天田はロッカーの扉を閉め、鍵を抜いた。
金属の重みはさっきより増したように思えた。
ーーー
駅務室のドアは固く、応対は丁寧だった。
天田は身分を示し、最低限の情報開示を求める。
非公式の照会に応じる限界はあるが、係員はロッカー“312”の使用ログの一部を紙に出力してくれた。
時刻、使用時間、決済方法。
交通系ICの匿名決済。
記録の始まりは昨夜二時。
終了は今朝四時半。
間に短い開閉が二度。
「防犯カメラの映像は」
「そちらは正式な文書でお願いします。こちらからは提出出来ません」
「承知しました。……ありがとうございます」
部屋を出る と、紫郎は受け取った紙を昼光に透かした。
印字の線と紙のざらつきが、指先に細い音を立てる。
「二時に開け、二時半に閉める。三時十五分に再び開く。四時半に閉める」
「合図のタイミングと重なりますね」
「重なるように“作られた”。……それと、ここ」
紫郎が指で示したのは、紙の端に小さく押された“清掃済”のスタンプ。
押印の時刻は“明け方五時”。
だが、押印のインクの色が薄く、端に擦れがある。
「清掃が入った“後”に誰かが触れている」
「誰が」
「清掃の鍵を持っている人間。あるいは、清掃を“名乗った”人間」
「内部の人間」
「内部の鍵を外に持ち出せる人間だ」
天田は無意識に鍵を握り直した。
掌の中の冷たさが、皮膚の汗を薄く吸う。
「戻りましょう。……箱はどうします?」
「借りる訳にはいかない。元に戻す。だが、匂いは置いていく」
「匂い?」
「箱の内側に“壁”を一枚。気付かれない程度に。触れた指にしか分からない膜だ」
「合法の範囲でお願いしますよ」
「もちろんだ」
紫郎は店へ寄ると、ごく薄い蜂蜜の影のような香りを練り、箱の内側に触れずに空気だけを擦り付けるように通した。
鼻で感じ取れるかどうかの手前の濃さ。
匂いがあれば、次に誰かが触れた時、指先に“似合わない香り”が残る。
「戻す」
「はい」
再び駅へ戻り、ヒュミドールを同じ位置に戻す。
扉を閉じ、鍵穴の縁の傷を写し取り、時間の印を心に置いて店に帰った。
ーーー
夕方、商店街に黄色い灯りが増え、提灯が風に揺れる。
常夜紫煙堂のガラス戸に貼られた紫の影が、歩道に長く伸びた。
天田はメモを整理し、受け取ったログの数字を線で結ぶ。
紫郎はカウンターの端に灰皿を置き、灰の折れ方を軽く確かめるだけで、しばらく黙っていた。
「天田」
「はい」
「輸入家具の幹部“梶谷”。彼が昨夜、ヤードで合図を手配した。合図は駅の“312”へ繋がる。箱は葉巻の偽装。配送は家具扱い。……全部の線が一本になる」
「でも、箱は空でした」
「空の箱が一番厄介だ。中身が無いという“証拠”になる。匂い以外、何も残らない。相手はそれを知っている」
「匂い……」
「箱の内壁に触れた指は、次にどこかを触る。その跡に“似合わない香り”が残る。――それを追う」
「似合わない香り?」
「家具屋の手からは出ない種類の香りだ。舞台用の巻紙“ K-12/31 ”に使う粘剤の“薄さ”に合わせた層。あれは、ただの接着ではなく“匂いを邪魔しない為の技術”だ。家具の世界の接着より、舞台の世界の接着に近い」
「協会の外注“アドバイザー”と家具会社の幹部の線が、そこで重なる」
「重なる。しかも、鍵は天田の机に“入った”」
「内部の人間の手がある」
「今は“匂い”だけを信じる」
鈴が鳴らず、金具がわずかに擦れた。
天田が視線を戸へ送る。
誰も入ってこない。
外の通りで、配送ベストの背中が一瞬立ち止まり、すぐに人波に紛れた。
「紫郎さん」
「うん」
「ロッカー“312”を監視しますか」
「監視は警察の仕事だ。……だが、見に行くのは誰の仕事でもない」
「分かりました。行きましょう」
「今夜は“遅い方”がいい。合図は夜に出る」
「はい」
天田は手帳をポケットに戻し、店の灯りを一段落とした。
紫の看板が外に浮かぶ。
常夜の色だ。
ーーー
夜の駅は昼よりも広く見えた。
人の波が薄くなり、足音の間に空白が出来る。
ロッカーの列は冷たい光を返し、金属の扉が等間隔に沈黙している。
天田と紫郎は柱の影から、通路が狭くなる“角”を挟んで並んだ。
人の流れに背を見せない位置。
天田は無線を耳に当て、連絡網から切り離された“個人の耳”にする。
十一時を過ぎた頃、配送ベストの背中がもう一度、静かに現れた。
赤白の管理ステッカー。
その端に黒いテープが一本。
顔はフードの陰。
歩幅は慌てていない。
彼はロッカー“312”の前で立ち止まり、辺りを見回すでもなく、鍵穴に細い金属を差し込んだ。
動作は迷いがない。
鍵は“持っている”のではない。
合鍵を“知っている”手だ。
扉を開け、箱を取り出す。
片手で重さを測り、すぐに蓋を開ける。
中身を確認する動きは短く、一瞬。
何も入っていない箱へ、彼は薄い封筒を 一つ滑り込ませた。
封筒は透明なPETの袋に入っており、角に小さな赤いシール。
舞台道具の納品で使う管理シールと同じ形だ。
「入れた」
天田が口の中で言う。
紫郎は小さく頷き、視線だけで“待て”と合図を送る。
男は蓋を閉じ、扉を閉め、何事もなかったように踵を返した。
歩幅は変わらない。
通りの角で曲がる。
人の波に紛れる。
「今」
「待て。もう 一人来る」
言葉の通り、二分もしないうちに、別の影が“312”の前に滑り込んだ。
背の高い女。
フードの縁から覗く髪は襟足で束ねられて、肩の線は揺れない。
軍手の上に薄いニトリル手袋。
鍵を回す。
躊躇いがない。
扉を開け、箱を取り出し、蓋を開ける。
封筒を確認し、別の封筒とすり替える。
差し替えは滑らかで、封の音さえ出ない。
蓋を閉じ、箱を戻し、扉を閉じる。
視線は上がらない。
完全に“手順化された手”だった。
「すり替え」
「プロだ。舞台の段取りみたいに無駄がない」
「尾行を」
「一瞬遅れれば見失う。角で割れる」
「でも行くしか」
「行く。……天田は箱だ。俺が女を追う」
「了解」
天田は波を縫ってロッカーへ向かい、扉を開けた。
箱は同じ位置にある。
蓋を開け、封筒を指で挟んで取り出す。
透明な袋の中の紙は白い。
ただ、それだけのはずなのに、袋の内側の端に、かすかな光沢の筋。
指に触れる と、目に見えない膜が滑る感触。
――紫郎が置いていった“匂いの壁”が、袋の角に移っていた。
紫郎は女の背中を追って通路の角を曲がった。
階段。
女は上へは行かない。
エスカレーターも使わない。
踊り場で止まる気配。
柱の影。
紫郎が一歩踏み出した瞬間、反対側から別の男が“偶然”ぶつかる動線を入れてきた。
肩が当たり、胸ポケットの内側が軽く引かれる。
女の姿は柱の陰から消え、代わりにエレベーターの扉が閉まる金属音が響いた。
紫郎はポケットを確かめた。
抜かれてはいない。
代わりに、薄い紙が 一つ入っていた。
名刺大の白紙。
片面にだけ、細い銀の粉が擦りつけられている。
「……手癖が良すぎる」
「あの女性は?」
「エレベーターで降りた。下で入り混じった。外で拾うのは難しい」
「戻ります」
「戻ろう。――袋は絶対に開けるな。店でやる」
「了解」
夜風が通路を抜け、冷たい金属の臭いと人の衣服の洗剤の匂いを混ぜ合わせた。
紫郎は白紙の“名刺”を封筒に重ね、深呼吸を一つして歩き出した。
ーーー
店に戻る。
ガラス戸を閉め、照明を一段落とす。
カウンターの上に封筒を置き、紫郎は手を洗って指の匂いをゼロに近づけた。
天田は軍手を外し、薄い手袋を新しくはめ直す。
「開ける」
「記録します」
スマホのカメラを三脚に固定し、角度を合わせ、光量を揃える。
透明袋の封を切らずに、外から内容を目で追う。
白い紙。
A4の四分の一に切ったただの紙に見える。
だが、紫郎は袋の端の“光沢の筋”を指先でそっと押さえた。
「袋の角に、さっきの“壁”が移っている……そう。角“だけ”。――角を持つ癖。段取りを知っている手は角を押さえる。中身を汚さない為だ」
紫郎は袋の封を切り、紙をピンセットで取り出した。
紙は無地。
光に透かしても透かしはない。
だが、紙の中央、四角く薄く色が違う。
そこだけ僅かに“重い”。
紙の繊維が密だ。
「貼って剥がした跡だ。糊は残していない。圧でだけ残した」
「何を」
「QRコード」
紫郎は鉛筆の粉を柔らかい布で薄く伸ばし、紙の中央を軽くこすった。
黒くはならない。
だが、光の反射が細かく変わり、小さな四角が並んだ“跡”だけが浮かぶ。
薄い、ほとんど見えない。
カメラで撮影し、コントラストを最大に上げる。
画面に、読めるかどうかのギリギリの“コードの影”が現れた。
「読み取り、出来ますか」
「直接は無理だ。だが、ノイズを除けば、粗い座標くらいは出せる」
「座標?」
紫郎は画像の四角を自分の眼で数え、手で矩形をなぞり、落ち方の“傾き”を確かめた。
四辺のうち一辺が僅かに長い。
歪んでいる。
「倉庫街。湾岸。――弦月サービスのヤード近く。昨日見た場所と同じ帯だ」
「梶谷さんの“地元”」
「偶然は続けば必然だ」
天田はメモに座標を書き、口の中で読み上げ、深呼吸をした。
「課長に報告を」
「今は“報告した”形を残すだけでいい。内容は薄く、動きの遅い書類を選ぶ。――夜が明けたら、正規手続きでカメラを取る。今日の分は、天田の眼で押さえたらいい」
「分かりました」
紫郎は白紙の“名刺”をもう一度見た。
片面に薄い銀の粉。
舞台用の反射粉。
照明の角度で光り、視線を誘導する為の“目印”。
女は動線の“光”を知っている。
「舞台の人間だ」
「舞台の、ですか」
「振付を知っている。道具の触り方を知っている。匂いを邪魔しない。――展示の杉谷が言っていた“委託の委託”。そこにいる」
「協会の外注アドバイザー」
「名前が残らない所」
天田は頷いた。
頷きながら、鍵“312”を机に置き、写真を撮り、時計を写し込んだ。
机の天板に落ちる影が、少しだけ長くなっている。
「紫郎さん」
「なんだ」
「鍵を、私の机に入れたのは“誰”でしょう」
「鍵を入れられる人間。おまえの机の場所と、時間を知っている人間。掃除、配達、同僚、上司。――誰でもある」
「……言い方がずるいです」
「誰でもある、は『誰か一人ではない』という意味もある。個人を見に行くと、外す。匂いを見ろ」
「匂い」
「鍵の金属には木工の油の匂い。手指消毒のアルコール。――警察署の中でそれを“常時”纏っている人間は多くない」
「協会の出入り業者が署内に?」
「名札を付けていれば、誰も止めない。『課内の誰々から書類を受け取りに』――言い方一つで足は通る」
「……明日、受付に確認します」
「頼む」
夜は深くなり、通りの足音は途切れがちになった。
紫郎は瓶の口を 一つだけ緩め、空気に薄い層を置く。
香りはすぐに店の梁で止まり、どこにも行かない。
「紫郎さん」
「うん」
「今日の“合図”、次に繋がりますか」
「繋げる。箱は空だ。だが、空にしか入れられない物もある」
「何です?」
「嘘だよ」
天田は思わず笑い、すぐ口元を引き締めた。
「笑ってる場合じゃありませんね」
「笑って、いい。笑えるうちは、間違えない」
「はい」
天田は封筒と白紙の名刺を袋に戻し、机の引き出しに鍵と一緒に入れた。
引き出しを閉める前に、もう一度だけ鍵のプレート“312”を確かめる。
数字はただの数字だ。
だが、数字は道になる。
「紫郎さん」
「なんだ、天田」
「……煙は、嘘を吐かない、ですね」
「そうだ」
紫郎の声は小さく、しかし確かだった。
瓶の唇が同じ高さで囁き、黄銅の秤は皿を閉じたまま、針を零に置いている。
外で橋脚の風が低く鳴り、看板の紫が歩道に薄く伸びた。
匂いは店に留まり、夜は均一に長く続いていく。




