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第25話:フィンの常識崩壊

裏庭に出た瞬間、肌を刺すような空気の揺らぎを感じた。魔力が大気と干渉し合い、空間を歪めている証拠だ。


視線の先にはフィンの背中があった。彼は足幅を肩幅に広げ、右手の中指と人差し指を前方に突き出している。その先には、木製の的が立っていた。周囲の地面は熱を帯び、土が乾燥してひび割れを起こしている。フィンの唇は絶え間なく動き、呪文の羅列を空気に刻み込んでいた。


「ノアさん、お帰りなさい」


靴音に気づいたのか、フィンは姿勢を解いて振り返った。


「ただいま。今日も、稽古ですか」

「はい。実は、聞きたいことがあって」


フィンは小脇に抱えていた革表紙の手帳を両手で持ち直し、俺の正面へと歩み寄ってきた。手帳の端は指の脂で変色し、角が擦り切れている。彼がどれだけの時間をそのページと睨み合ってきたかを物語る痕跡だった。


「基本の詠唱、だいぶ安定してきたと思うんです。それで……」


そこで言葉を切ったフィンの視線が、俺の目と手帳の間を行き来する。


「それで?」


先を促すと、フィンは決意を固めたように息を吐き出した。


「その、無詠唱発動って、本当に俺でも可能なんですか」


彼がその話題を口にする理由は理解できる。以前、俺が声を出さずに魔法を放った光景が、彼の頭の片隅に居座り続けているのだろう。身を乗り出す姿勢を前に、俺は言葉を選ぶために間を置いた。


「可能ですよ。俺自身、無詠唱で魔法を発動出来たんですから」


事実を告げると、フィンは手帳を握る指に力を込めた。


「でも、詠唱がなかったら、術式を組み立てる基準が存在しないですよね。理論的に、成立しないはずなんです」


フィンの声には、戸惑いの色が滲む。魔法は言葉によって形を成す。そう信じて疑わずに生きてきた彼にとって、言葉を省く行為は、建物を建てる際に骨組みを捨てるようなものなのだろう。アカデミーの教本にも、言葉こそが魔力を導く手綱だと記されているはずだ。


「理屈は、俺にも分かりません。でも、試してみる価値はあると思います」


俺自身、魔法の理屈を言葉で説明できるほど理解しているわけではない。ただ、体内に眠る魔力を引きずり出し、形を与えて放つという一連の動作を、息をする感覚で行っているだけだ。理論よりも感覚。それを彼に伝えるためには、実際に体験してもらうのが一番の近道だった。

俺の返答に、フィンは唇を噛みしめた。数秒の沈黙の後、彼は首を縦に振る。


「……分かりました。やってみます」


「まず、いつもの詠唱をしてみてください。今日は、付与なしで」

「はい」


フィンは踵を返し、再び的のほうへ向き直る。肺の奥まで息を吸い込み、彼の口からよどみなく言葉が紡がれた。

「――炎よ、我が意志に従いて――」

呪文をトリガーとして大気が震え、彼の手のひらの前に熱が集束していく。瞬きする間に形を成した炎の球体が、空気を焼く音を立てて的へと飛んでいった。着弾の衝撃とともに火の粉が散る。軌跡はブレることなく、寸分の狂いもない。彼が日々積み重ねてきた基礎が、目に見える形となって表れていた。


「じゃあ、今度は――詠唱を、途中で止めてみてください」

「え、途中で……?」


意表を突かれたのか、フィンが目を見開く。


「はい。言葉を途中で切り上げて、その代わり、頭の中で術式のイメージだけを、はっきり思い描いてみてください」

無理難題を口にしている自覚はある。しかし、感覚を掴むには段階を踏む必要がある。フィンは手帳を地面に置き、両手を握ったり開いたりしながら、的を見据えた。


「炎よ――」


そこで声が途切れた。彼は目を閉じ、眉間に皺を寄せる。言葉を失った魔力が行き場を探して周囲を漂う気配がした。フィンは歯を食いしばり、脳内のイメージを物理現象へと変換する作業に没頭している。

風が木々の葉を揺らす音だけが響く中、彼の突き出した手のひらの中心に、光が灯った。最初は蛍の光を思わせる瞬きだったものが、徐々に熱を帯び、膨張していく。


「――っ、な、なんで……」


フィンの口から漏れたのは、歓喜ではなく、恐怖すら混じった声だった。彼の掌から放たれた炎の球は、先ほどより規模が縮小しているものの、確かに空間を飛び、的に命中して焦げ跡を残した。


「……嘘、だろ」


自身の右手を、見知らぬ物体であるかのように見つめる。指先が微かに震えていた。


「詠唱、全部してないのに……」

「できましたね」

「な、なんで……できちゃったんだろう、俺……」


理解が追いつかないというように、フィンはうわごとを繰り返す。


「多分、詠唱っていう行為は、術式を組み立てるための『補助輪』でしかないんだと思います。頭の中で完成図を描くことができれば、言葉による補助がなくても、魔法は発動するんじゃないかと」


俺が推測を口にすると、フィンは頭を抱える仕草を見せた。


「そんな……理論上、あり得ないはずなのに」


彼がこれまで学んできた魔法の法則。それが音を立てて崩壊していく過程を、彼自身が至近距離で目撃しているのだろう。常識がひっくり返る瞬間の衝撃は、彼から言葉を奪っていた。


だが、彼の中に眠る魔法への執着は、その衝撃を飲み込もうとしていた。土の地面を見つめていたフィンが、ゆっくりと顔を上げる。


「――ノアさん」


その声には震えが残っていたが、瞳の奥には熱が宿っていた。


「本当に、一切の言葉を用いずに発動できるか、確かめてみたいんです」

「付与して、感覚を体験してみますか?」


俺の提案に対し、フィンは横に首を振った。


「いえ、自分の力でやってみたいです。さっきの結果を目の当たりにしたら、何だか、俺にも手が届く気がして」


未知への恐怖よりも、好奇心が勝った証拠だ。


「必ずできますよ。言葉にしなくても、魔力を編み上げ、発動させる感覚は、先ほど体で覚えたはずですから」

「……やってみます」


フィンは再び的の前に立つ。今度は目を開いたまま、じっと前を見据えた。口は固く結ばれている。言葉を発することなく、彼自身の内側にある魔力だけを動かす。

俺は呼吸を潜め、彼の様子を観察した。フィンの周囲の空気が、じわじわと温度を上げていく。彼が頭の中で炎を形作っているのが、肌に伝わる熱気で理解できた。体内を巡る魔力を右手に集め、限界まで圧縮していく過程。周囲の酸素が奪われる錯覚を覚える。


言葉がない分、魔力の制御に全神経を集中させている。フィンの額から汗が流れ落ち、顎を伝って地面に落ちた。雫が土に染み込むよりも早く、その瞬間は訪れた。

彼の手のひらの前に、突如として炎の塊が出現した。それは先ほどの半詠唱の時よりも密度を増し、熱量を持っていた。空気の膨張とともに発射された球体が的に命中し、木材の焼ける匂いが鼻腔をくすぐる。


「……」


フィンは無言のまま、的から立ち上る煙を見つめていた。やがて、その視線が俺へと向く。


「できましたね」


俺が告げると、彼は喉の奥で息を呑んだ。


「ノアさん、もっと、教えてください。俺、まだ知らないことが、山ほどある気がします」


常識を打ち破った事実への驚愕は鳴りを潜め、代わりに、知識と技術への底を見せない探究心が彼を突き動かしていた。理論というこだわりに蓋をした欲求が、彼の全身からあふれ出ている。


「もちろんです。一緒に、確かめていきましょう」


俺がそう答えた直後だった。

裏庭の入り口から、砂利を力任せに蹴り上げる足音が響いた。


「ノアさん!」


振り返ると、肩で息をするケインの姿があった。


「ギルドから、依頼が来てます! それも――ノアさんを除く、暁の雫三人だけで受けてほしいって、指名で!」

ケインの言葉に、裏庭の空気が一変する。

フィンは地面に置いた手帳を拾い上げた。魔法の探究は一時停止だ。俺たちは互いに視線を交わし、息を呑むケインの元へと歩みを進めた。

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