第19話:リナ、最初の第一歩
夜が明けきらない時間帯。ギルドの木扉を開けると、油と酒の混じった匂いが鼻を突いた。壁の端に留められた羊皮紙を引き剥がし、受付のカウンターへ置く。
町を囲む柵の先、木々が密集する地帯に現れる角兎を間引く依頼。命の危機に瀕する可能性は限りなくゼロに近い。だからこそ、選んだ。
石畳の道を抜け、土の地面へと足を踏み入れる。朝霧が立ち込める中、先頭を歩くリナへ声をかけた。
「今日は、リナさんを中心に動くつもりです」
振り返った彼女は、足を止めてこちらを見た。
「私、ですか」
「ええ。斥候としての感覚。視線の出処、周囲に潜む気配。そういったものを、実戦の中で体に覚え込むために」
言葉の意図を察したのか、リナは一度まばたきを遅らせてから、首を縦に振った。唇が真一文字に結ばれている。
「分かりました」
森へ入ると、靴の底が湿った落ち葉を潰す音が響き始めた。しばらく進んだ先で、前方にある茂みの奥からカサリと音がする。草葉が揺れる動きに、獲物の存在を確信した。
「リナさん、そこで止まってください」
歩みを止めさせ、俺は目を閉じた。意識の糸を束ね、彼女の感覚と結びつけるイメージを脳内に描く。
「一部付与をオンにします。今からオフにするまでの感覚を出来る限り覚えておいてくださいね」
自分のスキルで、何を送るか、何を送らないか、について具体的に可能になっていた。
念じた直後、リナの肩が跳ねた。
オンにしてからすぐに気づいた。
何かに見られているという身震い。
視線を感じる。
「……あ」
吐息のような声が漏れる。彼女の視線が左右に泳ぎ始めた。
「今、何かに気づきましたか」
「はい、あの角兎の群れから、見られているような。肌の表面を、誰かの指先が撫でていくような感覚が」
「その感覚を、忘れないでください。今から、角兎の群れに近づきます」
腰を屈め、音を立てずに茂みをかき分ける。十数歩進んだ先、開けた場所で四匹の角兎が草を咀嚼していた。額から天へ向かって伸びる角が、朝露を反射して光っている。
「リナさん。あの群れの中で、真っ先に逃げ出しそうな個体はどれか、分かりますか」
リナは木陰から群れを観察し、迷うことなく指を差した。
「……あの、耳を立てている一匹だと思います」
他の三匹が草を食むことに夢中になる中、その一匹だけは常に首を巡らせ、耳の角度を変え続けていた。先ほど感じた視線の出所もあの角兎だとの判断だろう。的確な観察眼だ。俺は頷き、次なる感覚を意識の底から引き上げた。
周囲の空間から伝わる、生き物の息遣い。
気配を察知する感覚を接続する。
「――っ」
リナが目を見開いた。彼女の喉がゴクリと鳴る。
「今この群れ以外からも、別の見えない所に何かを感じました」
「それが、気配を察知する感覚です」
そこから、俺たちは実戦の中で検証を繰り返した。
「次は、気配を消す感覚を」
脳内のスイッチを切り替える。その瞬間、目の前にいるはずのリナの存在感が、霧に溶けるように霞んで見えた。俺の目から見ても、風景の中に彼女の輪郭が同化しているように錯覚する。
「なんですか、これは……自分の体が、すりガラスになったような」
戸惑いを口にしながらも、リナは音もなく角兎の群れへとにじり寄っていく。落ち葉を踏む音も、衣服が擦れる音も、周囲の空気に溶け込んで消える。群れは食事を続け、接近する彼女の存在に気付く様子を見せない。
小太刀が鞘から滑り出る音とともに、銀の軌跡が宙を描いた。耳を立てていた個体が、反応する暇も与えられずに地面へ崩れ落ちる。
何が起きたかわからないだろう、三匹の角兎たちは明らかに混乱していた。
「残りも!」
三匹の角兎たちも、糸を切られた操り人形のように倒れていった。
「リナさん、今までの感覚、覚えてるうちに切りますね」
世界が反転した。
「今、急に、全てが塞がれたような……あっ、そうだ、思い出さないと」
だがこれは本来、一度でできることではない。ノアは長い目で見ていた。
リナは実際にこういったことが出来るんだ、という事実がモチベーションを上げていた。
もう一度お願いしますという要望を受けノアは感覚付与をする。
「解除した接続をもう一度、繋ぎます」
再び感覚を流し込むと、彼女の目に光が戻り、周囲の空間を捉える鋭さを取り戻した。
「今の、もう一度、頭の芯で味わえた気がします」
「今日はこの手順を、何度も繰り返します。負担はかかりますが」
「問題ありません。……むしろ、もっと試したいです」
実戦の最中、俺は何度も感覚のオンとオフを繰り返し続けた。
敵意を肌で感じる感覚。気配を断つ感覚。他者の視線を捉える感覚。
一つずつ、命のやり取りという状況下で、リナの脳と筋肉にその動きを刻み込むように。
「今のは、また違う反応でした」
額に汗を滲ませ、息を荒げながらも、リナは自分の中で起こる変化を言葉にしていく。
その様子を、少し離れた木の根元からケインとフィンが見守っていた。
「見ろよ、リナのやつ。あんなに目を血走らせて集中してる姿、初めて見たぜ」
ケインが腕を組みながら呟く。
「頭の中で意識の形を作らないと再現できない感覚のようだから、脳の処理が追いつかないんだろう」
フィンは手元のノートに羽ペンを走らせ、状況を記録し続けていた。
群れの討伐を終え、木の切り株に腰を下ろして食事を取ろうしていた時のことだ。
「ノアさん」
水筒を置いて、リナがこちらを向いた。疲労で肩を上下させながらも、その両目には確かな熱が宿っている。
「今日、何度も感覚を切られた時……その直後の一瞬だけ、さっきまでの感覚が、体に張り付いているような気がしたんです」
その言葉を耳にした瞬間、俺は息を呑んだ。
もしかして、これは。
ただ俺の能力を貸し与えているだけではない。彼女自身の細胞が、貸し出された感覚を覚え、自ら模倣し始めている。借り物の力が、本人の中に根を張る兆し。
「それは……今後の要になる感覚かもしれません」
早鐘を打つ心臓の鼓動を抑えながら答えると、リナは力強く頷いた。
「もっと、続けたいです。体が忘れないうちに」
彼女の言葉に応えるべく、俺は再び意識を束ねようとした。
だが、その時。
森の奥深く。光さえ届かない茂みの向こう側から、肺の空気を強制的に絞り出されるような、得体の知れない存在感が押し寄せてきた。
「……今のは」
呟きと同時に、リナが弾かれたように立ち上がる。剣の柄に手をかけ、視線を森の奥へと固定した。
「ノアさん、私も今……感じました」
鳥が羽ばたく音すら消え失せた静寂。木々の隙間、深い闇の底。
何者かが、確実にこちらを見据えている。皮膚の表面を削り取るような、強烈な警戒心を伴って。




