痛みの洗礼、そして声
ドス黒いマグマが煮え滾る、奈落の最下層。
巨岩を容易く粉砕する漆黒の魔獣が、地響きと共にその悍ましい巨躯を揺らしていた。
レオンの魂が、肉体の最奥で身構える。
天の意志は、盾役であったバルドの穴を埋めるため、レオンの四肢を前線へと引きずり出した。かつてのように背中を守ってくれる大盾はない。魔獣が振り下ろす、火柱を纏った巨大な爪。レオンの肉体は逃げることすら許されず、大剣を構えてその暴虐を正面から受け止める動作へと固定された。
ズガァァァァァン!!!
鼓膜を容赦なく破壊する爆音と、凄まじい衝撃。
魔剣の刀身を通じて、両腕の骨が砕け、肉が引きちぎられるような激痛がレオンの神経をドロリと駆け抜けた。あまりの痛みに意識が白く染まりかける。
だが、本当の地獄はそこからだった。
ピキィィィィィン――。
二人の頭上を結ぶ、あの血のように脈打つ「青い光の線」が、悲鳴のような放電音を立てて激しく点滅した。
【双魂の契り】。
おぞましい因果の強制分配。レオンが受けるはずだった破壊的な衝撃の正確に半分が、肉体を抉るような信号に変換され、後方に佇む白衣の少女――ルナへとダイレクトに流し込まれたのだ。
「あ、が……っ!?」
完璧な静止ポーズを保っていたはずの聖女の肉体が、突如として不自然に折れ曲がった。
法衣の胸元が内側からの衝撃で激しく弾け飛び、口元から、毒々しいほど鮮やかな「血」が、ガバッと地面に吐き散らされたのだ。
それと同時に、レオンの一本の細長い「赤い浮遊する帯」が削れるのと全く同調して、ルナの「命の総量」がチリチリと燃え盛るようにして一気に半分まで削り取られていく。
(やめろ……! 頼む、やめてくれ……!)
レオンの魂は、自らの神経を引き千切らんばかりに叫び、悶え苦しんだ。
自分が傷つくことなど、もうどうでもよかった。何度も死を繰り返し、肉体を爆散させられてきた彼にとって、痛みはとうに慣れ親しんだ泥のようなものだった。
だが、あの震えていた無垢な少女に、自らの身代わりとして「半分」の激痛を、生々しい肉体の破壊を強制的に押し付けさせられている。その事実は、レオンの心をどんな怪物の爪牙よりも深く、残酷に切り裂いた。
天の主たちは、ルナの命が減少したことすら「ただの想定内の一時的な数値の低下」としか認識していない。
レオンの肉体は、倒れ伏すルナに視線すら向けず、流れるような冷徹さで大剣を振り抜き、戦いを「最高効率」で終わらせるための殺戮を淡々とこなし続けた。
そして、夜が来る。
「プツン」と支配の糸が切れ、レオンに主権が返還された。
「はぁっ、はぁっ、がはっ……!」
上半身を跳ね起き、レオンは激しく呼吸を乱した。
昼間の戦いで砕かれたはずの肋骨や、裂けた皮膚は、白々しいほど完璧に修復されている。
だが、肉体的な傷が消えても、神経の奥に焼き付いた「ルナが血を吐いて崩れ落ちた瞬間のあの振動」だけは、今もドクンドクンとおぞましい拍動を伴ってレオンの胸を支配していた。
宿屋の、半径数メートルだけの薄暗い「夜の檻」。
そこには――昼間、無理やり婚姻を結ばされたルナもまた、全く同じ生存領域のなか、すぐ傍のベッドに横たわっていた。
二人は今、同じ空間にいる。
夜の間だけは、言葉を発することも許されている。
けれど、レオンは暗闇の中、ただ膝を抱え、きつく奥歯を噛み締めて沈黙し続けるしかなかった。
(何を言えばいい……? 謝れば済むのか? 僕のせいで、あの子の身体を引き裂いたのに……)
アリアを殺され、バルドを消され、今度は出会ったばかりの、同じ檻の中で怯えていた少女を、自分の存在そのものが傷つけていく。
自分は呪いなのだ。この世界を動かす神々の、ただの醜悪な毒の器なのだ。
言葉を発しようとすればするほど、罪悪感と気まずさが喉をきつく締め上げ、声にならない。孤独と、世界への暗い怒り。それらがレオンの胸の裂け目を満たし、彼を永遠の沈黙へと引きずり下ろそうとしていた。
その時だった。
静まり返った世界の底から、衣擦れの音が微かに響いた。
ルナが、ゆっくりと上体を起こしたのだ。
レオンは息を潜め、暗闇の中で身を縮めた。声をかけられるのが怖かった。なじられ、恨まれる覚悟すらできていなかった。
だが、静寂を引き裂いたのは、驚くほどか細く、けれど生々しい「本物の少女の声」だった。
「……痛かったよね? レオン」
脳髄が、激しく弾けた。
「あ……」
レオンは息を呑んだ。
痛みを同期させられ、身体を引き裂かれ、血を吐いて倒れ伏したはずの彼女が。
自分を呪い、恨んでいるはずの彼女が。
なぜ、最初に自分を気遣うような言葉を投げかけるのか。
「ルナ……? どうして……君は、僕のせいで……あんなに酷い目に遭ったのに……!」
震える声を絞り出したレオンに向かって、ルナはゆっくりと暗闇の中をにじり寄ってきた。
二人の命を結ぶ、あの忌まわしい『双魂の契り』の青い線が、今夜はなぜか、仄かな、驚くほど優しいぬくもりを帯びて静かに明滅し始める。
そして、その光の震えと同調するように――。
「――っ、うあ……!」
流れ込んできたのだ。
せき止められていたレオンの脳の深淵から、ダムが決壊したように、彼がこれまで抱え続けてきた「すべての痛みと記憶」が、青い糸を通じてルナの魂へと逆流していく。
アリアをこの右手で引き裂き、その骸の上で勝利の舞を踊らされた、あの貼り付いた笑顔の屈辱。
バルドが笑顔を剥ぎ取られ、涙を流して『たすけて』と口パクを繰り返しながら、何もない虚無へと消去された、あの凍りつくような喪失。
そして、仔犬を自らの手で化け物の喉奥へと投げ与え、形見を鉄屑として他人に品定めされた、世界へのどす黒い憎悪。
「呪いの器」として、孤独な檻の中でガタガタと震え続けていた、レオンの引き裂かれた魂のすべてが、奔流となってルナへと流れ込んでいった。
(やめろ……見てはだめだ……! 僕は君を傷つける呪いなんだ……!)
レオンは必死に心を閉じようとした。
けれど、同期は止まらない。
同時に。
レオンの頭の中にも、逆流するようにして、ルナが抱えてきた「孤独と恐怖の記憶」が、生々しい手触りを持って滑り込んできた。
真っ白な、広すぎる大聖堂の真ん中。
人間らしい呼吸を止められ、ただ美しい「聖女」の顔を貼り付けられたまま、何日も、何ヶ月も、完璧な姿を強要されていた日々のこと。
隣を走る人形たちが不気味に瞬きを繰り返し、世界の端が灰色のグリッドへと融解していくのを、首の固定された視界で見つめ続けるしかなかった恐怖。
尊厳すら剥奪されて、見知らぬ大剣士の「耐久力を補うパーツ」として不気味な指輪を肉に接着された、あの日の底なしの拒絶と絶望。
「ルナ……君も……君も、こんな、冷たい暗闇の中で、一人で震えていたんだね……」
お互いの魂の傷口が、文字通り一つに重なった。
レオンは、ルナの孤独の深さに涙し、ルナは、レオンの背負ってきた罪の重さに、声を震わせた。
「……そっ、か。……そんなことが、あったんだね」
暗闇の中で、ルナの声はレオンを拒絶するどころか、泣きそうなほど優しく、彼の魂の痛みをそっと撫でるように包み込んだ。
「……苦しかったよね、レオン。アリアさんのこと……バルドさんのこと……ずっと、ずっと、あなたの手で守りたかったんだよね」
「……う、あ……」
「あなたがアリアさんを斬ったんじゃないよ。あなたがバルドさんを消したんじゃないよ……。全部、あの、雲の上の人たちがやったこと。……あなたは、誰も傷つけたくなかった。すごく、すごく……優しい人だから」
その瞬間、レオンの胸の奥で、カチカチに凍りついていた何かが、音を立てて融解した。
自分の血塗られた右手を、アリアを殺した呪いそのものとして、誰よりも自分自身が忌み嫌っていた。
けれど、この少女は。
同じ地獄を這いずり、同じ痛みを半分背負ってくれたルナだけは、その手の汚れを知り、その内側で血を吐いて泣き叫んでいたレオンの「本当の心」を、まっすぐに見て、肯定してくれた。
「痛かったよね、苦しかったよね……。一人で、ずっと、この狭い檻の中で、耐えてきたんだね……。もう、一人じゃないよ。レオン」
「ルナ……君こそ……あんな冷たい場所で、ずっと呼吸すら許されずに、怖かったよね。……痛かったね、苦しかったね。君のような無垢な子を、僕の肉体が……あの契りが、傷つけてしまった……っ」
「ううん。私はね、嬉しかったの……」
ルナの、涙を含んだ微笑みの気配が、目の前で仄かな光を放った。
「……痛みを、半分……分け合えたから。私は、ただ動くだけの人形じゃなくて、レオンと繋がっている『本物の人間』なんだって……やっと、自分を見つけられたの。だから……ありがとう」
その瞬間。
度重なる絶望と喪失によって、完全に枯れ果て、凍りついていたレオンの瞳から。
熱い、本物の「涙」が、とめどなく溢れ落ちた。
「う……あ……あぁ……っ、ルナ……ルナ……っ」
もう、昼間の気まぐれな気まずさも、自分を呪う沈黙も、どこにもなかった。
レオンはたまらず腕を伸ばし、暗闇の中で、同じ痛みを背負ってくれたルナの華奢な肩を、強く、強く引き寄せた。
「あ……」
ルナの細い身体が、レオンの胸の中にすっぽりと収まる。
今度は、天の意志に強制された人形の「抱擁」ではない。
自らの意志で、自らの本物の筋肉を使って、お互いの温もりを確かめ合う、ただ一瞬の、けれど永遠のような本物の抱擁。
ルナもまた、レオンの背中に細い両腕を回し、その胸に顔を埋めて、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
ふたつの震える肉体が重なり合い、お互いの流す本物の涙が、肩口を熱く濡らしていく。
痛い。胸の奥が、ちぎれるように痛い。
だがそれは、天の支配に四肢をかき混ぜられる時の、あの悍ましい拒絶の激痛ではなかった。
自分の存在を認め、自分の罪を知り、この果てしない暗闇の檻の中で、お互いの魂の痛みを慈しみ合い、抱きしめ合う本物の人間が存在するという、狂おしいほどの感動と救いの痛みだった。
システムの冷酷な歯車として用意されたおぞましい【双魂の契り】。
けれど今、二人の、引き裂かれた魂は。
その忌まわしい因果の糸を逆手に取るようにして、システムの網目を突き破り、誰にも侵されない二人だけの「心の聖域」を、そのぬくもりの中に確かに作り出していた。
窓の外では、光源の明度を段階的に切り替えながら、いつもと変わらない白々しい偽りの朝陽が世界を照らし始めようとしている。
朝が来れば、また肉体の主権は強奪され、笑顔を貼り付けさせられ、自分たちは操り人形へと戻されるだろう。
だが、もう昨日までのレオンではない。
暗闇に包まれた、わずか半径数メートルの檻の真ん中で。
レオンとルナは、お互いを泣きながら強く抱きしめ合ったまま、濡れた瞳の奥に、かつてないほど静かで、そして眩い「救いと反逆のともしび」を確かに灯していた。
【双魂の契り】。
お互いのステータスを同期させ、痛みのフィードバックすらも「半分」に分散させる、神々の効率のためのシステム。
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