第1話 前置き。夢の経緯
私は中学生の頃より、不登校になった。
その程度は甚だしく高校も通信制学校となり、それであるにも拘らず
──出席による単位が足りない
という理由で、一年留年したほどである。学力で苦労した訳では無かったと思うから、純然と「社会的意義の為に外に出る」ということ自体が億劫になっていたのだろう。
よくある話であるが、このような人間は夢の中に学生時代の友が出る。
私もその類例である。
だから一時期を超えてから睡眠中に見る夢というのは、大抵が悪夢というより、私が思い描いた世界で旧友と遊ぶという、なんとも自己欺瞞的で空虚な(少なくとも当時の私はその夢を見るたびに、そのように思うこともあった)開放によって支えられていた。
悪夢は一定の時期に至るまで、ほとんど見なかった。大抵そういうのはプレッシャーが脳内に具現化しているというから、多分その時の私は「解放への羨望」があったとはいえ、「未知との闘い」とか「人間社会に於けるどうしようとも避けられない苦役」というものは皆無であった、という話かもしれない。
その「私の夢」の中で、他者の会話などを聞くにつけ、やや特異な点が幾つか有るようだと気が付いたので、列挙してみる。
一、極めて具体的である。
私が見る夢では同一の土地が何十回となく出た。しかもその土地というのは故郷の景色を模倣しながらも独創性が強く、かつ懐古の念もあり、かつバリエーションが豊かである。それなのに地理関係や相互性に破綻が少ない辺りが、やや特異である。
二、色彩に溢れている。
私はモノクロの夢を見た経験が無い。幼少期から今までである。勿論これは人によるもので、あまり此処だけでは特殊性は無いだろうが、例えば夢の中で森林に入ると真価が発揮される。
三、時に触覚が働く。
先の色彩にも関わるが、鮮烈な光景が多いゆえに時折、触覚が働くことがある。例えばコンクリートの上ではコンクリートの感覚がある。土の上では土の感覚がある。自転車のペダルを踏むときには、その重みが感じられたりもする。
四、イメージ範囲が広大。
私の勝手な感覚だが、夢の中に出てくる「その土地」は、東京都の多摩地域と同等の広さがある。無論これは描写の飛躍などもあって純粋な範囲感覚では無いが、出てくる環境なども勘案すると、スケールとしてはあまり食い違いは無いと思う。
五、何度も出る。
これが一番特異であるかもしれない。上記四つの特徴を兼ねた舞台が、夢の中で何十回、或いは百回以上も出ている経験がある。距離も、景色も、何も変わらないままでこのように出続けているのは、おおよそ貴重な経験であると言っても差し支えないのではないか。
ともかく、こういう経験をしているのなら愉快にしたいという想い入れが作者にはあり、故に文章化をしてみたいと思った次第である。
因みにだが、趣味程度とはいえ真剣に小説を書くようになってから、こういった夢は見なくなってきている。今は殆ど無い。
それでも、当時の自分の孤独を救ったものであるし、前段で自己欺瞞だの空虚だのと言っておきながら頗る楽しかったのもよく憶えている。この土地の夢が見れた時には
──遊べた、良かった
と心底思うほど、私の支えであった。
今後見るかどうかも分からないし、もう消え失せているかもしれない。もしくは圧倒的な変形をするかもしれない。そうなれば残念だという気持ちは、かなり有る。
消える前に書いておこう、という気分も存分にある。もしも本当に見れなくなったのであれば、もしかしたら弔いとなるかもしれないのだ。だから書く。
変なことを言っているだろうか。
夢とは往々にして、変なものではないだろうか。




