第49話 立ち止まる理由
廊下の途中で、リーナは足を止めていた。
行き先は決まっている。手に持った道具の重みも、さっきまでと変わらない。けれど、次の一歩がどうしても出なかった。ただ、それだけのことだった。
「……どうした」
背後から声がしたのは、その時だ。振り返るより先に、主が誰であるかを悟る。王子だった。廊下を曲がったところで、立ち尽くす彼女に気づいたのだろう。王子は、なぜ立ち止まっているのか測りかねる、といった顔をしていた。
「いえ」
反射的に言葉を返す。
「少し、考え事をしておりました」
そう言ってから、わずかな沈黙を置いた。嘘ではない。だが、答えとしてはあまりに足りない。王子は、それ以上近づいては来なかった。無理に距離を詰めようとはしない。けれど、背を向けて立ち去りもしない。彼の視線が、リーナの手元へ静かに落ちた。
「珍しいな」
短く、彼は言った。
「仕事中に手が止まるのは」
それは責める調子ではなく、淡々とした事実の確認に近かった。
「……申し訳ありません」
「謝らなくていい」
即座に言葉が投げ返される。
「止まっているだけで、何も壊れていない」
リーナは、ふっと目を伏せた。壊れていない。確かに、その通りだ。
「急ぐ用事か?」
「いいえ」
「なら」
王子は、ほんの少しだけ肩をすくめて見せた。
「少しくらい止まっていても、問題ないだろう」
それだけだった。励ますわけでも、命令を下すわけでもない。戻れとも、そこにいろとも言わない。ただ、事実として現状を許容された。リーナは、深く息を吸った。浅くなっていた呼吸が、少しずつ肺に満ちていく。
「……ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことじゃない」
王子は、ふいと視線を逸らした。
「俺は、動いている人間が止まると気になるだけだ」
それだけ言い残して、彼は歩き出した。振り返ることも、確認することもしない。リーナは、遠ざかっていくその背中をじっと見送った。
——止まっていても、いい。
それは、これまで一度も与えられたことのない前提だった。リーナは、もう一度、足元の床を見つめた。それから、ゆっくりと歩き出す。戻るべき場所へではない。けれど、まだ行く先を決めたわけでもない。
――ただ、立ち止まることを許された余韻を、胸に残したまま。
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