第47話 戻るという、条件反射
部屋に戻ってからも、リーナの動きが止まることはなかった。洗い終えた布を干し、道具を整え、間髪入れずに次の作業へと向かう。手順は体に染みついていた。考えずとも、手が先に動く。——そうでなければ、仕事が回らなかったからだ。けれど、思考の隅っこだけが、今の動きに追いつけずにいた。
——ここにいることを、選んでいい。
王女の声は、決して押しつけるような響きではなかった。優しさとも、命令とも違う。ただ、そっと目の前に置かれただけだった。けれどその「選ぶ」という言葉が、泡のように浮かんでは消えていく。
リーナは、雑巾を絞る手をふと止めた。絞りきれなかった雫が一滴、ぽつりと床に落ちる。戻る。それは、彼女にとって選択ですらなかった。呼ばれたら戻る。必要だと言われたら、そこへ行く。当たり前の、呼吸のようなものだ。
不意に屋敷の裏手が、脳裏をよぎった。日の当たらない部屋。小さな寝台と、薄すぎる毛布。そして、弟。熱を出しやすく、一度咳き込めば夜通し止まらない。薬代が足りなくなるたびに、家の空気は鉛のように重くなった。
——私がいれば。
それは、呪文のように何度も繰り返してきた考えだ。掃除をする。家を整える。何を言われても、ただ黙って耐える。そうすれば、家は回る。弟の苦しみも、ほんの少しは和らぐはずだ。だから、戻る。迷う余地などない答えだった。リーナは、ゆっくりと息を吸い、そして吐き出した。自分の呼吸が、ひどく浅くなっていることに気づく。
——選んでいい。
その言葉が、また胸を突く。選ぶということは、「戻らない」という道がそこにあるということだ。胸の奥が、ぎりりと音を立ててきしんだ。もし戻らなかったら、弟はどうなる。屋敷は。薬は。誰が、あの家を支えるのか。
突き詰めようとした瞬間、思考が拒絶するように止まる。それ以上を考えるのは、許されない罪のような気がした。選ばない。考えない。今のまま、流されるのが一番楽だ。リーナは、再び手を動かし始めた。雑巾を持ち替え、一心不乱に床と向き合う。
——まだ、決められない。
用意された席があることは、分かった。だが、そこに腰を下ろすには、まだ勇気が足りない。染みついた「条件反射」は、そう簡単には消えてくれない。けれど。
――その反射に、初めて、小さな「引っかかり」が生まれていた。
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