第27話 家政婦として働く娘
命令書に署名してから、私は一度も眠っていないような気分だった。眠ったはずなのに、頭の奥の歯車が止まらない。紙の上に並んだ「事実」が、目を閉じても薄れなかった。
——測らなかった。申請しなかった。教育しなかった。それは、偶然ではない。明確な意思による判断だ。
朝の執務を終えたあと、私は侍女長の部屋へ向かった。扉を叩くと、返事はすぐに返ってきた。
「どうぞ」
侍女長は、机の上に書類を整えていた。昨日よりも少しだけ、表情が硬い。私が席に着く前に、彼女は一枚の紙束を差し出した。
「外部調査の、追記です」
兄が当たらせた“外”の連中——その続きを、侍女長が受け取っていたのだろう。私は黙って受け取り、頁をめくった。簡潔な文。推測はない。けれど、行間だけで充分に胸が痛む。
——男爵家、家計状況。
——後妻、出費の内訳。
——実子(義妹)の教育費、衣装代、交際費。
——長女リーナ、教育費の支出記録なし。
私は、紙の端を指先で押さえた。めくる音すら、無駄に大きく感じる。次の頁に、さらに明確な言葉があった。
「長女は家政役として扱う方針。学力は不要、との判断」
——不要。胸の奥で、何かがぴくりと動いた。怒り、ではない。もっと冷たいものだ。理解してしまった時の、嫌な納得。学力は不要。教育は不要。測定は不要。“不要”と言い切ってしまえば、何も始まらない。責任も発生しない。
「……これが、理由」
私は呟いた。侍女長は黙っている。否定しないということは、肯定だ。私は頁を進める。出費の項目は整っている。義妹のための支出は、細かく、丁寧だ。家庭教師。楽器。礼儀作法。季節ごとの新調。——未来に向けた投資。
その隣で、リーナの欄だけが、空白だ。空白は、偶然ではない。空白は、選択だ。
「……あの子は」
声が、思っていたよりも静かだった。
「家で、何をしていたの」
侍女長が答える前に、私はもう分かっていた。掃除。洗濯。炊事。整理。家の空気を整えること。人が息をしやすいようにすること。——仕事だ。奉公に出る前から、彼女はずっとそれをしていた。
だから、王女宮でも迷わなかった。だから、「順番」を知っていた。だから、魔法を使わずに整えることが、当たり前だった。そして。だからこそ。彼女は「学ばなくていい」と決めつけられた。
「……余ったお金は、義妹に」
私は言葉を探した。探すまでもない。これが、家の方針なのだ。私は紙束を置き、指を組む。喉の奥が熱い。怒りが顔を出しかける。けれど、今は外に出さない。怒りは、間違えれば相手を強くするだけだ。私はまだ、あの家の全体像を掴んでいない。
「侍女長。追加で確認したいのだけど」
「はい」
「男爵家には、家庭教師の記録がある?」
「義妹にはございます。リーナには……ありません」
答えは分かっていた。それでも口に出して確かめると、胸が痛む。文字で見るより、声で聞くほうが重い。
「魔法教育の代わりになるような、教会の学びは?」
「それも、義妹のみです」
私は、息を吐いた。ゆっくりと。怒りが、まだ制御できていることを確かめるように。
「つまり、あの子は最初から……“選ぶための席”に座らせてもらえなかった」
侍女長は黙っている。その沈黙が、肯定だった。私は立ち上がった。紙束を持ち、窓際へ行く。外は、明るい。整えられた庭。整えられた空。王宮は、いつも通りだ。世界は変わっていないのに、私の中の何かだけが、もう元には戻れない。
——家計が苦しいなら、皆が苦しくなるはずだ。
けれど、そうはならなかった。苦しむのは一人。救われるのは一人。そして誰も、「違反」はしていない顔をする。
「……お兄様の言う通りね」
私は小さく言った。
「感情が動く前に、事実を見るべきだった」
侍女長が一礼する。
「王女殿下は、すでに動かれております」
私は頷いた。動いた。制度を動かした。けれど——まだ足りない。紙の上の事実は揃ってきた。次は、紙に書かれないものだ。彼女の身体。癖。沈黙。そして、家の中の空気。私は紙束を抱え直す。
「……次は、“家の中”ね」
侍女長が、ほんの僅かに目を細めた。
「はい。外から見える事実は、揃いつつあります。残るのは——見えない部分です」
見えない部分。それは、誰が何をしたかよりも、誰が何を“しなかったか”。私は扉へ向かう。足取りは軽くない。けれど、迷いはない。あの子には、知らなかった世界を見せる。選べなかった道を、選べるようにする。そのために、私は——次に進む。
怒るのは、まだ先だ。怒る前に、事実を揃える。そして、その事実を、あの子の前に置く準備をする。
私は廊下へ出た。静かな空気の中で、ひとつだけ確かなことがあった。
——「学ばなくていい」と決めた者は、学ばせる責任を放棄したのだ。




