大穴
「やあ、大穴だあ!」
その一言とともに、あたりには馬券が散った。
はずれ馬券を踏みにじってゆく雑踏と、ひいきの騎手をなじる罵声は場内に満ち満ちた。
「まったくだめだ」
「あんなの反則だ」
「おまえ、勝ってるか」
「今日はくれてやる」
そこで見切りをつける者、次のレースに期待をかける者、一旦食堂へ入る者、様々な人の出入りがこの場に異様な熱気と喧騒を加えていた。
そんな中、ある男が一人窓口へ馬券を差し出しに来た。
「あら、おめでとうございます」
受付の女性は、意外そうな顔をした。
「よく当てましたね、大穴ですよ」
そうして金額を計算し、配当金を手渡した。
しかし、トレーに載っている金額はごくごくわずかなものだ。
「ありがとうございます」
礼を言いながら、男はその金を財布にしまった。
場内は新たなレースに向けて、また緊張と勢いが高まりだした。男はそんな雰囲気を尻目に、誰とも話をせずに帰っていった。
「近藤くん」
男の名が呼ばれた。呼んだのは、男よりも年配の男性だ。
「ここの資料は、少し間違っているんじゃないか」
男は年配の男性が指し示す書類に顔を近付けて確認する。
「はあ、これはすみません。すぐ直します」
気の抜けた謝罪に、年配の男性はため息をついた。
「もっとしっかりしてくれないと困る。もう入社して何年も経っているじゃないか」
「申し訳ありません」
どうやら彼は男の上司のようだ。
すぐにとりかかりなさい、という上司の一言で、男は自分の席に戻った。
男は地味で、目立たない会社員だった。仕事の出来もあまりよくなく、たまに上司に声をかけられるかと思ったら、それは今のように仕事のミスに関する注意がほとんどだった。
何を楽しみに生きているのか分からない。
この男もまた、周囲からそのような判断を下される人間だった。
しかし彼にも、ひっそりとした楽しみがあった。それが競馬だ。
もともと馬を見ることが好きだった彼は、休みの日に競馬場へ行くのが趣味だった。そこへ行けば、簡単に生の馬を見ることができるからだ。彼は馬の気高さが好きだった。そこに、自分にはなれないものを見出していたのかもしれない。
馬券を買うことはまずなかった。馬に金銭を介入させることは、なにか自分自身の美学に反することのように思われたのだ。
そんな彼も、あるとき金を賭ける機会があった。
彼にはその年、ひいきにしている馬がいた。
小柄だが騎手によくなつき、彼は見ているうちにだんだん親近感が湧いてきたのだった。
「ああ、また今日もあの馬が出ている」
彼はそんな気持ちで、行き慣れた競馬に向かった。
彼は騒音があまり気にならない方だ。まわりが会話のざわめきで満ちていても、そ知らぬ顔で目の前のことに向かっていける。
しかしこのときは、たまたま近くの人間の会話が聞こえてきた。
「オオイシトロッコか、ありゃだめだ」
ひいきの馬の名前が聞こえてきて、思わず声のした方を振り向く。
そこでは二人の男がその馬について話をしていた。
近藤は競馬場に通っているくせに、競馬のことをよく分かっていなかった。だから、その二人の男が話している内容も、はっきりと全てを理解できたわけではない。ただ、二人の声の調子や、あざけるようなその声色は、彼を悲しませた。
彼はこの馬のために何かしてやりたくなりながら、その場を離れた。
そうして彼は、初めて馬券というものを買ったのだった。
「ええと……」
彼は慣れないなりに、馬券を買った立場でレースを見た。
いつもは漫然と見ているレースも、馬券があると見方が変わる。自然とその目は買った馬の動向に注がれた。
馬が走る。周りに後れをとりながら、走っていくうちに少しずつ先頭に近づいてゆく。
とうとう、彼の買った馬は一位でゴールを切った。
「おい、大穴だ」
まわりの声は一気にざわめいてきた。
近藤はまだ信じられない気分だった。馬券が舞う競馬場の中を、彼は一人歩いていった。
ささやかな応援のつもりだったので、買った馬券は少額だった。それでも想像以上の配当金が返ってきたとき、彼は申し訳なさとほのかな喜びでないまぜになった。
その後も思い出したように、近藤は馬券を買った。一回買ってしまってからは以前よりも抵抗が薄れ、その時々で思い思いの馬券を買った。そして不思議なことに、買った馬券は多かれ少なかれ高配当になることが多かった。大穴というやつだ。
「これは……」
そこで欲をかかないほど、彼も出来た人間ではない。時には、彼なりのまとまった金を投入してみることもあった。
だがそういうときの予想は必ずと言っていいほど外れる。
高配当になるのは、決まって少額の、無心で買った馬券たちだった。
それだから、最初のうちは馬券がとりたてて彼の生活に影響を与えることはなかった。しかし、それまでただ見てその美しさをたたえていた馬が、馬券で購入する対象になったことで、何か以前とは違うイメージを持ってしまったことが、男には寂しく思われた。
休日のたび、男は競馬場に行った。馬券を買うときもあれば、ただ馬を見て一日終えるときもあった。しかし、以前よりも馬を見ることを楽しめていない自分に彼は気付いていた。
それなのに、足は競馬場に出向いてしまう。男は近頃毎回馬券を買ってしまっていた。
当たろうが当たるまいが、馬券を購入することに彼は一種の満足感を覚えるようになっていた。
「あれ……」
彼が違和感を覚えたのは、飲食店で財布から紙幣を抜き出す時だった。
妙に財布が軽い。懐が寂しい。思い起こしてみれば、それは最近の競馬場通いのせいに違いなかった。
どうしようか。彼は店を出て、歩きながら考えた。
はじめはささやかなものだったが、最近はどうも頻度が多くなってしまっている。自分では気が付かないうちに、多くの金銭を使っていたらしい。
「まあ、なんとかなるか」
その時にはそれで済ましてしまった。
ところが、それでは済まないことがだんだん分かってきた。
日に日に金はなくなる。それにも関わらず、近藤は競馬場に通い続けた。むしろ、事態が切迫してくればくるほど、彼は熱心に足を運んだ。
こうなるともう、無心で大穴を当てることなどできない芸当だった。
馬券を買う。外れる。
馬券を買う。外れる。
もはや何かの確認作業をしているかのように、彼の馬券は外れ続けた。
それでも買うのは、大穴を当てた時の焼け付くような興奮が忘れられないからだった。彼はこりずに買い続けた。
ふと、財布が空になる。中に残っているのは心もとない小銭ばかりだ。それさえ、馬券を買うのには足りていない。
彼はもどかしさを感じた。まだ買いたい。もっと買いたい。だが手元にあるのは小銭だけだ。どうすることもできなかった。
近藤が金貸しの店を利用するまで、そう長い時間はかからなかった。
最初は無人機で恐る恐る借りていたのだが、それもすぐに足りなくなった。借金が借金を呼び、総額はどんどん膨れていく。むろん競馬通いはやまない。
「あんた、最近人相が悪くなったねえ」
会社に行くと、今までそれほど話したことのない掃除の女性が話しかけてきた。
とっさのことで、無言で会釈をするだけになってしまったが、トイレに行って鏡で見る自分の顔は、いつもよりもやつれて見えた。
仕事は相変わらずだ。生彩のない仕事ぶりに生彩のない受け答え。それでも今まではまだ、近藤の眼には落ち着いた、純なところがあった。しかし、今ではそのその瞳も濁っているように思われた。
もう従業員の大半が帰った会社の机で、その日の近藤は作業を続けていた。
つまらないミスが見つかり、そのミスを犯した張本人である近藤は、修正作業を一人で行っていた。
別の階にはまだ人もいるのかもしれないが、人気のないこの階では、彼の打つパソコンの音ばかりが響いていた。
黙々とキーボードをはじき、時おり手を止める。休憩の時にも、作業をしている時にも、頭の中では焦燥感が渦巻いていた。彼の借金の総額は、かなり大きいものとなっていた。
最近の彼は、何をしていても頭の一部を借金のことが占めていた。
それは常に、何故このようになってしまったのだろう、という自問と共にあった。そしてそれは、彼にとっては明確に答えを出せるものではなかったので、いつも問いだけが空しく脳裏を去来するのだった。
そんなことを考えていると、思ったよりも時間が経ってしまっていた。近藤はあわてて作業に戻った。
それまでは、時おり部屋の外で人が行き来する気配が感じられていたが、もうそれもなくなった。どうやら、他の階の人間も完全にいなくなったらしい。
近藤は、いつしかまた作業の手を止めていた。
数日後、近藤は競馬場にいた。いつもに似ず、青い顔をしている。
「当たれ、当たれ……」
そう念じながら握る馬券は、いつもよりも大きな金額を示していた。
「――だめです、見つかりません」
近藤の上司が、ため息をついている。会社では警察が事情を聞きに訪れていた。
「まさかそんなに大それたことをする奴とは思わなかったのですが……」
警官は、うなずきながら様子を聞いていく。
「それで、横領された金額はどれほどだったんですか」
上司が警察に金額を伝える。その額は、相当のものだった。
「当たれ、当たれ……」
うわごとのように繰り返している近藤を、隣の男性は薄気味悪そうに見ていた。
そんななか、レースが始まった。
彼はまともに判断をして馬券を買ったわけではなかった。そのことが、かえって功を奏したのかもしれない。
馬が走る。一頭が転んだ。周囲の馬も、影響を受ける。
場内は叫声と怒号で一杯になった。
――大穴だ!
うつろな近藤の脳裏に、そのことだけが浮かんできた。
手もとの馬券を見る。当たり馬券を目の前にして、まだ近藤は実感が持てないでいる。
「ああ……」
声にならない声を漏らしながら、ゆっくりと彼は歩きだした。その足は受付に向かっている。彼は幾度も人とぶつかった。
そんな近藤を、遠くから見つける人影があった。
「いたぞ、あそこだ!」
そう言って、人影は彼に迫っていった。
「やっと見つけましたよ、近藤さん。借金を返してください」
声を掛けられて、近藤は振り向く。彼の顔はみるみる落ち着きをなくしていった。
「おっと、逃げようなんて考えない方がいいですよ」
近藤の前にあわられた男は、低い、それでいて圧力のある声を出していた。
「あんまりこちらも、手荒なことはしたくないんでね」
近藤の目線は右に左に泳いだ。どこかに走りだせないか。しかし、この場所が知れており、この男がここにいるということは、他にも追手がいることが考えられた。
「さあ、一緒に来てもらいましょうか」
金貸しの男が、近藤の腕を掴む。
焦った近藤は、うろたえた声で、こう叫んだ。
「ま、待ってください!当たり馬券があるんです」
金貸しの男は、手の力をゆるめない。
「何が当たり馬券だ。お前の借金を返すのに足りるもんか」
「信じてください、大穴の馬券なんです」
そう言って、近藤は馬券を出そうとした。
「あれ……?」
彼は困惑した。先程まで手に持っていたはずの馬券がない。ポケットをさぐる。そこにもない。
片腕を掴まれた状態で体中を探す近藤の様子を見て、金貸しの男はしびれを切らして、こう言った。
「気は済んだか。さっさと行くぞ」
そして、近藤の腕を引っ張って強引に連れていく。
二人の姿は、競馬場の喧騒の中に吸い込まれていった。
あたりでは、無数の馬券が踏みにじられていた。




