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むつの花  作者: 野口 ゆき
18/77

二つの花 『六.偉人』

慶応(けいおう)元年(1865年) 水無月(みなづき)(6月)


私は本と『長岡野菜』を持って、(つぎ)兄さんの家へ行った。

部屋に通されると、継兄さんと三間市之進(みつまいちのしん)様がいらした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


三間市之進様の家は世禄三百五十石の家柄で、三間様のお父上・安右衛門(やすえもん)様は『家老(かろう)』にまでなられた方である。

三間様は藩校『崇徳館(そうとくかん)』で洋学を学び、成績も優秀であった。

その為、『藩校崇徳館の三進(さんしん)渡辺進(わたなべすすむ)様。花輪馨之進(はなわけいのしん)様。三間市之進様)』の一人とも言われた。

学業に熱心で、『三進』の一人である渡辺様に誘われて川島億次郎(かわしまおくじろう)様の開いた家塾『川島塾』にも通われた。


三間様は面長で、引き結んだ口と鋭い目は意志の強さを感じる。

継兄さんの八歳下で、今は三十歳位。

継兄さんと三間様は江戸での遊学仲間でもあるので仲が良く、考え方も似ている。


文久(ぶんきゅう)二年(1862年)、三間様は『京都所司代(きょうとしょしだい)』に任ぜられた『長岡藩第十一代藩主』牧野忠恭(まきのただゆき)様に従って京都へ赴き、『公用人(こうようにん)』を務めた。

京都の現状を目にした三間様は長岡藩の様な小藩では対応出来ないと考え、継兄さんと共に忠恭様に『京都所司代』辞任を建言した。

しかし建言は容れられず、二人とも江戸へ戻った。

元治(げんじ)元年(1864年)、 『京都所司代』を辞任された忠恭様は、今度は『老中(ろうじゅう)』に任ぜられた。

そして三間様と継兄さんは、再び『老中』辞任を忠恭様に建言した。

しかし、また建言は容れられず、二人とも長岡へ戻った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「三間様、こんにちは。

お邪魔しても宜しいでしょうか?」

私の言葉に、三間様は笑顔で優しく答えてくれた。

「ええ。

ゆき殿。

勿論です」

「有難うございます」

と言いながら、私は出来るだけお淑やかに部屋に入った。

私が部屋に入り入口近くに座ると、三間様は明るい声で言った。

「久しぶりですね?

お元気でしたか?

家族の方々は、お変わり無いですか?

司郎(しろう)殿は、お元気ですか?」

「はい。

皆、元気です。

有難うございます」

私も、笑顔で答えた。

三間様は大きく頷き、更に笑顔で答えてくれた。

「そうか・・・。

良かった・・・。

ああ。

そうだ。

司郎殿に、今度訪ねると伝えておいてくれますか?

『話をしたい』

と」

「はい。

伝えておきます。

兄も、喜びます」

私は、三間様に深くお辞儀をした。

その時、自分が持って来た本と『長岡野菜』がある事を思い出した。

私は顔を上げて、継兄さんの方を向いた。

「そうだ。

継兄さん。

これ、作助(さくすけ)さんからです。

『本を貸して頂き、有難うござました。

私が、作った野菜です。

是非、召し上がって下さい』

と」

そう言いながら、私は継兄さんに本と『長岡野菜』を渡した。

継兄さんは、嬉しそうに『長岡野菜』を見て言った。

「これは、大きな茄子だな。

丸くて大きくて、美味しそうだ。

ん?

あとは、ゆうごう(夕顔の実)と芋茎(ずいき)か?

こんなに沢山・・・。

作助に、今度礼を言っておいてくれ」

「はい。

必ず伝えておきます」

継兄さんは私の返事を聞くと頷き、再び『長岡野菜』に目を向け、じっと見つめながら呟いた。

「野菜は、新鮮な内に食べた方が良いな・・・。

よし!

早速食べよう!

すがに、この野菜で何か作ってもらおう!

何が良いか・・・。

そうだな、茄子はふかして生姜と醤油で食べよう。

ゆうごうは『鯨汁(くじらじる)』にしたいが、今、鯨の肉がないな・・・。

ならば、茹でて餡を掛けるか・・・。

芋茎は甘酢に漬けて、『酢芋茎』にしよう。

市之進もゆきも、食べていくと良い」

そう言うと、継兄さんは『長岡野菜』を持ってさっさとすが様の許へ行った。

部屋には、私と三間様が残った。

すると、三間様が突然私に質問をした。

「そうだ。

先程、河井様と『偉人』について話していたのですが、ゆき殿は誰が『偉人』だと思いますか?」

「え?」

いきなりの質問に私は面食らったが、取り敢えず考えてみた。

「『偉人』ですか・・・?

『偉人』とは、『偉大な功績を残した人』と言う事ですよね・・・。

う・・・ん。

そうですね・・・。

邪馬台国(やまたいこく)の女王であった卑弥呼(ひみこ)や、仏教を信仰し、『冠位十二階(かんいじゅうにかい)』や『十七条(じゅうななじょう)憲法(けんぽう)』を定めた聖徳太子(しょうとくたいし)は如何ですか?」

「なるほど。

なるほど。

他には?」

「他に?

う・・・ん。

では学者であり、漢詩人であり、政治家であり、学問の神様となった菅原道真(すがわらのみちざね)

それと、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)ながらも阿弖利為(アテルイ)の助命嘆願をした坂上(さかのうえの)田村麻呂(たむらまろ)は如何ですか?」

「なるほど。

なるほど。

『文の菅原道真 武の坂上田村麻呂』

と、言いますからね。

私も、お二人は『偉人』だと思います。

他には?」

「え!?

他にも!?

う・・・ん」

私は、またしばらく考えた。

そして、二人の名前が思い浮かんだ。

それは、保科正之(ほしなまさゆき)公と上杉鷹山(うえすぎようざん)公だった。

私は、数日前にお祖父様とこんな話をした事を思い出した。


_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _



「お祖父様。

私、継兄さんに、こんな事を言われました。

『学問が出来なくとも、心掛けが悪くとも、もしその人が弱ければ、助けよ。

強いと思う人には、たとえその人が正しくともいじめよ』

と。

でも私はそれに納得出来なかったので、継兄さんに反論しました。

『心掛けの悪い人を、助ける必要がありますか?

寧ろ、助けたくないです』

と」


この時の私には、この数ヶ月前に聞いた『きよの話』が頭に残っていた。

その話とは、きよの前に私の家で働いていた女中の話だ。

優しいお祖父様に甘え、家の物を盗み続けていた女中が、かつて私の家にいた。

その後女中の盗みが発覚したが、お祖父様は女中を許すつもりだった。

しかし曾祖父様に

『女中を甘やかしては、女中の為にならない』

と言われ、結局女中を辞めさせる事にした。

ただ、人の良いお祖父様はその女中がしっかりと働けるまで見守り続けたそうだ。

その時私が思ったのは、

『弱い人を助ける事は当然の事だけれど、心根の悪い人は人の優しさを利用する。

優しくすべき人は、選ばなければならない』

と。

だから、私は継兄さんの


『弱ければ、助けよ』


と言う考えには、完全に同意する事が出来なかった。


私は、続けた。

それは、お祖父様に向けてでもあった。

「私は、継兄さんに言いました。

『人は、『弱い』です。

甘やかされては、人の『優しさ』に頼ってしまいます。

人は、『優しさ』に甘えて堕落します。

心掛けの悪い人なら、尚更です』

と」

お祖父様は私の言葉をじっと聞き、そして言った。

「それで、河井殿は何と?」

私は、答えた。

「継兄さんは、こう言いました。

『強い者が常に弱い者を助けると言う姿勢であれば、民の悲しみも喜びも知る事が出来る。

強い者は、痛みを知る必要がある。

民の気持ちが分かってこそ、良い(まつりごと)が出来る。

『慈愛』の精神で、政を行うのだ』

と」

私の言葉を聞き、お祖父様は目を閉じた。

しばらく考えた後、お祖父様は閉じた目をゆっくりと開いた。

「ゆき。

保科正之公と上杉鷹山公を、知っているか?」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


保科正之公は、会津(あいづ)(福島)松平家初代藩主である。

正之公は慶長(けいちょう)十六年(1611年)、『二代将軍』徳川秀忠(とくがわひでただ)公のお子として生まれた。

しかし、側室の子であった為に秀忠公の正室・お(ごう)様に命を狙われた。

暗殺を逃れる為、正之公は武田信玄(たけだしんげん)公の次女・見性院(けんしょういん)様を通して旧武田家の家臣であった『高遠(たかとお)藩(長野)藩主』保科正光(ほしなまさみつ)公へ預けられた。

正光公のお子として育った正之公は、正光公の叔父・正近(まさちか)様から様々な教育を受けた。

論語(ろんご)素読(そどく)儒学(じゅがく)の講義、水練(すいれん)や剣術の他、城外へ出て実際に城下を見聞し、領民と直接接し、領民の大切さを学んだ。

人として、藩主としての心構えを、正之公は高遠で学んだ。


因みに、何故、武田家滅亡の一役を担った徳川家を武田家が救ったのか?

それは、徳川家に『恩義』があったからである。

天正(てんしょう)十年(1582年)の『天目山(てんもくざん)の戦い』で武田家は徳川様と敵対し、武田宗家は滅亡した。

主君を失った武田家遺臣達は、路頭に迷った。

そんな時、謂わば敵である彼らを徳川家康(とくがわいえやす)様は登用した。

それにより、武田家家臣達は生き残る事が出来た。

彼らはその時の『恩義』を忘れず、大事があった時は命懸けで徳川家を守ると決意し、その通り生きた。

その『恩義』が、家康様の孫である正之公をお助けする事となった。

そして、その後も武田家の流れを汲む人々は、ずっと徳川幕府を支え続けていた。

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)』や『新選組(しんせんぐみ)』のように、多摩(たま)には彼らの子孫が沢山いて、徳川様に何かあった時は馳せ参じると言う。

そして、今もそのように生き続けている。


その後、『三代将軍』徳川家光(とくがわいえみつ)公に正之公の存在が知られ、家光公の異母弟である正之公はその優秀さと謙虚さから次第に引き立てられるようになった。

寛永(かんえい)十三年(1636年)には、山形(やまがた)藩二十万石を拝領した。

寛永二十年(1643年)には、会津藩二十三万石の大名となった。


正之公は、多くの『幕政改革』『藩政改革』を行った。

その中の一つが、明暦(めいれき)三年(1657年)に起きた江戸での大火『明暦(めいれき)大火(たいか)振袖火事(ふりそでかじ))』での対処である。

三日二晩火は燃え続け、江戸の町の六割を焼き尽くした。

焼死者十万人以上、大名屋敷五百以上、神社仏閣三百以上、江戸城『天守(てんしゅ)』も焼け落ちるほどの大火であった。

正之公は直ぐに、焼け出された江戸市民の救済に取り掛かった。

年貢米百万俵以上を補完する米蔵を開放し、人々に火消しをさせながら米蔵の中の米を自由に持ち出させた。

これにより、米蔵は全焼しなかった。

火が消えた後、各地で炊き出しをさせ、焼米(やきごめ)を放出して米価や材木価格が高騰しないよう抑制し(需要が供給を上回る事を防いだ)、家を失った人々には再建費として総額約十六万両(約160億円)を与えた。

回向院(えこういん)』を創建し、亡くなった人々を埋葬して供養した。

また、川越大火の際に再興を果たした松平信綱(まつだいらのぶつな)公を復興計画者に抜擢した。


広小路(ひろこうじ)や新しい市街地、両国橋(りょうごくばし)の設置』

『消火組織である定火消(じょうびけし)制度を創設』

野火止(のびどめ)用水の敷設』


少し落ち着いた後、江戸城『天守』の再建話が持ち上がった。

幕府としては、先ず江戸城の象徴である『天守』の再建をすべきであると考えた。

しかし、正之公は既に実用性の薄れた『天守』を再建して無駄な出費をするよりも、民の為に財を費やす事を優先した。

そして平和の象徴として、江戸城の『天守』は再興されず今に至る。


正之公は『会津藩家訓(かきん)』を制定し、最後まで徳川家に尽くすようにも言い遺した。

亡くなる前には自分の功績を残さない為、全ての資料を焼き、最期まで補佐役に徹した。


しかし、その偉業は残った。


正之公は亡くなるまで、民の為に、幕府の為に生きた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


上杉鷹山公は、米沢(よねざわ)藩(山形)の第九代藩主である。

寛延(かんえん)四年(1751年)、『高鍋(たかなべ)藩(宮崎)藩主』秋月種美(あきづきたねみ)公の次男として生まれた。

そして十歳の時、『米沢藩第八代藩主』上杉重定(うえすぎしげさだ)公の養子となる。

正室は、重定公の娘である(ゆき)姫様。

幸姫様には少々障害があり、心も体もまるで幼女のようであったと言う。

しかし、鷹山公は幸姫様に優しく接し続けた。

幸姫様が亡くなられた後、後継者を絶やさない為にと側室としてお豊の方を迎えられた。

お豊の方は聡明な方で、鷹山公を陰ながらお助けした。

お二人の間にはお子がいらしたが、鷹山公は三十五歳の時に隠居して家督を譲る際、実子ではなく養父の重定公のお子・治広(はるひろ)公を後継者として選んだ。

鷹山公は、『義』を重んじる方であった。


鷹山公が米沢の藩主となった頃、米沢藩の財政は逼迫していた。

それでも、米沢藩士達は自分達の行いを改めようとはしなかった。

鷹山公は、決意した。


『受次ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母』


(藩主となる自分が忘れてはならないのは、父母の事である。

藩主しての自分の仕事は、父母が子を養うように人民の為に尽くす事である)


鷹山公は藩主になると、『藩政改革』を行った。


自助(じじょ)(自ら助ける)』

互助(ごじょ)(近隣社会が互いを助け合う)』

扶助(ふじょ)(藩政府が手を貸す)』


を、目指した。

農民だけでなく藩士の二男三男に田畑を開墾させたり、土手の修理をさせたりした。

飢饉(ききん)に備えて各村に米蔵を作り、毎年領民に(もみ)を蓄えさせた。

食糧不足に備えて、『飯粮集(はんろうしゅう)』と言う百二十五種類の植物が記載された本を作り配布し、その後、その本を基に『かてもの』を出版した。

『かてもの』とは飢饉救済の為の手引書で、草木や果実八十種類の特徴や調理・保存方法等が解説された本である。

これらの本により、天保(てんぽう)三年(1832年)の『天保の大飢饉(だいききん)』(『第十一代藩主』上杉斉定(うえすぎなりさだ)公の頃)では米沢で餓死者を出す事がなかった。

藩校『興譲館(こうじょうかん)』も創設し、『実学(じつがく)(実生活に役立つ学問)』を学ばせて多くの偉人を生んだ。

十二箇条からなる『大倹約令(だいけんやくれい)』を発令し、鷹山公自身も質素倹約に徹して財政再建に努めた。

また正之公同様、鷹山公も城下で領民と直接接し、時には田畑の仕事を手伝ったりもした。

しかし、こう言った鷹山公の『藩政改革』には多くの反発があった。

高鍋藩と言う小さな藩から来た養子のお殿様を、古参の米沢藩士達が快く迎える事は出来なかった。

特に悪習や伝統に胡坐(あぐら)をかいて甘い汁を吸っていた上士(じょうし)には、受け入れられなかった。

安永(あんえい)二年(1773年)、とうとう『七家騒動(しちけそうどう)』が起こった。

藩の重臣七人が、鷹山公の改革を推進する奉行の竹俣当綱(たけまたまさつな)一派の罷免を強訴した。

しかし鷹山公は改革を推進する為に、強訴した七人に処罰を下した。

二人を切腹及び改易(かいえき)(身分剥奪)し、残り五人を隠居及び閉門(へいもん)(人の出入りを禁止)、蟄居(ちっきょ)(自宅の一室に謹慎)、石高(こくだか)削減、斬首並びに士分を剥奪した。

鷹山公はこれらの妨害にあっても諦めず、一生懸命自分を犠牲にしてまで改革を行った。

その行いが、人心を動かした。

鷹山公は、


『豊かにすると言う信念や志』

『どんな人間にも同等に接する優しさ』

『人を愛し慈しむ心』

『思いを形にする実行力』

『先を見る目』

『多くの情報を収集・分析し、最善の策を練る頭脳』

『素早く策を講じる事が出来る頭の回転の速さ』

『人を引き付ける人間的魅力』

『良い人材を選別する慧眼』

『適切に迅速に処理する決断力』

『信念を曲げない強さや誠実さ』

『常識に捕らわれない思考』

『真摯に自分の非を受け入れ、人の言葉を聞く素直さ』


全てを兼ね備えた方だった。

しかし、どんなに素晴らしい人物でも、一人で行うには限界があった。

鷹山公が改革を成功する事が出来た大きな要因は、鷹山公を理解し、優秀で、信頼出来る家臣の協力があったからだった。


鷹山公の『藩政改革』を象徴する、有名な言葉がある。


()せば()る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり』

(どんな事でも、強い意志があれば必ず成就する。

成就しないのは、強い意志がないからである)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


私は、お祖父様の質問に答えた。

「はい。

お二方の事は、存じております。

お二方とも、『賢君』であらせられたと」

「では、お二方の『改革』を知っているか?」

「保科正之公は確か・・・『玉川上水(たまがわじょうすい)』を開削して水不足の江戸まで多摩川の水を引き入れた・・・。

社倉(しゃそう)』を創設し、いざと言う時の為に米を備蓄した・・・。

末期養子(まつごようし)(当主の死の直前に、急に願い出た家督相続の為の養子)の禁』を緩和して、家が断絶して浪人(ろうにん)が増える事を防いだ・・・」

私がそう言った後、お祖父様は付け加えた。

「他にも『殉死(じゅんし)を禁止』したり、『九十歳以上の高齢者へ扶持米(ふちまい)を支給』したり、『間引(まび)きを禁止』したりした。

「『まびき』って?」

「『間引き』とは、『口減(くちべ)らし』の事だ。

飢饉の時少しでも家計の負担にならないよう、農村では乳幼児の殺傷が行われていた。

七歳以下の子供は『神の子』とされ、神に子供をお返しすると言う事で『子返し』とも言われていた。

自分の行いを正当化する為に、そう言われたのだろう・・・。

ただ、どんなに言葉を代えても子供を殺す事に変わりない。

正之公は国を豊かにし、『間引き』の無い国を目指し、そして実現した」

「本当に、素晴らしい方だったのですね・・・」

「では、上杉鷹山公の『改革』とは?」

「え?

えと・・・確か『米沢織(よねざわおり)』の織物を売って、借金を返した?」

「そうだ。

鷹山公は越後から縮工(しゅくこう)を招いて、武家の子女に『機織(はたお)り』を習得させた。

その際使ったのが、米沢藩の特産品であった『青苧(あおそ)(イラクサ科の多年草)』だった。

その後、桑の栽培や養蚕を奨励し、絹織物に移行して財政を立て直された」

「ふう・・・ん」

「あとは?」

矢継ぎ早に質問するお祖父様に、私は焦った。

「え?

あと?

えと・・・『五加木(うこぎ)』を、非常食用に垣根として使用した?」

「そうだ。

『五加木』には刺があって垣根にすれば防犯にもなり、また飢饉の時にそれを食べれば人々は飢えなくて済む。

鷹山公は、『五加木』の食べ方や調理法を本にして配布した」

「本当に『賢君』て、いらっしゃるのですね・・・」

「では、このお二方が行った(まつりごと)の共通点は何だと思う?」

再び質問され、私は戸惑いながらも答えた。

「え?

『共通点』・・・?

え・・・と。

国や藩の為の・・・政・・・ですか?」

「『半分』は正しい」

「『半分』?

では、もう『半分』は?」

私がそう言うと、お祖父様は私をじっと見つめ、答えた。

「『人』の為の政だ。

即ち、『王道政治(おうどうせいじ)』だ」

「『おうどうせいじ』?」

「『王道政治』とは、『覇道政治(はどうせいじ)』に対なすものだ。

『覇道政治』とは、『武力』による政の事。

『王道政治』とは、『仁徳(じんとく)』による政の事だ。

「何故、『王道政治』なのですか?

『覇道政治』では、いけないのですか?」

「『覇道政治』では、『人心』が離れるからだ。

江戸幕府前は、『覇道政治』だった。

為政者(いせいしゃ)』は、武力で人々を支配しようとした。

自分に従わない者を、武力で押さえ付け従わせようとした。

武力で支配しようとした為、『人心』は離れ、他国は服従しなかった。

だから長い間、(いくさ)が絶えなかった。

対して『王道政治』では、『為政者』は『仁徳』による民の為の政を行う。

民も他国もその『仁徳』を慕い、人は従い、平和を愛し、そして戦がなくなる」

私は、お祖父様の説明を頭の中で整理しながら言った。

「確かに、飢饉になった時に人を殺して人口を減らせば()扶持(ぶち)が増えると考える『覇道政治』よりも、出来るだけ人を生かす為に社倉のお米を皆に与える『王道政治』の方が、人々は感謝し、恩を返そうとするかもしれませんね。

そう言う優しい『為政者』に対してなら、反乱を起こそうとは思わない。

結果、『平和』は続く・・・」

お祖父様は、私の言葉に少し苦笑いしながら答えた。

「随分と乱暴な例えだな・・・。

まあ。

間違ってはいない。

だから、お二方は『王道政治』を目指した。

そして、『王道政治』は『四徳(しとく)』を重んじる」

「『しとく』?」

「『四徳』とは、『(じん)』『()』『(れい)』『()』の事だ。

『仁』とは、『仁愛』。

『義』とは、『正義』。

『礼』とは、『社会規範』。

『智』とは、『是非の見極め』である。

そして、『四徳』は『四端(したん)』が根本である」

「『したん』?」

少し、理解出来なくなってきた・・・。

言葉が、難しい・・・。

お祖父様は、優しく説明してくれた。

「『四端』とは、『惻隠(そくいん)の心』『羞悪(しゅうお)の心』『辞譲(じじょう)の心』『是非(ぜひ)の心』だ。

『仁』の本は『惻隠の心』であり、人を思う心である。

『義』の本は『羞悪の心』であり、悪を憎む心である。

『礼』の本は『辞譲の心』であり、譲り合う心である。

『智』の本は『是非の心』であり、善悪を判断する心である。

『王道政治』とは、『四徳』つまり『四端』を本としている。

そして、この説を唱えたのが孟子(もうし)である」

「孟子とは、(しん)(中国)・・・当時は戦国時代でしたっけ・・・の儒学者ですよね・・・?

孟母三遷(もうぼさんせん)(孟子の教育の為に、母親が孟子にとって最適な教育環境を求めて三度移転したと言う話)』で有名な・・・」

「そうだ。

孟子は、『四端』を生来人が持っているものとした。

それを、『性善説(せいぜんせつ)』と言う」

「『せいぜんせつ』・・・?」

「人は、生まれながらに『善』であると言う考えだ」


私はこの言葉を聞き、思った。

もしかしたら、お祖父様が女中に対して行った事はこの『性善説』が関わっているのではないかと。

お祖父様は人は生来『善』であると信じているから、盗みをした女中を許そうとしたのではないかと。

ただ、やはり私はこの『性善説』に納得がいかなかった。

曾祖父様のおっしゃった

『人は『弱い』。

過度の優しさや援助は、人を『堕落』させる』

と言う言葉の方が、正しいと思った。


私は、お祖父様に反論した。

「私は、『性善説』を受け入れる事は出来ません。

人には元々『善』だけでなく、『悪』も備わっていると思います」

お祖父様は私の意見に、ゆっくりとした口調で答えた。

「確かに、孟子が『性善説』を唱える前は、ゆきのように

『性には『善』も『悪』もある』

また

『性には『善』も『悪』もない』

と言う説があった。

だが、孟子が人は生まれながらに『善』だと唱えた事には根拠がある。

それは、『四端』の一つ『惻隠の心』が証明している」

「『惻隠の心』・・・」

「そうだ。

もし子供が川で溺れていたら、人は助けようとする。

それは『損得』の為ではなく、ただ

『助けたい』

と言う()()があるからだ。

人を『憐れむ心』が、あるからだ。

『惻隠の心』が、あるからだ。

だから、人は生まれながらに『善』なのだ」

「・・・」

「では、何故生まれながら『善』である人が『悪』を行うのか?

それは、人に『悪』を行わせる『環境』のせいだ」

「『悪』を行わせる『環境』・・・」

私の言葉にお祖父様は深く頷き、続けた。

「『悪』を行わせる『環境』を作るのは、『為政者』だ。

だが、人に『悪』を行わせない『環境』を作るのも『為政者』だ。

『為政者』が『王道政治』を行えば、人々は『悪』を行わない」

「・・・」

私は、確かにそうかもしれないと思った。

自分自身に余裕がないと、人の事を顧みる事が出来なくなる。

そうすると自分勝手になり、自分では本当は望んでいなくても、仕方なく『悪』を行う事だってあるかもしれない。

この『仕方なく』と『後ろめたい心』が、もしかしたら『善』の心なのかもしれない。

自分が満たされれば、人は『悪』をしないのかもしれない。

私は、少し頭を整理する為にお祖父様に質問した。

「保科正之公も上杉鷹山公も『性善説』を信じていたから、『王道政治』を実現する事が出来たのですか?

本当にお二方は、『性善説』を信じていらしたのですか?」

お祖父様は少し考え、言った。

「信じていた・・・。

信じたかった・・・。

どちらかは、分からない。

しかし信じ続けたからこそ、お二方は『王道政治』を実現する事が出来た。

お二方は『王道政治』を実現し、『性善説』が正しいと証明された」

「・・・」

お祖父様は、自信を持って答えた。

お祖父様の顔は、とても嬉しそうだった。

私は、お祖父様の顔を見て思った。

ああ。

やはり、お祖父様は『性善説』を信じているのだと思った。

私は、複雑な気持ちだった。

お祖父様は、説明を続けた。

「保科正之公の『王道政治』により、その後は大きな戦が無くなった。

上杉鷹山公の『王道政治』により、米沢藩の民は『良く』生きる事が出来、藩も立て直された。

お二方が亡くなった後、『王道政治』が揺らいだ時はあった。

私利私欲の為に生きた『為政者』もいた。

能力が足らず、完璧な『王道政治』を行う事が出来なかった『為政者』もいた。

しかし、お二方の意志を受け継ぎ、『王道政治』を目指そうとした人々がどの時代にも必ずいた。

だからこそ、この国は二百五十年以上もの長い間『平和』であった。

こういった『先人』の意志を、河井殿も受け継ごうとしているのではないか?」

「つまり、継兄さんも『王道政治』を実現しようとしていると言う事ですか?」

「そうだ。

河井殿も、『王道政治』の根源である『性善説』を信じているのだろう。

だから、

『心掛けが悪くとも、もしその人が弱ければ、助けよ』

と言ったのではないか?」

「どうして、継兄さんは『王道政治』を実現しようと考えているのでしょうか?」

私の質問に、お祖父様は真っ直ぐ私の顔を見て答えた。

「長岡藩を、立て直す為だ」

「長岡藩を、立て直す?

と言う事は、長岡藩はもしかして潰れそうなのですか?」

「そうだ。

藩の財政は、逼迫している。

それに西国の動きにより、長岡藩はこれからどのような立場に陥るか分からない。

今後の為にも、河井殿は『王道政治』により藩の力を高めようとしているのではないか?」


私はこの時、二人の『賢君』の『王道政治』を知ったと同時に、『王道政治』を目指す継兄さんの言葉の真意を知り、少し怖くなった。


_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _



私はあの時の心配を少し脇へ避け、先程の三間様の質問に答えた。

「では、保科正之公や上杉鷹山公は如何ですか?」

三間様は、膝を叩いて言った。

「確かに!!

御二方も、『偉人』です!!」

満足そうな三間様にこれ以上質問されない為に、今度は私から三間様に質問した。

「三間様は、どなたが『偉人』だとお考えですか?」

「そうですね・・・。

真言宗(しんごんしゅう)』の開祖である空海(くうかい)、『天台宗(てんだいしゅう)』の開祖である最澄(さいちょう)、『浄土宗(じょうどしゅう)』の開祖である法然(ほうねん)、『浄土真宗(じょうどしんしゅう)』の宗祖である親鸞(しんらん)、『日蓮宗(にちれんしゅう)』の宗祖である日蓮。

平氏政権を築いた平清盛(たいらのきよもり)、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)、足利幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)

中央集権政権を確立した織田信長(おだのぶなが)甲斐(かい)(山梨)の守護大名であった武田信玄、越後の虎・越後の龍・軍神とも言われた上杉謙信(うえすぎけんしん)公、出羽(でわ)陸奥国(むつのくに)(宮城)の戦国大名であった伊達正宗(だてまさむね)

そして、江戸幕府を開かれた徳川家康公。

あとは、全身麻酔を用いて乳癌の手術を成功させた華岡青洲(はなおかせいしゅう)、農村復興政策を指導した二宮尊徳(にのみやそんとく)

知恵伊豆(ちえいず)』と称された松平信綱(まつだいらのぶつな)、『伊達騒動』に関係する原田宗輔(はらだむねすけ)、主君の仇を討った赤穂義士(あこうぎし)

宝永(ほうえい)の大噴火』の際に功績のあった伊奈忠順(いなただのぶ)、開国を推進した井伊直弼(いいなおすけ)様、民衆に味方した大塩平八郎(おおしおへいはちろう)生田万(いくたよろず)、あとは・・・」

三間様にとっての『偉人』は、まだまだ沢山いるようだった。

私はキリがなさそうだったので、再び質問する事にした。

「随分と・・・沢山いらっしゃいますね・・・。

でも幕府に反旗を翻した大塩平八郎や生田万も、『偉人』なのですか?」

三間様は、自信を持って答えた。

「たとえ『謀反人(むほんにん)』と言われても、行いは正しいです。

それに『謀反人』とは、幕府側から見てです。

民衆達から見れば、『偉人』です」

私はその言葉に、

『確かに・・・』

と思った。

私の『目』で見たものは、幕府側の『目』で見たものだった。

私は、川島様と話した事を思い出した。


『『立つ場所』が違うから、見えるものが違う』


この『目』が、そうなのだと思った。


その時、継兄さんが戻って来た。

「ん?

どうした?

何の話をしている?」

私は、継兄さんを見上げながら答えた。

「『偉人』とは誰か、と言う話をしていました」

「ああ。

さっき話していた事か・・・」

「継兄さんは、誰が『偉人』だと思いますか?」

継兄さんは腕を組んで考え、答えた。

「俺は、そうだな・・・。

山田方谷(やまだほうこく)様だと思う」

「やまだほうこく様?」

私の問いに、三間様が答えてくれた。

「山田方谷様とは、備中(びっちゅう)・松山(岡山)藩の『藩政改革』を成功させた方です。

六年前、河井様が西国遊学の際に会いに行かれた河井様の、謂わば『お師匠様』です」

「継兄さんの先生ですか?」

私の質問に、今度は継兄さんが答えてくれた。

「そうだ。

俺の『師匠』だ」

「何故、継兄さんは山田様に会いにわざわざ備中まで行かれたのですか?」

「先生の名声は、江戸まで聞こえていた。

その頃、俺は江戸ではもう学ぶ事はなくなっていた。

だから、『藩政改革』を成功させた先生に是非会って学びたかった。

学んだ知識は、これからの長岡の為にも必要だと考えた。

それと、実際にこの目で他国を見てみたかった」

「へえ・・・。

ところで、山田方谷様とはどういった方なのですか?」

「先生は農民出身であったが、『備中・松山藩藩主』板倉勝静(いたくらかつきよ)公によって重用され、藩政にも参加された」

私は、驚いた。

激動の時代とはいえ、身分制度の厳しいこの時代に農民を重用すると、他の藩士達から反発されるからだ。

「農民出身でも、板倉勝静公は山田方谷様を登用されたのですか?」

「板倉勝静公は身分の区別なく、実力のある人間を登用した」

継兄さんの答えに私は嘆息し、感心しながら言った。

「たとえ藩が滅亡の危機だったとしても、そのような決断をするのは、余程の『覚悟』がなければ出来ない事だと思います。

藩主様も、素晴らしい方なのですね・・・」

継兄さんも、感服しながら言った。

「ああ。

素晴らしい方だ・・・。

本当に・・・」

継兄さんは一呼吸置いて、続けた。

「本当に、この国には『偉人』が沢山いる。

市之進の言った以上に・・・。

我々は、『偉人』から学ばなければならない。

『偉人』の行いや言葉は、『遺産』だ。

いや。

『偉人』だけではない。

全ての『先人』の行いや言葉も、『遺産』だ」

私は、継兄さん言葉に対して質問した。

「『先人』・・・つまり、私達全員のご先祖様達と言う事ですか?」

「そうだ。

『先人』の努力や言葉、文化も町も人も、良い事であれ、悪い事であれ、それらは全て『遺産』だ。

我々は、これら『遺産』に守られ続けている。

だから我々のやるべき事は、『先人』達の遺志に気付き、引き継がなければならない。

そして、それらと共に自分達の新たな『遺産』を次の世代に託し、育てなければならない。

この国を、守る為にも・・・」

継兄さんはそう言うと、少し黙ってしまった。

私と三間様は、継兄さんを不思議そうに見つめた。

どうしたのだろう?

すると継兄さんは口を開き、呟くように言った。

「もしかしたら本当の『偉人』とは、名も残らぬような人々の事なのかもしれない・・・。

争いを好まず、『平和』を愛し、守り続けた人々の事なのかもしれない・・・。

そう言う意味では、俺は『偉人』にはなれないのかもしれない・・・」

最後の方は、聞き取れないほどの小さな声だった。

私は継兄さんが、何故そんな事を言うのか分からなかった。

でも、私は継兄さんにその事を問う事はなかった。

出来なかった。

何故だか、聞く事が怖かった。

継兄さんは私の方を向き、さっきとは打って変わって明るく言った。

「そうだ。

ゆきは、誰が『偉人』だと思った?」

私は継兄さんの変容に戸惑ったけれど、素直に答えた。

「私は卑弥呼、聖徳太子、菅原道真、坂上田村麻呂。

それと、特に保科正之公と上杉鷹山公が『偉人』だと思いました」

その答えに、継兄さんはとても喜んで言った。

「おお。

俺も、そう思う。

お二方について、こんな話がある。

保科正之公が『玉川上水開削』を提案した際、幕閣に大反対された。

それに対する正之公の答えは、こうだった。


『一国一郡の小城は堅固なるを以って主とす。

天下府城は万民の便利安居を以って第一とす』


と。


また、上杉鷹山公は『伝国(でんこく)()』と言う藩主の心構えを遺した。


『一. 国家は先祖より子孫へ伝え(そうろう)国家にして我私すべき物にはこれなく候

   (国家は先祖から子孫に伝える国家であって、自分で身勝手にしては

    ならないものである)』


『一. 人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候

   (人民は国家に属している人民であって、自分で勝手にしては

    ならないものである)』


『一. 国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候

   (国家と人民の為に立てられている君主であって、

    君主の為に立てられている国家や人民ではない)』


お二方とも、『王道政治』を実現された方達だ。

俺が書物を『精読』するのは、お二方のような『先人』の事をより深く理解する為だ。

俺はそれを活かして、長岡を、国を豊かにしたい」

私は、継兄さんの言葉に疑問を持ち、質問した。

「継兄さんも、『偉人』になりたいのですか?」

継兄さんは、首を横に振った。

そして、自信を持って答えた。

「いや。

俺は、飽く迄殿さんの家臣だ。

だから俺は『偉人』ではなく、『名臣』になりたい」

「『名臣』・・・。

『名臣』とは、『有能な家臣』と言う事ですか?」

「いや。

俺の言う『名臣』は、それだけではない。

俺の言う『名臣』とは常に殿さんを助け、殿さんが誤った行いをする時には直接諌める『家臣』の事だ。

この『諫言(かんげん)をすべし』と言ったのは、孟子だ。

『諫言』は、時には『不忠(ふちゅう)』になる。

だが、『忠義』よりも大切なものがある。

それは、『民』の事だ。

『民』は国の(もと)であり、()は『民』の(やとい)である。

『民』あってこその『国』だ。

『民』を守る事が、我々役人の『役割』だ。

『民』の生活を良くする為に、我々は働くのだ。

そうすれば『民』も、『国』も豊かになる」


私は、この継兄さんの言葉を聞いて確信した。


継兄さんは、やはり


『王道政治を目指しているのだ』


と。


継兄さんは、続けた。

「孟子は、こうも言った。


(くん)大過(たいか)有れば(すなわ)(いまし)め、之を反覆して聴かれざれば、則ち位を()う』


『君に大過有れば則ち諫め、之を反覆して聴かざれば、則ち去る』


だが、俺はこれには従わない。

俺は、どんな事があっても殿さんの許を去らない。

俺は、最期まで殿さんを支える」


そう言う継兄さんの顔を、三間様はじっと見つめていた。


継兄さんと三間様の『目』は、同じ『目』をしていた。


何かを決意し、覚悟した『目』だった。


次の月、継兄さんは『外様吟味役(とざまぎんみやく)』に任ぜられた。


継兄さんは、継兄さんの考える『名臣』に、『王道政治』に一歩ずつ近づいているようだった。

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