第1話:魔女とピンク
まず初めに、明確な事実として宣言しておく。
あれは不可抗力であり、偶発的な事故であり、僕の冴えない高校生活において完全にイレギュラーな不意打ちだった。
季節は冬。街中がくだらない商業主義の罠に嵌まり、浮足立っているクリスマス当日の夜のことだ。
時刻は午後九時を回ったところ。僕――蓮見由来は、普段なら絶対にやらない色街のケーキ屋での短期アルバイトを終え、重い足取りで帰路についていた。なぜ勉強はからきし(学年順位は300位中250位)で、優柔不断なひねくれ者の僕がそんな面倒な真似をしていたかと言えば、店長から「シフトに入ってくれたら売れ残ったホールケーキを丸ごと一個やる」という、甘党の僕に対する悪魔の取引を持ちかけられたからだ。
両手で抱えたケーキ箱の重みと、これから自宅で始まる至高の糖分摂取タイムへの期待。友達などという時間と労力の無駄遣いを省いたボッチの特権を噛み締めながら、僕は人通りの絶えた暗い路地裏のショートカットコースを歩いていた。
その時だった。
「――っ、ちょっと、風がっ……!」
頭上から降ってきたのは、およそ夜の住宅街には似合わない、どこか聞き覚えのある涼やかな少女の声。
反射的に見上げた僕の目に飛び込んできたのは、冬の澄んだ夜空を背景に、漆黒の『箒』にまたがって高度数メートルを滑空する、一人の女子高生の姿だった。
漫画やアニメのそれではない。紛れもない本物の、重力を無視して空を飛ぶ人間。
しかもその横顔は、我が校が誇る学年トップクラスの圧倒的優等生――黒川月詠その人だった。
それだけでも僕の持つ貧弱な脳細胞が緊急アラートを鳴らすには十分だったが、事態はそこからさらに、僕の理性を奈落の底へ突き落とす方向へと加速した。
「……あ」
彼女の背負ったスクールバッグの金具。それが、あろうことかめくれ上がった制服のスカートの裾を、がっちりと巻き込んで挟み込んでいたのだ。
つまり、どういうことか。
箒に跨がった彼女の下半身は完全に無防備であり、そこには夜の闇の中でも鮮明に主張する、ピンクと黒のレースが施された布地――平たく言えば、パンツが丸出しになっていた。
僕は、目が離せなかった。
その瞬間ばかりは瞬きをすることすら忘れ、凝視する僕の網膜を通じて、脳細胞が狂ったように一斉のアラートを訴えかけてくる。
『コードレッド! コードレッド! 理解不能な情報を受信! 反射的視線逸脱プロトコルを実行せよ!』
無理だ、動けない。理屈じゃない。
あの完璧な優等生が、ピンクと黒。
理解が追いつかない大混乱の真ん中で、僕は、今日、間違いなく大人の階段を一歩前進してしまっていた。
当の黒川は自分の身に起きた大惨事に全く気づいていない様子で、「ふぅ、やっぱり夜風は冷えるわね」とかなんとか呟きながら、そのまま夜の闇の向こうへと優雅に飛び去っていく。
静寂が戻った路地裏。
頭頂部のアホ毛を寒風に揺らしたまま、僕はケーキ箱を抱えて完全に凝固していた。
人間関係を遮断し、平穏無事な学生生活をただやり過ごしてきた僕の十六年間の人生において。
これが、文字通り天から降ってきた、初めての『ラッキースケベ』だった。
翌朝、僕は洗面台の冷たい水で強引に脳を叩き起こした。
鏡の中のジト目と、いつも通り不遜に跳ねるアホ毛を確認し、リビングへ向かう。
そこには、ネイビーの長い髪を気だるげにいじっている中学三年の妹、照美の姿があった。トーストを齧りながら、ギャル特有のハキハキとした、しかし僕に対しては容赦なく尖った声が飛んでくる。
「ねえ、ちょっとおにぃ。次から朝起こしてよ。マジで遅刻すんだけど」
「なぜ僕がお前を起こさなきゃいけないんだ。お前のスマホのアラームの爆音に起こされた僕の身にもなってほしい。おかげで安眠を妨害されて大変助かったよ、ありがとう」
精一杯の皮肉を込めて返すと、照美は「チッ、うざ」と小さく舌を打ってテレビに目を戻した。
僕はキッチンに立ち、手早く自分の朝食を用意する。
メニューは淹れたてのコーヒーに食パン、そして目玉焼きとハムを載せたラピュタパンもどきだ。
ダイニングテーブルにつき、フォークを手に取ったその時だった。リビングのテレビから、朝の占いコーナーの音声が流れてくる。
『続いておとめ座のあなた! 今日のラッキーカラーは――「ピンク」!』
ピシ、と僕の指先が止まった。
(……ピンク)
脳裏に、昨夜のあの鮮烈な光景がフラッシュバックする。
漆黒の夜空。箒。めくれたスカート。そして、鮮やかに主張していたピンクと黒。
あの見知らぬ女子高生が、空を。いや、そもそもあれは何だったんだ。僕の幻覚か、それとも現代の最新型ドローンに偽装した何か――。
勉強はからきしな僕の頭脳では、いくら考えても非現実的な現象への答えなど出るはずがなかった。
『続いて、全国のお天気です。今日の関東地方は――』
画面が天気予報に切り替わり、冷徹な現実が僕の思考を引き戻した。そろそろ出る時間だ。
僕は残りのパンとコーヒーを無機質に胃袋へ流し込み、シンクで手早く食器を洗う。余計な思考を雑音としてシャットアウトしながらカバンを掴み、いつも通り家を出た。
まさか学校で、あの「ピンクと黒の主」が待ち受けているとも知らずに。
学校に着いた僕は、教室の一番後ろ、窓側の特等席で所在なく外を眺めていた。
友達など作らない僕にとって、朝のざわざわとした教室の喧騒はただの背景音に過ぎない。
キーンコーンカーンコーン――。
予鈴のチャイムが鳴り響くと同時に、担任の教師がガラガラと前扉を開けて入ってきた。生徒たちがそれぞれの席につき、教室が静まり返る。教壇に立った先生は、いつもより少し上機嫌な声で告げた。
「よし、全員揃ってるな。急な話だが、我がクラスに転校生を紹介する。――入ってきなさい」
その言葉を合図に、前扉が開いた。
一歩、教室に足を踏み入れてきた少女の姿を見た瞬間、僕の心臓がドクン、と爆音を立てて跳ね上がった。
真っ暗な黒髪のくびれショート。たれ目で、どこかお姉さん染みた妖艶な雰囲気を纏った美少女。制服はきっちりと着こなしている。
(――っ!?)
間違いない。昨夜、冬の夜空を箒で飛んでいた、あの「ピンクと黒」の主だ。
驚きのあまり、「ピ、ピンク……」と言いかけそうになり、僕は寸前で己の口を手で塞いだ。危ない。ここでそんな単語を口にすれば、即座に変態扱いされて僕の平穏なボッチ生活は社会的破滅を迎える。
激しく鳴り響く鼓動を抑えながら、僕はただ、彼女の一挙手一投足に見入ってしまっていた。
少女は教壇の真ん中に立つと、教室を見渡した。
そして、なぜか一番後ろの席にいる僕と、時折すっと視線を合わせながら、鈴の転がるような声で自己紹介を始めた。
「黒川月詠です。……好きな色は、ピンクです。皆さん、仲良くしてくださいね」
ピンク。
彼女がその単語を口にした瞬間、僕の背中に冷や汗が流れた。
(嘘だろ……。これは偶然か? それとも僕が見ていたことがバレているのか……!? いや、そんなはずはない。あの時、彼女は僕の存在に気づいていなかったはずだ。何なんだこの心理戦は……!)
脳内でコードレッドが乱れ飛ぶ僕を置き去りにして、先生がパンと手を叩いた。
「よし、黒川の席だが……蓮見、お前の隣が空いてるな。黒川、あそこを使いなさい」
「はい、先生」
黒川月詠が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
僕の隣の席にカバンを置くと、彼女は僕の方を向いて、当たり障りのない完璧な笑みを浮かべた。
「よろしくね、蓮見くん」
「あ……ああ。よろしく、黒川さん」
内面のパニックを必死に押し殺し、僕はできる限り平静を装って挨拶を返す。すると、彼女は小首を傾げて言った。
「あのね、まだ教科書が届いてないの。だから、見せてくれない?」
「あ、はい。どうぞ」
一限目の歴史の授業が始まる。
僕は自分の歴史の教科書を、机の真ん中に大きく開いて彼女に見せるように置いた。先生の板書するチョークの音が響く中、僕の意識はどうしても隣の黒川月詠へと向かってしまう。
その時、彼女が滑らかな手つきでシャープペンシルを握った。
そして、僕たちの真ん中にある歴史の教科書の、余白の部分にさらさらと文字を書き込んでいく。
視線だけでそれを追った僕は、心臓が停止するかと思った。
『ピンク、見たでしょ?』
心臓の音がうるさいくらいに耳の奥で鳴り響く。
僕が息を呑んで「え……っ」と小さく声を漏らすと、黒川月詠はシャープペンシルを置き、いたずらが成功した子供のように、少し妖しく笑いながら僕の顔を覗き込んできた。
たれ目の奥にある、すべてを見透かすような冷徹で容赦のない魔女の瞳。
完全に、バレていた。
僕が驚愕で凝固していると、彼女はさらにさらさらと、教科書の余白に言葉を書き足していった。
『私の気になること、不思議なこと。これから色々調べるから、あなた手伝いなさい』
おい待て、なぜ僕がそんな面倒事に巻き込まれなければならないんだ。友達すら作らない主義の僕が、転校早々の魔女のパシリなど――そう脳内で拒絶の論理を組み立てかけた、まさにその瞬間。
黒川月詠はふっと妖艶に口元を歪め、最後のトドメと言わんばかりに驚天動地の一文を滑らせた。
『報酬に、あの時のピンクのパンツあげるから』
「ッ…………!!!!」
声にならない絶叫が、僕の脳内を埋め尽くした。
ピンクの、パンツ。
あの、月光に照らされて鮮やかに主張していた、世界に一つだけの至高のピンク。
それが、もらえる。僕のものになる。
嫌だとか、面倒だとか、そんな理性的な言葉は一瞬で思考の彼方へと消し飛んだ。
人間関係は時間と労力の無駄? 知るかそんなもの。等価交換の概念がここに極まれりだ。
横目で盗み見ると、隣の魔女は「どうする?」とでも言いたげに、クスクスと愉しそうに僕の反応を待っている。
いいだろう、やってやろうじゃないか。
変態と呼ばれようが、豚と蔑まれようが構わない。あのピンクが手に入るなら、僕は今日から魔女の忠実な犬にだってなってやる。どんな怪奇現象でも不思議の調査でも、何でも持ってこい。
超現実主義を気取り、平穏を愛してきた僕の高校生活は、この日、ピンク色の報酬を掲げた魔女の手によって、文字通り欲望のパンドラの箱を開けられてしまったのだった。




