第百七話 失童の代価
二人の童術師が南へ発ってから、三日が経った。
北の村では、変わらない日々が続いていた。
朝になれば畑へ出る者がいて、狩りへ向かう者がいる。共同の建物では村の男たちが童術の練習を続け、元童術師の男も変わらずそこへ通っていた。
礼もまた、朝から村の東側にいた。
「もう少し上です、童師様」
「ここか」
「そこです」
春の雨で傾いた柵を起こし、杭を打ち直す。
礼が金槌を振り下ろすと、横にいた村人が不安そうに手元を見た。
「……大丈夫ですか?」
「何が」
「釘」
「真っ直ぐだ」
「今日はですね」
「今日は、とは何だ」
「いえ」
村人はそれ以上言わなかった。
少し離れたところで、ガルドが笑っている。
「聞こえてるぞ」
「何も言ってねえよ」
「笑っただろ」
「笑うくらいいいだろ」
「手伝え」
「今やってる」
ガルドは片腕で縄を引き、柵の傾きを調整していた。
「そこだ。打て」
「ああ」
礼が杭を打ち込む。
今度は曲がらなかった。
「上手くなったじゃねえか」
「最初からできる」
「はいはい」
「礼!」
遠くから声が飛んできた。
二人が振り返る。
村の中央から、一人の童術師が走ってきていた。
《童駆》は使っていない。
それでも息を切らすほどの勢いだった。
「童師」
「どうした」
「少し……」
男はガルドと村人を見る。
「お話が、あります」
礼は男の顔を見た。
青ざめていた。
「分かった」
金槌を村人へ渡す。
「続きは頼む」
「はい」
「ガルド」
「分かってる。行ってこい」
礼は男とともに村の中央へ戻った。
◇
共同の建物には誰もいなかった。
午前の練習が始まるまで、まだ少し時間がある。
礼が戸を閉める。
「それで」
男は立ったままだった。
「何があった」
「…………」
返事がない。
「座れ」
「いえ」
「ならそのままでいい」
礼も座らなかった。
「話せ」
「童師」
「ああ」
「童力が」
男は自分の手を見た。
「感じられません」
礼の目が僅かに細くなる。
「いつからだ」
「今朝です」
「昨日は」
「使えました」
「何を」
「《童衣》を。畑で石を運ぶのに」
「その後は」
「使ってません」
「今朝は」
「全部試しました」
男は手を握る。
「《童駆》も、《童衣》も、《童撃》も」
「童力そのものは」
「ありません」
「そうか」
礼が男へ近づく。
「手を出せ」
差し出された腕へ触れる。
魔力はある。
身体に異常もない。
熱もない。
怪我もない。
だが。
童力だけがない。
昨日まで確かに存在していたはずのものが、どこにもなかった。
礼は手を離した。
「昨日の夜、何をした」
男の肩が僅かに動いた。
「…………」
「答えろ」
「……女性と」
声が小さくなる。
「村の女性と、一緒にいました」
「寝たのか」
「…………はい」
「そうか」
それだけだった。
驚きはなかった。
男が礼を見る。
「童師」
「なんだ」
「やっぱり……それが原因なんでしょうか」
「ああ」
礼は即答した。
男の顔が強張る。
「……分かるんですか」
「これで二人目だ」
「…………」
「最初の奴も、前日まで童力を持っていた。童貞を失った翌朝、消えた」
礼は男を見る。
「お前も同じだ」
「…………」
「昨日まで使えた。昨夜、童貞を失った。そして今朝、童力が消えた」
「でも」
「二人とも同じ条件で、同じことが起きた」
男は何も言えなかった。
礼は静かに続ける。
「これで分かった」
「…………」
「童貞であることは、童力を持つための条件だ」
男の指が震える。
「童貞を失えば、童力も失う」
共同の建物に、外から子供たちの声が聞こえてきた。
男はしばらく俯いていた。
「……戻りますか」
「戻らない」
また即答だった。
男が顔を上げる。
「まだ今日だけです」
「ああ」
「明日になったら」
「戻らない」
「でも、前の人だって」
「戻っていない」
「これから戻るかもしれないでしょう」
「ない」
「どうして言い切れるんですか」
「童貞には戻れないからだ」
「…………」
男の口が僅かに開いた。
「童力が、童貞であることを条件にしているなら、その条件を失ったお前にはもうない」
「そんな……」
「事実だ」
「童師」
男が一歩近づく。
「治せませんか」
「治す?」
「《童癒》で」
「何を治す」
「だから、童力を」
「怪我じゃない」
「でも身体からなくなったんでしょう?」
「病気でもない」
「だったら第十二は」
「無理だ」
「まだ何も――」
「可能性がない」
男が止まる。
「第十二童式は、存在しない結果を作る術じゃない」
「…………」
「残っている可能性を選ぶ術だ」
「だったら」
「今のお前が童貞である可能性はない」
礼の声は低くも高くもなかった。
「選べない」
「…………」
「だったら」
男の呼吸が荒くなる。
「新しい童術を作ってください」
「作らない」
「……どうして」
「必要がない」
「俺には必要です!」
声が建物に響いた。
「俺は童術師なんです!」
「だった」
「…………」
男の顔から血の気が引いた。
「昨日まではな」
「童師……」
「今は違う」
「そんな言い方……」
「事実だ」
礼は男から目を逸らさなかった。
「嫌です」
「そうか」
「俺は、童術を失いたくない」
「そうか」
「戻してください」
「できない」
「童師ならできるでしょう!」
「できない」
「第十二まで作ったじゃないですか!」
「だから何だ」
「だったら十三でも十四でも作れば――」
「作らない」
「どうして!」
「お前は怪我をしていない」
「…………」
「病気でもない。呪いを受けたわけでもない」
「でも、力を失った!」
「ああ」
「なら戻してください!」
「戻すものじゃない」
「なんで……」
男の声が震えた。
「なんでそんなに簡単に言えるんですか」
「簡単だからだ」
「…………」
「お前は選んだ」
男が息を呑む。
「昨日の夜、何が起こるか知らなかったわけじゃない」
「確定じゃなかった!」
「ああ」
「前の人だけだった! たまたまかもしれなかった!」
「ああ」
「俺なら大丈夫かもしれないって……」
「そう思ったのか」
「…………」
「なら、違った」
「…………」
「それだけだ」
男の拳が震えた。
「好きだったんです」
「ああ」
「あの人が」
「ああ」
「一緒にいたかった」
「ああ」
「だから……」
「行った」
「…………はい」
「自分で」
「はい」
「相手も望んでいたのか」
「……はい」
「なら、それもお前たちが決めたことだ」
男は俯いた。
「後悔してるのか」
「分かりません」
「そうか」
「好きなんです」
「なら好きでいればいい」
「でも童術も」
「それは失った」
「だから戻してほしいって言ってるんです!」
「できない」
「どうして!」
「同じことを何度言わせる」
礼の声が少しだけ低くなった。
男が黙る。
「誰かと生きることを選ぶのは、お前の自由だ」
「…………」
「童術を捨てるのも、お前の自由だ」
「捨てたつもりなんて!」
「結果は同じだ」
「…………」
「知っていたはずだ。そうなるかもしれないと」
「でも……」
「それでも選んだ」
礼は一歩だけ男へ近づいた。
「選んだ後で、選ばなかったものまで寄越せと言うな」
男は何も返せなかった。
雨の後に残った水が、屋根から一滴落ちた。
「……俺」
男がようやく口を開く。
「童術が、こんなに大事だったって」
「…………」
「なくなるまで分かりませんでした」
「そうか」
「朝起きて、何もなくて」
自分の胸を押さえる。
「ずっとあったんです」
「…………」
「目を覚ましたら、そこにあった。歩く時も、仕事する時も、戦う時も」
「…………」
「俺、童術師だったんです」
「ああ」
「それが……俺だったんです」
「違う」
男が顔を上げる。
「童術はお前が使っていたものだ」
「…………」
「お前そのものじゃない」
「でも」
「失ったのは童力だ」
礼は男を見る。
「お前じゃない」
男の目が揺れる。
「……じゃあ」
声が掠れた。
「俺は、どうすればいいんですか」
「俺に聞くな」
「…………」
「それを決めるのはお前だ」
「でも、俺はもう童術師じゃない」
「ああ」
「だったら、ここにいる意味も――」
「それは別だ」
礼が遮った。
「…………」
「童術が使えることと、ここにいることを一緒にするな」
「でも俺は、皆と――」
「最初に失った奴を見ただろ」
男が黙る。
「今もここにいる」
「…………」
「教えて、畑で働いて、女の家に帰っている」
「…………」
「童術が使えなくなったからといって、村から消えたか」
「……いいえ」
「なら同じだ」
礼はそれ以上続けなかった。
男はしばらく床を見ていた。
やがて、ぽつりと尋ねる。
「……童師」
「なんだ」
「本当に」
喉が鳴る。
「本当に、戻れないんですか」
「ああ」
「童貞に」
「ああ」
「何をしても?」
「ああ」
男は目を閉じた。
最後の何かに縋るように、もう一度だけ聞いた。
「童術でも?」
礼は答えた。
「一度失った童貞は、二度と元には戻らんのだ」
静かな声だった。
慰める響きもなかった。
責める響きもなかった。
ただ、変えられないことを告げる声だった。
男は何も言わなかった。
◇
しばらくして、共同の建物に人が集まり始めた。
村の三人が、いつものように童術の練習へ来たのだ。
「おはようございます、童師様」
「ああ」
「今日は《童駆》からでいいですか?」
「好きにしろ」
「先生は?」
「まだ来てない」
「じゃあ先にやってます」
「壁にぶつかるな」
「もうぶつかりませんよ」
「昨日ぶつかっただろ」
「昨日は昨日です」
「そうか」
男たちが準備を始める。
元童術師の男は、まだ壁際にいた。
一人が気づく。
「あれ、今日は練習しないんですか?」
「…………」
男は答えられなかった。
礼が代わりに言う。
「こいつはもう童術を使えない」
「え?」
空気が止まった。
「どうして……」
「童貞を失った」
「…………」
誰も笑わなかった。
1回目の男のことを、村の者たちも知っている。
「これで二人目だ」
礼は三人を見る。
「二人とも、失童と同時に童力を失った」
三人の顔が変わる。
「なら……」
「ああ」
礼は言った。
「童力を持つ条件の一つは、童貞であることだ」
誰も口を開かない。
「童貞を失えば、童力も失う」
共同の建物の中に、その言葉だけが残った。
一人が自分の手を見る。
別の一人は、足元へ視線を落とす。
「童師様」
「なんだ」
「それって……」
男は少し迷った。
「これからも、ずっとですか」
「ああ」
「誰かと一緒になったら」
「失う」
「結婚しても?」
「結婚そのものは関係ない」
「…………」
「童貞を失えばだ」
「そう、ですか」
男は黙った。
礼は三人を見る。
「続けるか」
「え?」
「練習だ」
「あ……」
男たちは顔を見合わせた。
やがて一人が頷く。
「はい」
「ならやれ」
「はい」
練習が始まった。
足へ童力を集める。
まだ不安定な流れ。
それでも昨日より少し滑らかになっている。
「行きます!」
男が《童駆》を使った。
床を蹴る。
数歩先で止まろうとして、身体が大きく揺れた。
「危なっ!」
「止まった!」
「今のは止まったって言わねえだろ!」
「壁には当たってない!」
「基準そこなのかよ!」
少しずつ、いつもの声が戻ってくる。
第二の男は壁際からそれを見ていた。
やがて、静かに立ち上がった。
「童師」
「なんだ」
「少し……行ってきます」
「ああ」
「彼女のところに」
「そうか」
「何を話すか、まだ分かりません」
「俺に言うことじゃない」
「……はい」
男は苦く笑った。
「行ってきます」
「ああ」
戸が開く。
春の光が差し込む。
男は一度だけ、練習している三人を振り返った。
それから外へ出た。
礼は追わなかった。
「童師様!」
「なんだ」
「今の見てました?」
「見てた」
「今度は止まれましたよね?」
「足が流れてる」
「厳しいなあ」
「もう一回やれ」
「はい!」
男が元の位置へ戻る。
礼はその足元へ視線を向けた。
童力が集まっていく。
確かに、そこにある。
持っている間は使える。
失えば、消える。
それだけだった。
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