序章 童師
空が、燃えていた。
夕暮れではない。
天を赤く染めているのは、幾重にも放たれた炎の魔術だった。
轟音。
爆炎。
剣と剣がぶつかり合う甲高い音。
断末魔。
馬の嘶き。
そして、大地を埋め尽くすほどの兵士たち。
そこは、もはや戦場という言葉だけでは足りなかった。
人と人とが殺し合うためだけに作られた、巨大な地獄だった。
「前衛! 押し返せ!」
「第三童術隊、右だ! 右翼が崩れるぞ!」
「治療を! 誰か、こいつを――!」
怒号が飛び交う。
黒を基調とした装束を身に纏った男たちが、迫り来る兵士たちを迎え撃っていた。
数は、決して多くない。
対する敵軍は地平線の向こうまで続いている。
槍兵。
重装歩兵。
騎兵。
そして、その後方には杖を構えた魔術師たち。
統率された正規軍だった。
「放てぇッ!!」
敵陣から声が響く。
次の瞬間、数百もの火球が空へ昇った。
赤く輝くそれらは一度上空で静止し――一斉に黒衣の軍勢へ降り注ぐ。
「来るぞ!」
「防御童式!」
黒衣の男たちが地面へ手をついた。
彼らの身体から淡い光が立ち昇り、幾重もの壁となって前線を覆う。
火球が着弾した。
爆発。
大地が揺れた。
凄まじい熱風が戦場を駆け抜け、土煙が巻き上がる。
それでも、壁は崩れない。
「耐えろ!」
「童力を切らすな!」
「第二陣、前へ!」
爆煙の中から黒衣の男たちが飛び出した。
通常の兵士ではあり得ない速度だった。
一人の男が地面を蹴る。
ただそれだけで地面が砕け、その身体は十数メートルの距離を一瞬で駆け抜ける。
「なっ――!」
敵兵が反応するより早く、拳が鎧へ叩き込まれた。
金属製の胸当てがひしゃげる。
兵士の身体が後方へ吹き飛び、数人を巻き込んだ。
「怯むな!」
敵の騎士が叫ぶ。
「所詮は異端の術だ! 数はこちらが上だ! 押し潰せ!」
再び大軍が動き出した。
黒衣の軍勢――童術師たちも迎え撃つ。
だが。
あまりにも、数が違った。
一人倒しても二人。
二人倒しても五人。
五人倒しても、その後ろから十人が現れる。
「くそっ……!」
一人の童術師が膝をついた。
肩には矢が突き刺さっている。
「まだだ……!」
立ち上がろうとする。
しかし身体が動かない。
使いすぎた。
体内を巡る力は、すでに底をつきかけている。
その眼前で敵兵が剣を振り上げた。
「死ね、異端者!」
剣が振り下ろされる。
――その直前。
敵兵の身体が横へ吹き飛んだ。
「……下がれ」
低い声。
「童師……!」
男は驚いたように顔を上げた。
そこに、一人の青年が立っていた。
黒髪。
黒い外套。
特別に豪華な鎧を身につけているわけでもない。
王冠もなければ、聖剣も持っていない。
年齢すら、周囲の兵士たちと比べれば若く見える。
だが。
彼がそこに立った瞬間。
周囲の童術師たちの空気が変わった。
「童師が前線に……?」
「なぜ……!」
青年――如月礼は倒れている男を一瞥した。
「右肩をやられたか」
「も、申し訳ありません……」
「何を謝る」
礼は短く言った。
「生きているなら、それでいい」
「……童師」
「後ろへ行け。傷を診てもらえ」
「しかし、まだ戦えます!」
「命令だ」
それ以上、男は何も言えなかった。
「……はい!」
仲間に肩を貸されながら後退していく。
礼はその姿を見届けると、再び敵軍へ視線を向けた。
戦況は明らかだった。
こちらが不利。
いや――。
このままなら、敗北する。
「童師!」
別の童術師が駆け寄ってきた。
「敵の第二陣が動きました! およそ三千!」
「そうか」
「左翼も限界です! このままでは包囲されます!」
「……そうか」
あまりにも平静な返答。
男は思わず声を荒らげた。
「童師! お下がりください!」
礼の視線が男へ向く。
「ここは我々が食い止めます!」
「…………」
「童師さえ生きていれば、我々は――」
「構わん」
「……え?」
礼は前を向いた。
「俺がやる」
一瞬。
男の表情が固まった。
「童師……?」
「聞こえなかったか」
礼は黒い外套を翻し、一歩前へ出る。
「ここは俺がやる」
その意味を理解した瞬間。
男の顔から血の気が引いた。
「ぜ……」
震える声。
そして次の瞬間――。
「全員退避ッ!!」
戦場に響き渡るほどの大声だった。
「前衛、下がれ!! 童師が出られるぞ!!」
その言葉は瞬く間に伝播した。
「童師が!?」
「おい、急げ!」
「負傷者を運べ!」
「童脈を閉じろ! 童師の童力に引っ張られるぞ!」
それまで死力を尽くして戦っていた童術師たちが、一斉に後退を始めた。
敵兵たちはその光景を見て歓声を上げる。
「敵が退くぞ!」
「勝った!」
「追え!」
「逃がすな!」
敵軍が勢いづいた。
その中で。
一人だけ。
逆方向へ歩いている男がいた。
如月礼。
仲間たちが後退していく中、礼だけが敵軍へ向かって歩いていく。
「……なんだ、あいつは?」
敵兵の一人が呟いた。
剣も抜いていない。
杖もない。
たった一人。
「止まれ!」
兵士が槍を構えた。
「それ以上近づけば殺す!」
礼は止まらない。
「聞こえないのか!」
槍兵が突進する。
鋭い穂先が礼の胸へ迫った。
礼はただ右手を上げた。
指先が、槍へ触れる。
それだけだった。
――バキン。
「……は?」
槍が砕けた。
次の瞬間。
兵士の身体が地面を転がっていた。
何をされたのか。
本人にすら分からなかった。
「敵だ!」
「囲め!」
十数人が礼を取り囲む。
剣。
槍。
斧。
一斉に振り下ろされた。
しかし。
どれ一つとして、礼の身体へ届かなかった。
薄い光が彼の身体を覆っている。
「なんだ……これは……」
兵士が震えた。
「防御魔術……?」
「違う」
礼が答える。
「魔術ではない」
次の瞬間。
光が弾けた。
「ぐあああッ!」
兵士たちがまとめて吹き飛ぶ。
その光景を遠方から見ていた敵軍の魔術師が目を見開いた。
「馬鹿な……」
「どうした?」
隣にいた指揮官が尋ねる。
「あの男の魔力を測れ!」
「測っています!」
「なら、どれほどだ!」
「それが……!」
魔術師の額に汗が浮かぶ。
「反応がありません!」
「何?」
「魔力が……ないのです!」
指揮官が礼を見る。
「ふざけるな。では、あれは何だ!」
「分かりません!」
魔術師にも理解できなかった。
魔力ではない。
だが、確かに何かが存在する。
それは礼の身体から静かに溢れ、大気へ溶け込んでいる。
異質。
未知。
そして何より――。
「……気持ちが悪い」
魔術師が呟いた。
本能が告げていた。
あれに近づいてはいけない。
「弓兵!」
指揮官が叫ぶ。
「あの男を射殺せ!」
数百人の弓兵が一斉に弓を引いた。
「放て!」
空が黒く染まる。
数百本の矢。
礼はそれを見上げた。
「第三童式」
小さく呟く。
「《童衣》」
光が礼の身体を包む。
矢が降り注いだ。
だが。
一本も届かない。
礼へ触れる寸前で、矢が次々と弾かれていく。
「……嘘だろ」
誰かが呟いた。
礼は再び歩き出す。
一歩。
また一歩。
たった一人の男が歩いているだけ。
それなのに。
数千人の軍勢が、少しずつ後退していた。
「下がるな!」
指揮官が怒鳴る。
「相手は一人だぞ!」
誰も返事をしない。
「何を恐れている! 進め!」
それでも兵士たちは動かなかった。
その時だった。
後方から馬に乗った一人の男が現れた。
豪奢な鎧。
胸には王国の紋章。
この軍を率いる将軍だった。
「情けない」
将軍は礼を見下ろした。
「貴様が異端者どもの首魁か」
礼が足を止める。
「首魁?」
「《童師》などと呼ばれているそうだな」
将軍が鼻で笑った。
「童術などという下劣な邪法を広め、秩序を乱す異端者め」
礼は何も言わない。
「貴様らが存在するから世界が乱れる」
「…………」
「神の定めた魔術体系に背き、得体の知れぬ力を振るう怪物ども」
将軍は剣を抜いた。
「ここで貴様を討ち、すべて終わらせる」
礼が初めて口を開いた。
「終わらせる?」
「そうだ」
「村を焼いたのも、そのためか」
将軍の表情がわずかに変わった。
「……何?」
「北にあった小さな村だ」
礼の声は静かだった。
「童術を学んでいるというだけで、住民を集めて焼いたそうだな」
「異端者を処分したまでだ」
「子供もいた」
「異端の血を残すわけにはいかん」
沈黙。
礼は将軍を見つめた。
怒鳴らない。
怒りを露わにもしない。
だからこそ。
その場にいた誰もが、背筋に寒いものを感じた。
「……そうか」
礼が呟く。
「なら、もういい」
「何?」
礼が右手を上げた。
後方。
十分な距離まで退避していた童術師たちが、その動きを見た。
「……まずい」
一人が呟く。
「さらに下がれ!」
「え?」
「いいから下がれ!!」
礼の周囲で大気が震え始めた。
最初は微かな振動だった。
やがて、小石が浮かび上がる。
地面が鳴る。
空気が歪む。
「な……」
敵の魔術師が杖を落とした。
「なんだ……これは……」
計測できない。
理解できない。
魔力ではない何か。
それが、目の前の男へ集まっていく。
「全魔術師!」
将軍が叫んだ。
「防御結界を展開しろ!」
数百人の魔術師が杖を掲げる。
巨大な魔法陣が幾重にも展開され、軍全体を覆った。
一枚。
二枚。
三枚。
さらに重なる。
「これなら……!」
魔術師の一人が叫ぶ。
「王都を守る城壁結界と同等です!」
将軍が笑った。
「見たか、異端者!」
礼は答えない。
右手を敵軍へ向ける。
「童師……」
遠くから見守る童術師の一人が呟いた。
礼の掌へ、淡い光が集まっていた。
それは小さい。
あまりにも小さい。
数千の軍勢を相手にするには、頼りないほどの光。
しかし。
その光を知っている童術師たちは、誰一人として笑わなかった。
むしろ。
祈るように目を閉じる者すらいた。
礼が息を吐く。
「第五童式」
敵軍の魔術師たちが身構える。
将軍が剣を掲げる。
「耐えろ!」
礼は静かに告げた。
「――《童貞破》」
一瞬。
何も起きなかった。
将軍が笑いかける。
その直後。
世界から音が消えた。
光。
ただ、光だけがあった。
大地を飲み込み。
結界を飲み込み。
軍勢を飲み込み。
空さえ白く染め上げる。
数百人の魔術師が作り上げた結界は、一秒すら持たなかった。
一枚目が砕ける。
二枚目。
三枚目。
すべてが、薄い硝子のように消えていく。
「な――」
将軍の声も光に飲み込まれた。
轟音が戻ってきた。
大地が揺れた。
衝撃波が草原を走る。
遠く離れていた童術師たちでさえ、立っていられず地面へ伏せる。
そして。
長い時間が過ぎた。
いや。
実際には、ほんの数秒だったのかもしれない。
光が消える。
風が吹いた。
土煙が流れていく。
「…………」
誰も言葉を発しなかった。
そこにあったはずの軍勢は――。
消えていた。
大地には巨大な痕跡だけが残っている。
数千人。
騎兵。
重装歩兵。
魔術師。
そして幾重もの防御結界。
そのすべてが、一撃だった。
「……相変わらず」
童術師の一人が呟いた。
「滅茶苦茶だ……」
「聞こえるぞ」
「えっ」
いつの間にか、礼がこちらを見ていた。
「も、申し訳ありません! 童師!」
礼は小さく息を吐いた。
「負傷者を確認しろ」
「はっ!」
「敵兵もだ。生き残りがいるなら連れてこい」
童術師が驚く。
「よろしいのですか?」
「兵すべてが、あの男と同じ考えとは限らん」
「……承知しました!」
男たちは走り出した。
礼は一人、その場に残る。
風が黒い外套を揺らした。
やがて。
先ほど礼に救われた童術師が、肩を治療された状態で戻ってきた。
「童師」
「休んでいろと言ったはずだ」
「申し訳ありません」
男は苦笑した。
「ですが……お聞きしたいことがあります」
「なんだ」
男は戦場を見渡した。
「我々は、いつまでこうして戦い続けるのでしょうか」
礼は答えなかった。
「どの国へ行っても異端と呼ばれます」
「…………」
「魔術師からは邪法と蔑まれ、教会からは神への冒涜だと言われ……ただ童術を学んだというだけで、家を追われる者までいる」
男は拳を握る。
「我々には……居場所がないのでしょうか」
礼は遠くを見た。
燃える村。
追われる者たち。
自分を頼って集まった人間。
いつからだっただろう。
一人だったはずの自分の後ろに、これほど多くの者が立つようになったのは。
「……童師?」
礼は空を見上げた。
黒煙の向こう。
雲の隙間から、僅かに青い空が見えている。
「ないなら」
礼が呟いた。
「え?」
「居場所がないなら――」
礼は振り返った。
そこには傷つき、泥にまみれ、それでも彼を見つめる童術師たちがいた。
誰もが待っている。
彼の言葉を。
「作ればいい」
男が目を見開く。
「……作る?」
「ああ」
礼は歩き出した。
「行くぞ」
「どこへです?」
礼は少しだけ立ち止まった。
そして。
「俺たちが生きられる場所だ」
再び歩き始める。
一人。
また一人。
その後ろへ続いていく。
彼らはまだ知らない。
この日。
この戦場で語られた、あまりにも単純な一言が。
やがて一つの国を生み出すことを。
世界の歴史を変えることを。
そして――。
先頭を歩くこの男が、遥か後世まで語り継がれる存在になることを。
男の名は。
如月礼。
未知の力《童力》を見出し。
その力を操る《童術》を生み出した男。
彼を慕う者たちは、敬意を込めてこう呼んだ。
――《童師》と。




