緑の毛糸と白い包帯
朝。
群れが水場に降りていく。尾根の下の湧き水。羊たちが列になって、ナタンの杖に導かれていく。
ハイディは行かない。昨日と同じ場所にいる。
ミラがゲルトの荷台から水桶を下ろした。グレイとモリー用の、木の桶。昨日は瓶の水を使ったけれど、今日は水場がある。
水場まで降りて、桶に水を汲んできた。重い。両手で抱えて、こぼさないように。
ハイディの前に桶を置いた。ハイディは桶に鼻を近づけなかった。
ミラが掌に水をすくった。冷たい。
ハイディが最初から鼻を寄せた。昨日は匂いを嗅いでからだった。今日は迷わない。
ミラの指を舐めた。ミラが手を引っ込めなかった。それも昨日と同じ。でも今日は、もう片方の手でハイディの耳を触っている。昨日はそこまでできなかった。
◇
ナタンが群れを出した。
ネリが走る。群れが動く。ハイディがついていく。ミラがその横を歩く。
昨日と同じ光景。でも今日は、ナタンがミラの方をちらっと見た。それだけ。杖を突いて、先頭に戻った。
ゲルトが荷の上から群れを見ていた。
「……あの年であの頭数は、きつい」
独り言のようだったが、リリアに聞こえる声だった。
「ゲルトさんも一人でやってるよね」
「俺は二頭だ。あれは三十だ」
ゲルトが手綱を整えながら言った。
「犬がいなきゃ無理だ。あの犬が動けなくなったら、群れは散る」
ネリが遠くで走っている。低い姿勢で。はぐれた羊の前に回り込んで、吠えずに追い戻す。
「……いい犬だ」
ゲルトがそれだけ言って、荷の確認に戻った。
◇
「ベルちゃんの話、したことあったっけ」
リリアが言ったのは、昼の休憩の時だった。
焚き火のそばで、麦の粥をすくっている。ゲルトが朝炊いた残り。冷めかけた椀から、まだ湯気が細く立っている。麦の甘い匂い。
ミラが首を振った。
「ロバ。宿のおばあさんが飼ってた子。首に真鍮のベルがついてて、歩くたびにカラン、カランって鳴るの」
「……鳴るの」
「道端で草を食べてるんだけど、旅人が通ると宿まで案内してくれるの。私もそれで連れてかれた。ついてったら宿だった」
ミラが匙を止めた。
「冬で水が冷たくて飲めない子だったから、手のひらにお湯をすくって飲ませてた。何度も、何度も。掌から飲むの、ハイディと同じ」
「……同じ」
「焼き栗を分けてあげたこともある。指で割って、手のひらに載せたら、尻尾がぶんぶん揺れて」
リリアが自分の手のひらを見た。
「冬祭りの夜に怪我をしたの。前脚の脱臼。関節を嵌めて、回復魔法で腫れを引かせて。……ひどく暴れたけど、治った」
ニコが白湯をすすりながら聞いていた。
「それはいつ頃の話だ」
「ずっと前。ミラと会う前。まだ一人で旅してた頃」
ミラの目が少しだけ変わった。
「……ずっと前って、どのくらい」
「冬祭りの時。年の終わりの——」
言ってから、気づいた。
年の終わりの冬祭り。ミラのお父さんが新年祝いの人形を届けに行く前。ミラの村が襲われたのは——
リリアの口が止まった。
ミラが匙を椀に戻した。
「……その頃か」
声は、静かだった。
リリアは何か言おうとした。ごめん、が喉まで来て、飲み込んだ。
「ベルちゃんの話、もっと聞きたい」
ミラが言った。顔を上げて、リリアを見ている。
リリアは椀を膝に置いた。
「怪我した後、首のベルが壊れちゃって。カランって鳴らなくて、カチ、カチって。でも村の人が直してくれて、また鳴るようになった。ちょっといびつだけど」
リリアが少し笑った。
「別れる時に見たら、脚に緑の毛糸が巻いてあった」
「毛糸?」
「おばあさんが編んでくれたの。怪我した脚を、冬の寒さから守るために」
ミラがまた黙った。
「……ふうん」
椀の底をさらって、匙を置いた。立ち上がって、ハイディの方へ歩いていった。
◇
午後。
ミラが荷台にいた。旅行鞄をごそごそやっている。
使い古しの包帯を引っ張り出した。何度も洗って薄くなっている。もう巻き直しても体裁が出ない。救急鞄に入れるには古すぎて、雑巾か焚きつけ用に持っていたやつだ。
「リリア」
「なに?」
「……やり方、教えて」
「何の」
「脚に巻くやり方」
リリアはミラを見た。ミラは包帯を持っている。その視線が、草地のハイディに向いている。
「巻く相手は」
「グレイとモリー。……練習」
リリアが笑いそうになって、堪えた。
「いいよ。おいで」
◇
グレイの前脚に、ミラが包帯を巻いている。
蹄の上から、関節を覆うように。きつすぎず、緩すぎず。ミラの手つきは丁寧だけれど、巻き方がぎこちない。
「逆。内側から外に巻く。引っ張りながら」
「こう?」
「もう少し。……そう。重なりを均等にして」
ミラがやり直した。グレイが大人しく立っている。慣れたものだ。
ゲルトが荷車の上から見ていた。
「巻き終わりが甘い。ほどけるぞ」
「……どうすればいいですか」
「端を折り返して、中に挟め」
ミラがやった。端がぴたりと収まった。
「モリーも」
ミラがモリーの方に移った。二回目は速かった。
◇
練習が終わった。ミラが包帯を解いて、畳み直している。
「……リリア」
「うん?」
「緑の毛糸、まだあの子の脚についてるかな」
「どうだろう。もうすり切れてるかも」
ミラが包帯を見た。白い、くたびれた布。
「これは毛糸じゃないけど」
「うん」
「……いい。これでいい」
立ち上がった。包帯を持って、ハイディのところへ歩いていった。
◇
ミラがハイディの後ろ脚に包帯を巻いていた。
昨日は藁だった。今日は包帯。巻き方が、さっき練習した通りになっている。内側から外に。重なりを均等に。端を折り返して、中に挟む。
ハイディがじっとしている。嫌がっていない。
巻き終わって、ミラが手を離した。
白い包帯が、冬枯れの草の中で目立っている。
◇
夕方。
ナタンが群れを戻してきた。
焚き火の準備をしていると、ナタンがゲルトのそばに来た。
「明日も同じ場所を使うか」
「ああ。もう一晩は厄介になる」
「……風向きが変わる。明日は焚き火を岩の南側に寄せた方がいい」
ゲルトがうなずいた。ナタンはそれだけ言って、杖を突いて群れの方に戻った。
二人の会話はいつもこうだった。必要なことだけ。短い。でも噛み合っている。
◇
夜。
焚き火のそば。ミラがハイディの横で眠っている。
ハイディがミラに寄り添っている。モリーがその向こう。三つの体温。昨日の夜と同じ形。
違うのは、ハイディの後ろ脚に白い包帯が巻かれていること。
リリアは焚き火の反対側にいた。
ニコが隣で弦の手入れをしている。
「あいつ、器用だな」
「うん」
「ロバの包帯巻きを練習して、羊に使うのか。……順序が逆だろ、普通」
「普通じゃないから」
ニコが鼻で笑った。
「だな」
ヴェルナーが焚き火の向こうで、尾根の先を見ていた。
ミラの寝息が聞こえる。小さい。規則的。ハイディの呼吸はもっと遅い。ずれたリズムが、焚き火の爆ぜる音と混じっている。
リリアは膝を抱えた。
——ベルちゃんの脚の緑の毛糸を、この子は見ていない。話で聞いただけ。
それでも同じことをした。自分のやり方で。自分の手で。
ミラの手がハイディの背中に載っている。指がかすかに動いている。寝ながら、毛を梳いている。
ハイディの肋骨が、指の下で上がって、下がる。ミラの呼吸より、ずっと遅い。
焚き火が爆ぜた。火の粉が一つ、夜の空に上がって、消えた。




