第八章 もちろん愛はあったさ 六
ようやく完結いたします
国王は馬鹿でも名君でもないふつーの若者のつもりで書いています
月牙の背の後ろから光が差していた。
向き合う麗明の背の後ろに正后様の画が見える。
人の丈よりやや高い絵画の中の正后さまが色鮮やかな碧い眸でこちらを見下ろしていた。
――これだ!
月牙ははっと思いつくなり、箙から羽矢を抜き放ち、間髪入れずに絵画に向けて投げた。
瞬間、麗明が目を見開き、体を斜めにひねったかと思うと、画に突き刺さる寸前の矢を剣で払おうとした。
麗明の切っ先がそれた刹那、月牙は大きく跳躍し、体当たりで麗明の体を床に倒してから、腹に右膝を食い込ませ、そらされた喉元に刀の先を突きつけた。
「ああ――」
麗明が悲痛な声をあげ、潤んだ目で画を見上げた。
矢は画の顔のすぐ真横に刺さっていた。
「レーヌ」
麗明が呟いた。
その声には深い絶望がこもっていた。
「レーヌ。レーヌ。お国から助けが来るまで、何としてもお守りしたかったのに」
「助けは来ないよ。法安徳の企みはもう海都の領事に伝わっている」
告げるなり麗明の顔が歪んだ。
月牙は必死で心を静めながら告げた。
「なあ麗明。信じてくれ。我々は本当に正后様を害するつもりはないんだ。捕らえるべきはただ独り、あのよこしまな法安徳だけだ。だから正后様のところに案内してくれ」
「何のために?」
「決まっているだろう。柘榴の頭領として、これから始まる捕り物のあいだ、確実にお守りするために、だ」
できるだけ穏やかな声で告げると、麗明は貌をゆがめて嗤った。
「断る。信じられない」
「お前は法安徳から現状をどう説明されているんだ?」
「さっき言った通りだよ。判官様が河東の侯子を後宮に連れ帰ってきた。主上は兵衛にさえ叛かれて太祖廟に閉じ込められている。御史台はレーヌを殺すつもりだ。そう聞いている」
「嘘だ。それは全部嘘だ。判官様は今も御史台の客殿に軟禁されている。主上はご無事で宮にいらせられるし、御史台が捕らえようとしているのは法安徳だけだ」
「嘘だ。今朝からずっと宮を囲んだ群衆が法狼機女を殺せと叫んでいた。レーヌは怯えていらした」
「その連中はもういない。いたって私が護る。麗明、どうしたら信じられるんだ?」
「そうだな。主上が今ここに来て、お前の名前を呼んだら、かな」
答えながら麗明はいびつな笑みを浮かべた。
「そうか」
月牙は深い諦めとともに応じた。
――麗明は強い。場所によっては私より強い。完全に動きを封じようと思ったら手足の腱でも断ち切るほかない。
――麗明の手足を? この美しい獣のように強靱なサルヒの姫の手足を?
そんなことは当然できるはずはなかった。
となれば、できることは一つだけだ。
「――お前がどうしても信用しないなら、ここで死んで貰うしかない」
月牙はあらゆる感情を抑えて柄を握る手に力をこめた。
麗明の眉がぐっと歪む。
「恥を知れアガール女――」
そのとき、窓の外から思いがけない声が響いてきた。
「柘榴庭――! 柘榴庭――! ジュヌヴィエーヴは無事か――!」
「え?」
月牙と麗明は目を見合わせた。
「い、いまの声って――」
まさか。
「「主上、か?」」
二人で同時に呟いたとき、
「主上、主上、いけません! そんなに露台に近寄って、もし万が一にも階上から撃たれたいかがいたします!!」
と、焦りに焦った紫英の声まで聞こえてきた。
「ええいうるさい離せ! ル・フェーヴルはすでに捕らえたし、南蛮隊は朕の言葉に従ったではないか! ふん、文武百官が雁首そろえて情けないことよ! 誰一人まともなリュザンベール語も話せんとはの!」
じれた子供みたいに喚いているのは間違いなく国王の声だった。
御史台の延尉や竜騎兵の指揮官が焦った声で宥めているのまで聞こえる。
「柘榴庭――! 顔を出せ――!」
「主上、だよな?」
麗明が完全に毒気を抜かれた声で訊ねてくる。
月牙も茫然としながら答えた。
「ああ。たぶん間違いなく」
「なんでこんなところにいるんだ?」
「知らないよ。王宮兵衛は何をしているんだ……」
答えながらはっと気づく。
主上が今ここに来て柘榴庭の名を呼んでいる。
まさしくさっきの条件通りではないか!
「麗明、これで疑いは晴れたろ!」
「ああ、うん。すまない。確かに主上はご無事なんだな」
「信じてもらえて嬉しいよ。疑ったことは気にするな。身内だからって疑わないほうが間違っているんだから」
「負けたよ。頭領はさすがに頭領だな! 私より器が大きい」
「だろ? だから頭領なんだ」
手を差し伸べると自然に握られた。ぐいと引いて、いつもの調練のあとみたいに無造作に立たせてやる。
そのとき、画の右側の扉が音もなく開いて、白っぽい人影が部屋へと入ってきた。
正后様だ。
産み月間近と一目で分かる丸い腹部を抱えて、襞の多い柔らかな白い袍のような衣をまとっている。
くるくると波打つ金色の髪。
硝子玉のように碧い眸。
かつて薔薇色をしていた頬が、いま殆ど土気色に見えるほど蒼ざめている。
「――レーヌ!」
麗明が慌てて駆け寄る。
「いけません、そのような薄着で、お体に触ります! ――テルマ、リュシー、何をしている、早くレーヌにショールを!」
〈はいマダム!〉
正后さまの背後に付き従ってきた水色の法狼機服の女官――一方はタゴール人で、一方は麗明と同じようなリュザンベールと双樹下の混血のように見える――が、薄紫の毛織りの肩掛けで正后様の痩せた体を丁寧に包み込む。
正后はその間中ずっと、感情の読めない硝子玉のような眸で月牙を凝視していた。――正確には月牙の刀を、だ。
――しまった、御前で抜刀している!
月牙が慌てて刀を鞘に収めると、后は瞬きをし、麗明を見上げて訊ねた。
「暁成、外、いるか?」
「ええレーヌ。おいでです。レーヌをお迎えにおいでですよ」
麗明が柔らかな声で言う。すると后は月牙を見上げ、目を潤ませながら思いがけないことを言った。
「妓官、暁成殺すな。麗明殺すな。リュシーとテルマ殺すな。私殺せ。私だけ」
たどたどしい双樹下語で言いながら、自分の手で自分の左胸を指さす。
そこに至って月牙はようやくに気づいた。
――暁成というのは主上の名だ。
正后様は叛徒と信じる相手に主上の命乞いをなさっているのだ。
女官たちすべても殺すなと、殺すなら自分一人にしろと、そう命乞いをなさっているのだ。
そうと気づいた途端、胸中に熱い感動が湧き上がってきた。
「梨花殿さま、どうかご案じ召されるな」
月牙は跪きながら恭しく告げた。
「天が落ち、地が裂け、河が北へと流れようとも、御身は我ら柘榴の妓官がお守りいたします故」
「柘榴庭――! おいどうした、まさかもう死んでおるのか――!」
外から国王が呼んでいる。
相思の二人の情熱はいつだって身勝手だ。
そして感動的だ。
月牙は笑って立ち上がると、堪え性のない若者に教えてやった。
「まだ生きておりますよ――! 柘榴庭はつねに梨花殿さまのおそばにおりましたとも――!」
終
ようやく完結いたしました。
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