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喫茶アトリ - COFFEE & CAFE Atori -   作者: sungen
1章-4 番外編 それぞれのオープン前話
33/33

オープン前話 加倉井カオル -2/2-


 その電話は、唐突に来た。

 隼人の家を尋ねてから、四日後。


 スマホを見る。速水からだ。


「はい!」

 カオルはとりあえず慌てて出た。

『――もしもし?速水ですが。カオルさん、今お時間大丈夫ですか?』

「ええ?良いけど」

 彼は珍しく、興奮した様子だった。

「実は―」


「ええ!?ちょっと待って!うそ?」


 慌ただしく話し、その日の夕方に近くのイーグルカフェでカオルは速水と会った。


「――本当に、またアトリをやるの!?」

 カオルは身を乗り出した。

 アトリをまたやる事になったから、詳しくは会って話したい―いつが空いていますか?

 と言われ。もちろん予定など無いカオルは家を飛び出した。


「はい」

 速水は、あの憔悴ぶりが嘘のように微笑んでいる。

「…ただ、少し込み入っていて。とにかくこれを見て下さい」

 そう言って彼が取り出したのは、一枚の紙だった。


 カオルはパソコンで打たれた文字を眼で追った。


「え、?…、ええええ!!何コレ!どうしたの!?」

 読み終わり、速水朔、早瀬小雪、五条橋京夜、そして達筆な―おそらく速水の祖父の署名捺印を見て、カオルは眼を疑った。

「これ、これっ、もし負けたら小雪ちゃん、五条橋にお嫁に行くの!?そんな!?っていうか五条橋京夜って、この…!」

「イーグルカフェの社長ですね」

 速水は珈琲を飲んだ。…さっきから見ているが、彼は何種類かの珈琲を味見している。


 五条橋はこの辺りでは有名な資産家だ。

 五条橋京夜はその跡取りで長男だが何故かバリスタという変わり種。

 腕も確かで、珈琲業界ではかなりの有名人だったりする。


「勝てば問題無い」

 速水はじろりとカップを睨んで言った。

「勝つって…、どうなのかしら…有名チェーンだけど…」

「人員、店舗面積…立地、条件は同じなら、不可能じゃない」

 カオルは文面を見た。

 確かに、同条件の下とは書かれているが…。

「でも、小雪ちゃんもだけど…京夜って人はそれで良いの?もう、っていうかあれから四日でどうしてこうなったのよ??」

 カオルは途方も無い話に呆れた。


「実は――」

 速水はいきさつを語った。

 自分も店は畳むつもりだったが、小雪が絶対にアトリを続けると主張したこと。

 速水はその為にアトリ跡地を確保しようとしたが、その席で五条橋とバッティングしてしまった。

 最もそれは、隼人があの土地を借りたときのやり取りを知っている速水には、予測が出来た事だったので、速水は自分の祖父に連絡し買収に同席した。

 そこで小雪が、堂々と五条橋と渡り合って、彼に運悪く気に入られた。


 …その結果がこの契約書。

 最後の方はほとんど子供の喧嘩だったらしいが。


「…、小雪ちゃんって、凄い子ね」

 事情を聞いたカオルは驚いた。あの子が、そんな事を言い出すとは…。

「ええ。驚きました。彼女は未成年なので、契約関係は俺がサポートします。カオルさんを今日お呼びしたのは」

「やるわ!」

 カオルは聞く前に返事をした。

「…、ええと、ありがとう、ございます」

 速水はぽかんとした。

「で、私は何をやるの?従業員でいいの?」

「…その件ですが。実はカオルさんに折り入ってお願いがあります。あ、聞いてから決めていただく形で結構です」

 速水は苦笑した。

「速水君のその喋り方って、癖なのかしら?」

 カオルはふと気になって聞いた。

 彼はやたらと事務的な言葉を話すが、ぶっきらぼうに話す時もある。


「ん?ああ。まあそうです。…気になるなら止めるけど」

 口調を変えると途端に目つきまで無愛想になる、この落差。


「あ、そうじゃ無いのよ、ふと思っただけ。そういうのって疲れないの?」

「別に…どっちも俺だから。で本題だけど」


「俺は、新店の店長になります。早瀬さんはチーフ。それで、副店長をカオルさんにお願いしたいんです」

「って…私でいいの?」

 カオルは聞き返した。てっきり、副店長は小雪がなると思っていた。


「実は俺、準備期間の間、資格を取りにイタリアに行くつもりでいるんです。そうなると、店舗の内装とか、任せられる人物が必要になる」


「えっ…イタリア!?ちょ、ちょっと待ってよ、っていうか、その前に!!速水君って、―バリスタだったの!!?」

 カオルは飛び上がらんばかりに驚いた。

「まあ、一応…。国内資格は隼人に巻き込まれて一緒に取りました。それでも問題は無いんですが、今回の勝負には、…負けられないので。修行します」

 速水は苦笑している。だが、その眼は本気だ。


「はぁ…バリスタだったの…」

 カオルは感心するというか、…呆れた。


 確かに、確かに。本場の資格は、無いよりあった方が店舗運営には有利だろう。

 だがカフェなら国内資格でも十分対応できる。

 …それを、わざわざイタリアまで行くと言うのは、ちょっと取ってくると言うのは!

 バリスタの端くれであるカオルに言わせれば、彼の思考は普通じゃ無い。


「っていうか、あなた、ツテはあるの?イタリア語はできるの!?」

 すでに聞くだけヤボな気がするが、カオルは聞いてみた。

「今、師匠に向こうの審査員と交渉して貰ってます。あと俺はイタリア語話せます」

 速水は微笑んだ。


 バリスタは師弟関係が非常に物を言う。

 隼人の師匠は速水の師匠。しかも、国際的にも有名なバリスタだ。

 となると、隼人の修業先だったバールなら、事情が事情だけに…便宜を図ってくれるかもしれない。

 だが本人の実力が無ければ始まらないのは、言うまでも無い。

 向こうだって不景気だ。余分な人間をビザまで申請して雇う余裕は無いだろう。

 隼人と同じバイト先だったとは聞いていたが…。

 まさかまさか、バリスタとしての速水の腕は、隼人のそれに近いのか?


「…はぁ」

 カオルは頭が痛くなって来た。

 だとしたら…こんな場末に、とんだハイスペック男がいた物だ…。

 だが、その間に店舗建造を一任されるとなると――経験も無いし。それに。


「ねえ、その間、小雪ちゃんは?まさか連れて行くの?」

「いえ、茨城にマスターの店があるので、彼女はそこに住み込みしてもらいます」

「住み込みって、お父さんは…。…まあ説得すればいいのかしら…」


 小雪の父も、小雪が生きる希望を持つのを止めはしないだろう。

 彼女は通信制高校だし…、不可能では無い。


「と言っても、週の半分くらいですから。俺も、隼人も…昔はそうでした」

「小雪ちゃんは女の子なのよ。まあ…喜んで、やりますって言いそうだけど」

 カオルは溜息を付いた。


 しばらく沈黙が降りる。

 速水は隼人との事を思い出しているのだろう…。エスプレッソのクレマを見つめた。


 そして書類を指し示す。

「カオルさん。これはさらに先の話ですけど…、この契約書。彼女が最後に足したこの条件」


 カオルはその一文を読んだ。


『※駅前の土地は勝敗にかかわらず、アトリ代表、速水朔が借用する』


「…ええと、これって…つまり、もし負けても…駅前のお店はずっと続けられるって事?」


「ええ。負けた場合、早瀬さんは五条橋に嫁ぐか、それが嫌なら、アトリを辞める訳ですが…、俺はそうなったら、カオルさんに土地と店舗、経営権を無償でお譲りします。勝った場合は旧アトリを跡地を買い取り、そちらに早瀬さんと移るつもりです。つまり、内装を頼みたいというのは…ゆくゆくはカオルさんが使うお店として、と言う事です」


「…え?」

 降って湧いた話に、カオルは驚いた。

「ええ、ちょっと待って?」

 とりあえず待ったを掛けた。そして言われたことを、もう一度頭の中で繰り返す。


 負けたら…無償で、譲る?

 となると、えっと、つまりお店?が貰える?タダで?…タダで!!?


 さらに速水は勝負に勝ち旧アトリが買い戻せたなら、駅前店は名前を変えて独立しても良いし、アトリのままでも構わない、もちろん途中でカオルの気が変わったなら、別の人物を店長にしてもいい。

 そう言った。


「じゃあ勝った場合は、独立の時、私がお金払うのよね!?まさかタダで良いですとか言わないわよね?それはないわ」

 カオルはしっかり念押し確認をした。

「え。じゃあ、その時はお願いします。ただ負ければ俺に店は必要ありませんから」


 何処かに消えます、速水はそう言った。


「そ、そう…。か、勝てば良いのよね!」

 何だろう、この子時々眼が恐い…。カオルは少しうろたえた。


 だが、勝った後、独立の時はお金を払う。

 速水にそう確認を取ったカオルはホッとした。タダより高い物は無いのだ。

 この場合は単に良心の問題かも知れないが…タダで土地・店・経営権ハイあげます。と言われると逆に不安すぎる。


 ――要するに速水は、小雪が五条橋に嫁に行くなら、店など、金など要らない、そう言っているのだ。

 …潔いというか、極端というか。

 彼は、本当に小雪の為だけを思って、決死の覚悟?で店長をやる気になったのだろう。


 確か速水はまだ二十一だった。しかも小学校四年の時には、すでに隼人と出会っていたらしい。

 その後のバイト先も同じ。そして隼人の夢を叶えるべく店を立ち上げた矢先、隼人が殺されてしまった…。

「そっか…君は、隼人とはつきあい長かったのよね」

 少ししんみりとしたカオルだった。


 自分のように隼人のペースに巻き込まれただけかも知れないが…、親友が死んだのだ。

 小雪もそうだが、彼も相当つらいだろう。


「ええ。まあ。…実はカオルさんの事も、隼人から聞いて…、あいつ、ちょっと口が軽いから」

 一方の速水はどこか罰が悪そうに言った。


 確かに、『いつか、自分のお店を持ちたい――』そんな事を隼人に漏らした事はあった。

 けれど全然現実的でなかった、夢。

 …夢のような、話をされている。


「どうかな?」

 速水はニコリと笑って言った。

「…ねえ、速水君」

 ふと気になったカオルは声を潜め、速水に顔を近づけた。

 カオルは指折り数える。


 旧アトリ、イタリア修行、新アトリ建物の建造。内装、土地借用…etc…。


「?」

 速水は不思議そうにカオルを見つめ返した。


「あなたっ、一体貯金幾らよ!?今度通帳見せなさい。お母さんが管理してあげるから!」


 実家は茶道の家元だし、金銭感覚がおかしいに違いない。

「それはまた今度。それでカオルさん。受けて頂けますか?」

 速水は華麗に微笑みはぐらかした。


「そうね。…分かった、やるわ!でもうーん、…私の店になるかもしれないって言っても、今はアトリ。内装は以前の業者に頼みましょう。もちろん君が発注したのよね?」


 速水は頷く。

「ええ。事務は大方。開店資金は俺と隼人で折半でした。こちら、工務店の連絡先や以前のデータをまとめた物です。旧アトリ跡地の片付けは隼人のご両親がして下さるそうなので、カオルさんは新店に集中を。カオルさんと早瀬さんにつきましては、諸手続の完了の後、俺名義でパートタイムとして雇います。カオルさんのシフトは週三日。月、火、水、一日六時間で計算します。勤務日は簡単な報告をお願いします。残業が発生したら報告を。お給料は以前と同じく、毎月二十五日に振り込みます。お店の開始までは他の仕事と掛け持ちしてくださっても結構です」


 速水は鞄から分厚いファイルを取り出しカオルに渡した。

 カオルは資料を受け取りパラパラとめくる。


「…相変わらず、仕事早いわね。ちゃんと寝てる?」

「目標が出来たからかな。大分マシになった」

 速水は苦笑した。

「そうだ、やり取りはスカイプかWEBメールで。早瀬さんのアドレスもファイルにあるから。カオルさんのPCアドレスは?スマホに…、あ、壊したんだ」


 取り出された速水のスマホは、画面がものすごくヒビ割れていた。

 …使用はまだ何とか出来るようだが、あまり指で触らない方が良さそうだ。


「あらどうしたの?ちょっと待って書くから」

 カオルは手帳のメモページを切り取り、WEBメールのアドレスを書いて速水に渡した。


「開店はいつ?」

「来年の四月一日になります。向こうもそれに合わせて新店を作るみたいですね。五条橋の連絡先や、敵店の情報も一応資料に入ってます」

「至れりつくせりね。分かったわ。四月…、どこかで修行しようかしら。テイスターの資格取るのも良いかも。あ、皆には連絡したの?」

「いいえ、先にカオルさんにお話しようと思ったので。今日中には連絡します。…カオルさん」

 速水が背筋を伸ばし、頭を下げた。

「引き受けて下さって、ありがとうございます」

「…、そんな、当然よ」

 カオルは恐縮した。


 ここまで自分を信頼してくれる経営者は、きっと他に居ないだろう。

 そう言った。

「いや…、俺は…、ただ、隼人ならこうすると思って」

 ぼそりと呟いた。

「……速水君、それは、さすがに買いかぶり過ぎじゃない…?」

 速水の言葉に、カオルは懐疑的だった。


「そうかな…?」

 珍しく、あどけない返事が返ってきた。少し考えているようだ。


 カオルも考えた。

 隼人なら…?私に店を任せてくれただろうか?

「あでも、確かに『アトリがさえずったから、この店は君に任せるよ』とか言い出しそうかも。それで皆「は?」って感じになるのよ」


 カオルの言葉に速水は笑った。影の無い、楽しそうな笑い方だった。

 それにつられてカオルも笑う。


 がんばろう、そういう気持ちが自然と湧いた。


「じゃあ、小雪ちゃんにさっそく電話するわ。出発が決まったら連絡ちょうだい」

「ああ。これから、よろしく」

 二人は握手を交わした。



 ■ ■ ■


「でね、でね!なんかそういう事になったのよ!」

 カオルはご機嫌で弟に報告した。


 リビングテーブルには速水から貰ったファイルが置かれている。


「…、その速水とか言う人は、変人でなければ変態に違いない…」

 弟のひびきは信じられない、と言う面持ちだ。


「確かに…ちょっと変わってるかもね。でも実家が茶道の家元らしいし、お金は余ってるんじゃ無い?」

「家元と言っても、本人が襲名した訳ではないだろう?何か裏があるのでは?」

 響は慎重だ。

「うーん…、確かに…。本当にお金、どうしてるのかしら…?」

 カオルは首を傾げつつも、さほど気にしていないようだった。


 響は姉が心配になった。姉はしっかりしているようで…悪い男に騙されやすい。

 今まで付き合った男は皆ろくでなしで、響が裏で「二度と顔を見せるな」と言うような者ばかり。速水というのもその類いではないのだろうか…?


「けど…速水君、『俺は何とか』って言ってたのよ」

 カオルは、そんな響を見てぽつりと呟いた。


「?」

 今度は響が首を傾げた。


「あのね、皆で隼人の家に集まったとき…私、あの子に、借金とか無いの?って聞いたんだけど…、あの答えって、単に隼人のご両親の顔を立てただけだったのよ。本当は余裕だけど、それを言っちゃマズいって思ったんじゃないかしら?」

 カオルは頬杖をついて言った。

 響は腕を組んだ。

「姉貴がそう考えるような人物、という訳か?速水、サクだったか…。それにしてもタダとは異常だ。副業でもしているのか…?」

「さあ…。株とか?今度聞いてみるわ」

 カオルはやはり気にしていないようだ。ぱらりと資料をめくった。


 響は考えた。

 その速水とか言う男が――信頼出来る人物ならいいが。

 彼は開店からずっとアトリの常連だったが、その『速水』には会ったことは無い。

 裏方だったらしいので、当然かも知れないが。

 実際に本人と会って話せば、納得が行くのだろうか…?


「姉貴」

 響が、テーブルの上の携帯を手に取った。もちろんカオルの物だ。

「何?」

「その速水さんに用がある。俺もバイトを始めたい」

「…え?」

 響の言葉に、カオルは顔を上げた。ポールペンが止まる。


「何言ってるの?だって、あんた大学はいいの!?」

 音大はバイトなどしていたら、あっと言う間に置いて行かれる。

「彼女の為だ…。週二日程度なら問題無いし」

 響は自信満々だ。

「ぐっ。憎たらしい。…でも、ウチは開店まで人を増やす予定は無いわよ?バリスタならともかく!」

「それは店長に交渉すれば良い。俺は、今から焙煎を勉強する」

「は…?」

 カオルはあっけにとられた。


「焙煎?何でよ?」

「アトリには焙煎士もいただろう?俺はその焙煎士の弟子となり、店に潜り込む」

 カオルの疑問には答えず、響は眼鏡をキラリと光らせた。

「はぁ?潜り込む…?」


「絶対音感を持つ焙煎士か…それも悪くない。借りる」

 そう言って、カオルの携帯を持って奥に消えた。


「…はぁ…?」

 カオルは溜息を付いた。もしかしてちょっと私の為?

 でも大部分は、小雪ちゃんの為…、なのかしら?

 姉のカオルには分かる。響は今だかつて見た事が無いくらいに本気だ。


 ドアの向こうで話し声が聞こえる。


 響が入ったら余計変なお店になりそうよね…。


 ――天才と変人とロリコンは、全て紙一重なのかもしれない。


〈おわり〉

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