第1話 三男の取り分
西の空に、鱗雲が並んでいた。明日の昼には崩れて雨になる形だ。アルノ・ブラウエンは書斎の戸口で足を止め、窓の外をもう一度確かめてから、隣に立つ長兄の袖を引いた。
「兄上、見てください。鱗雲です! 明日の昼は、きっと鳴りますよ」
「念のため言っておくけど、中では雲の話をするなよ」ディートリヒは声を落とし、襟を二度直した。「今日は本当に大事な話なんだ。頼む」
「しません! ……たぶん」
「たぶん、はやめてくれ」
机の上には封を切った書状が二通並んでいた。片方には公家の紋、もう片方には王家の紋の蝋が残っている。王都から馬車で半日の小さな男爵家に、上の家の紋が二つ。それだけで、この家の机には重すぎた。父エックハルトは顔を上げないまま言った。
「座れ。ディートリヒの縁談がまとまる。条件がついた」父は公家の書状を指で押し出した。「東の端に、ザーラ谷という王領の飛び地がある。保持者が空いている。王家は評議会に誰か出せと言い、評議会は公家に回し、公家はそれを縁続きになる我が家に回してきた。断れば縁談ごと消える。務めは毎年の上納金と、峠の守りだ」
ディートリヒが膝の上で拳を握った。「父上、それを弟に」
「お前は家を継ぐ。マティアスは近衛を離れられん」父はそこで初めて顔を上げ、三男を見た。「残るのはお前だ」
屋根裏の窓から十年、アルノは空だけを見て育った。体が弱く、階下の剣の稽古にも客の相手にも出られなかった三男は、雲の形と風の向き、稲光から雷鳴までの拍を毎日帳面につけた。家の者からは「屋根の三男」と呼ばれていた。指先から火花を一粒出せるが、ろうそくに火を移すのがやっとで、この家でそれを術と呼ぶ者はいない。
その帳面の、行商人から聞き書きした頁に、何度も同じ名前が出てくる。
椅子が鳴った。アルノは自分でも気づかないうちに立ち上がっていた。
「ザーラ谷って、雷の谷ですよね!? 年中嵐が居座ってる谷です。夏は毎日、冬も週に何度か落ちる。前の保持者は三年で逃げて、その前の方は落雷で亡くなった」
「知っていたのか」
「天気帳に書いてあります! あの谷の話をする行商人は、みんな空を指さして声を小さくするんです。だから、ずっと行ってみたくて」
「向こうで何をするつもりだ。上納の当てはあるのか」
「まず、雷を数えます。それから考えます」アルノは卓に両手をついた。「いつ発てますか? 明日でも構いません!」
ディートリヒが目を丸くした。父の眉がほんのわずかに動いた。
「……喜んでいるように見えるが」
「喜んでいます! すごく!」
「すまない、アルノ」長兄が頭を下げた。「僕の縁談のせいで、お前を——」
「謝らないでください、兄上。雷の谷ですよ!? こんなにいい話、ほかにありません」
父は長い息を吐き、引き出しから小さな革袋を出して卓に置いた。硬貨の触れ合う音が、ひどく短く鳴って終わった。
廊下に出ると、ディートリヒが追いかけてきて布の包みを押しつけた。「念のため、毛布を三枚。火傷の軟膏と、胃の薬も入れた。向こうで何かあったら、すぐに手紙を寄越せ」
「書きます! 毎回、その日の雷の数も書きますね」
「それは念のため、要らない」
「えっ」
* * *
鉄喰い峠の上で、御者が馬を止めた。
「ここから先は御免です、若様。車軸の鉄が焼けちまう。……本当に、下りるんで?」
「下ります! そのために来たんです」
「前の保持者様は、三年で音を上げたって話ですよ」
「三年じゃ足りません。雷を見るのには」
御者は首を振り、荷台の縄を解き始めた。
峠の名の由来は道端に転がっていた。黒く焦げて飴のように曲がった蹄鉄、裂けた車輪の箍、先の溶けた釘。雷が鉄を好んで喰い、喰い残しを捨てていく道だった。
アルノは荷を背負えるだけ背負って、峠の縁まで走った。
谷が見えた。
東へ細長く延びる盆地の上に、雲の底が蓋のように低く張りついていた。鉛色の蓋の縁だけが白く光り、その下で北の尾根が黒い歯のように並び、南には湖が鈍色に横たわっている。
見ているうちに、蓋の下で光が立った。一本、三本、七本。尾根に、湖に、湿地に、何十本もの雷が同時に立ち、枝を広げ、消える前に次が立つ。
「いち、に、さん、し……」
指を折っていたのは、口より先だった。
屋根裏で、毛布をかぶって泣いていた夜があった。雷が鳴るたびに体が跳ねて、息が詰まった。毛布の端が持ち上がり、母の手が背中に置かれた。光ったら数えるの。いち、に、さん……音が来るまで数えたら、もう怖くない。母の指が、背中を一つずつ叩いた。数えているうちに音が来て、音が来たときには、もう次の光を待っていた。七つの冬に母がいなくなってからは、数える声は自分の声だけになった。
「……じゅう」
地面の奥から太鼓を転がすような響きが、足の裏から膝へと上がってきた。そのとき、尾根の真ん中にひときわ太い一本が立った。枝が空の半分に広がって、蓋の底を下から真っ白に照らし上げる。
「今日のいちばん!」
叫んでから、御者がこちらを振り返っているのに気づいた。アルノは耳まで赤くなって、それでも尾根から目を離せなかった。帳面なら一生かけても書ききれない雷が、あの蓋の下に毎日降っている。
「……全部、私の谷だ」
日が傾く頃、アルノは谷底の草地に立っていた。雨はやみ、雷は尾根の奥へ遠のいて、濡れた草の匂いと焦げた匂いが混ざっている。
屋根裏では、雷が鳴るたびに窓へ人差し指を立てていた。火花を一粒、空へ返す。誰にも見せない挨拶だった。今もそうした。濡れた草の中で、黒い雲の底へ指を上げ、指先に青い粒を灯す。ぱち、と鳴った。
空が、答えた。
音より先に白が来た。指の先から肘、肩、胸、背骨を通って踵まで、一本の熱い線が体の中を真っすぐに抜けていく。痛みはそのあとから、遅れた雷鳴のように追いかけてきた。草が近づき、頬が土に当たり、耳の奥で鈴のような音がいつまでも鳴りやまなかった。
目を開けると雲の底が裂けて、赤い夕日が一筋差していた。左腕を持ち上げる。袖が焼け落ち、肘から手首にかけて、皮膚の上に細い枝が幾筋も広がっていた。羊歯の葉のような、川の支流のような赤い模様。雷が通っていった道だ。
指が震え、心臓がでたらめに跳ねている。舌の奥に、焦がした蜂蜜のような味が残っていた。
「……甘い」
それでもアルノは、仰向けのまま笑い出していた。
「——来た!」
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