第2章 籠の中の獅子と、甘やかなる拘束(前編)
小鳥のさえずりが聞こえる。
窓の外から差し込む柔らかな陽光が、部屋の空気を暖め始めている。
ナイトレイ公国、領主の寝室。その中央に鎮座するキングサイズのベッドで、俺――クロノス・ナイトレイは、最高級の羽毛布団に包まれ、まどろみの中で至福の時を過ごしていた。
昨夜の任務はハードだった。
ターゲットであるベルベット子爵の排除自体は、俺のスキル『因果逆転』の前では児戯に等しい。問題はその後だ。
暴走するティランを宥め、リゼの無邪気な殺戮をストップさせ、証拠隠滅を行い、興奮冷めやらぬ彼女たちを城に連れ帰るまでの精神的疲労。それがボディブローのように効いている。
だから、あと少し。あと一時間、いや、三十分だけでいい。
この温かい繭の中で、泥のように眠らせてほしい。世界が滅びない限り、俺はここから出ないぞ。
そんな俺のささやかな、しかし固い決意は、たった一言の冷徹な声によって、あまりにもあっけなく打ち砕かれた。
「――起床の時間」
耳元で囁かれたわけではない。
部屋の入り口から発せられたその声は、ボリュームこそ小さいものの、氷のような冷たさと、有無を言わせぬ絶対的な強制力を孕んでいた。
「……んぅ……あと、五分……いや、十年……」
「却下。予定時刻を三秒超過。これ以上の惰眠は、主人の体内時計を狂わせ、自律神経の乱れを招く」
カツ、カツ、カツ。
大理石の床を叩く硬質な靴音が、規則正しいリズムでベッドに近づいてくる。まるで死刑執行人の足音だ。
俺は無駄な抵抗を試みた。布団を頭まで隙間なく被り、ダンゴムシのように丸まって完全防御態勢を取る。
最強の暗殺者である俺が、朝の睡魔ごときに負けるわけにはいかない。これは自分との戦いだ。
「……頑固。だが、無駄」
シャアアアアッ!!
次の瞬間、けたたましい音と共に、分厚い遮光カーテンが勢いよく左右に開け放たれた。
俺の網膜を、容赦ない朝の光が焼き尽くす。吸血鬼なら灰になっているところだ。
「ぐあっ!? ま、眩しっ……! 網膜が焼ける……!」
「おはようございます、クロノス様。本日の天気は晴天。気温は二十二度。湿度四十五パーセント。絶好の公務日和、ならびに散歩日和」
俺が目を白黒させながら、涙目で上半身を起こすと、ベッドサイドには一人のメイドが直立不動で立っていた。
『冥土』のリーダー、ノクト。
短めの黒髪ショートカットに、整いすぎた人形のような顔立ち。その黄色い瞳は、太陽光を浴びて苦悶する俺を、一切の感情を見せずに見下ろしている。
手にはなぜか、ピカピカに磨き上げられた銀色のトレイと、体温計が握られていた。
「……ノクト、お前なぁ。昨日の任務で帰ってきたの、明け方だぞ? 少しくらい寝かせてくれたってバチは当たらないだろう」
「睡眠時間は四時間を確保。レム睡眠とノンレム睡眠のサイクルは計算済み。これ以上の睡眠は、かえって疲労感を増幅させ、夜間の暗殺活動に支障をきたす」
「俺は夜行性の動物じゃないんだが……それに、四時間ってショートスリーパーすぎないか?」
「問題ない。不足分は、昼寝の時間で補填する計画」
「昼寝の時間なんてあったか?」
「今作った。私の膝枕で一時間」
ノクトは真顔でとんでもないスケジュールを追加した。
彼女は言葉を切り、スタスタとベッドに歩み寄ると、俺が死守していた布団の端を掴み、躊躇なく剥ぎ取った。
ひゅん、と冷たい空気が肌を刺す。俺はシルクのパジャマ姿で、朝の光の中に無防備に晒された。
「朝のスケジュールが詰まっている。朝食、身支度、全身の健康診断、そして朝の『触れ合い』。一分一秒の遅刻も許されない」
「最後の一つ、何だそれは。聞いてないぞ」
「主人のメンタルヘルスケアに必要不可欠な儀式。……さあ、起きて」
ノクトは俺の手を引いて無理やりベッドから引きずり出すと、手早く俺のパジャマのボタンに手をかけた。
「ちょ、待て。着替えくらい自分でする」
「拒否する。主人の着替えは、専属メイドの特権であり義務。クロノス様はただ、ショーウィンドウの人形のように立っていてくださればいい」
抗議する俺の言葉を無視し、彼女の細い指先が俺の胸元を滑る。
ボタンを外す手つきは職人のように手慣れたものだが、時折、指先が素肌に触れる時間が妙に長い気がする。わざと指の腹で胸筋をなぞっているのではないか?
パジャマの上着が脱がされ、俺の上半身が露わになる。
姿見鏡に映った自分の体を見る。
細身だが、無駄な脂肪のない引き締まった筋肉。暗殺者として極限まで鍛え上げられた、実戦的な肉体だ。
だが、この世界の女性たちから見れば、これは「筋肉量が少なくて華奢」で、「守ってあげたくなる儚い身体」に映るらしい。納得がいかない。解せぬ。
「……傷は、ない」
ノクトが俺の背中や脇腹を、ペタペタと触りながら検品を始めた。
冷たい手のひらが、背骨に沿って滑り落ちる。
その顔は相変わらず無表情だが、瞳の奥に微かな、しかし熱のこもった安堵の色が見て取れた。
「昨夜の戦闘で、カスリ傷一つ負っていないか確認する必要がある。……ん、ここ」
「っ、おい、そこはくすぐったい!」
彼女の指が、俺の脇腹の敏感な部分を這う。
ビクッと身をよじると、彼女はわずかに口角を上げた気がした。
検品という名目のセクハラ……いや、ボディタッチだ。彼女は「掃除」が趣味だが、どうやら俺の身体をメンテナンスするのも「掃除」の一環だと思っている節がある。埃一つ、傷一つ許さないという執念を感じる。
「異常なし。肌の艶、筋肉の張り、体温、共に良好。……美味しそう」
「今、何か不穏なこと言わなかったか?」
「言っていない。空耳。……体温測定を実行する」
ノクトは言い訳をする間もなく、自分の額を俺の額にコトンと押し当ててきた。
近い。
整った顔立ちが目の前にあり、長いまつ毛の一本一本まで数えられそうだ。彼女の吐息が鼻先にかかる。
「……平熱。異常なし」
「そ、そうか。なら離れろ」
「あと十秒。念入りな確認が必要」
「体温計持ってるだろ!?」
俺がツッコミを入れるが、彼女は離れない。むしろ、抱きつくように距離を詰めてくる。
淡々としているようで、その所作の一つ一つには、重すぎるほどの執着と愛情が込められているのを肌で感じる。
「クロノス様、失礼いたします」
そこへ、ノックと共に部屋に入ってきたのは、銀髪の美女だった。
知的な銀縁眼鏡に、胸元が大きく開いたクラシカルなメイド服。スリットから覗く黒ストッキングの脚線美が眩しい。
『四律師』のレグルだ。
彼女の手には、分厚いバインダーと、湯気の立つカップが乗ったトレイが握られている。
「おはようございます、クロノス様。お目覚めはいかがですか?」
「ああ、おはようレグル。……ノクトのおかげで、強制的に覚醒させられたよ。今は検品作業中だ」
「それは重畳。ですがノクト、検品に時間をかけすぎです。着替えの進捗は?」
「七割完了。現在はズボンの選定中。本日は黒のスラックスか、紺のチノパンかで迷っている」
「遅いですね。私が手伝いましょう。クロノス様のお美しさを引き立てるには、やはりフォーマルな装いが一番です」
レグルはトレイをサイドテーブルに置くと、流れるような動作で俺の前に跪いた。
そして、あろうことか俺のパジャマのズボンに手をかけたのだ。
「待てレグル! 何をしてる!?」
「何、とは? お召し替えの手伝いです。下半身の衣服の着脱は、片足立ちになったり屈んだりと、バランス感覚を要します。男性の繊細なお身体には負担が大きい動作。万が一、転倒でもされてお怪我をなされたら国家の一大事です」
「パンツくらい自分で履ける! 俺を何歳児だと思ってるんだ! 暗殺任務で屋根から飛び降りたりしてるんだぞ!?」
「任務中は気が張っていますからね。ですが、プライベートでは違います。私にとっては、クロノス様はいつまでも守るべき愛おしい主君。さあ、大人しく足を上げてください」
彼女は眼鏡の奥の瞳を妖しく光らせ、有無を言わせぬ迫力で俺のズボンを降ろそうとする。
抵抗しようとするが、彼女の腕力――というより、無意識に発動している身体強化魔法の拘束力は凄まじい。
この世界の女性は、基礎的な魔力量だけでなく、魔法による身体強化の効率も男性より圧倒的に高い。本気を出されたら、俺が『因果逆転』を使わない限り、純粋な力比べでは負けるのだ。
「……はぁ。好きにしろ」
俺は諦めて両手を上げた。
抵抗すればするほど、彼女たちの「お世話欲」を刺激し、事態が泥沼化するだけだと学習したからだ。
「ふふ、良い子ですね」
レグルは満足げに微笑むと、手際よくズボンを脱がせ、新しいスラックスに足を通させる。
ノクトがシャツの襟を整え、ネクタイを結び、レグルが靴下を履かせ、ベルトを締める。
二人の美女による、至れり尽くせりの着替えタイム。
傍から見ればハーレムの極みかもしれないが、当事者である俺からすれば、これは高度な「介護」か、着せ替え人形遊びに等しい。
特にレグルは、ベルトを締める際に、わざとらしく俺の下腹部に手を触れたり、太腿の内側を撫でたりと、隙あらばセクハラ……いや、スキンシップを図ってくる。
「レグル、手が際どいぞ。そこはベルトの位置じゃない」
「おや、気のせいですわ、クロノス様。生地のシワを伸ばしていただけです。……ふふ、少し反応されました? 可愛いですね」
「してない! 揶揄うな!」
「残念。朝はお元気だと医学書には書いてありましたが……やはり、昨夜の疲れが? 後で精力剤を用意させましょうか?」
「お前ら、朝からそういう話をするな……品がないぞ」
俺は赤面を隠すように咳払いをした。
この城の朝は、いつもこんな調子だ。
最強の暗殺貴族であるはずの俺が、靴下一つ自分で履かせてもらえない。
この過保護な鳥籠の中で、俺の尊厳は守られているようで、徐々に、しかし確実に削り取られている気がしてならない。
身支度を終え、俺たちは一階のダイニングホールへと向かった。
高い天井に、煌びやかなシャンデリア。壁には歴代当主の肖像画が飾られている。
中央に置かれた長いマホガニーのテーブルには、既に三十人分はあろうかという大量の料理が所狭しと並べられていた。
朝食の香ばしい匂いが漂っているが、そこには微かに獣の匂いと、薬品の匂いが混じっている。
「坊主ー!! 遅せぇぞー! 腹減って死ぬかと思った! 共食いするところだったぞ!」
ホールに入った瞬間、野太い声……ではなく、元気すぎる怒鳴り声が響いた。
テーブルの端で、山盛りの肉料理をガツガツと手づかみで食らっているのは、火怒のリーダー、ティランだ。
彼女は朝から露出度の高い部屋着――というか、スポーツブラにショートパンツというラフすぎる格好で、骨付き肉にかぶりついている。その豪快な食べっぷりは、見ていて清々しいほどだ。
「ティラン、行儀が悪いぞ。主人が来るまで待てと言ったはずだ」
「うるせぇなレグル! 戦士にはエネルギーが必要なんだよ! ……お、坊主! おはよう! 今日の服も似合ってるじゃねぇか! ほら、こっち来て肉食え! ドラゴンのテール肉だ、精がつくぞ!」
ティランは俺を見つけるなり、油でテカテカになった手で手招きをした。
その口元にはバーベキューソースがついている。彼女にとって、食事とは戦いであり、補給なのだ。
「クロノスさまっ! おはようございますっ!」
その隣から、風のように飛び出してきたのはリゼだ。
彼女はダボッとした大きめのパジャマ姿で、萌え袖を振り回しながら俺に抱きついてきた。頭にはナイトキャップを被ったままだ。
「おはよう、リゼ。今日も元気だな」
「はいっ! クロノスさまに会えたので、元気一万倍です! あ、見てください見てください! 今日の朝ごはんに、私の好きなふわふわパンケーキが出たんです! クロノスさまの分も確保しておきました!」
リゼは俺の手を引いて、椅子へとエスコートする。
彼女の指定席は、俺の右隣。
ちなみに左隣はノクト、向かいにはレグルとヴネナンが座るのが、この屋敷の暗黙のルールであり、破れば血を見る鉄の掟だ。
「あらあら、ようやくお出ましね、愛しの坊っちゃま」
テーブルの向かい側で、怪しげな色の液体を優雅に紅茶に垂らしているのは、ヴネナンだ。
彼女は朝から白衣を羽織り、その下には胸元がレース状になったセクシーな黒のネグリジェを着用している。動くたびに谷間が強調され、目のやり場に困る。
彼女の周りだけ、空気がピンク色に淀んでいる気がする。
「……ヴネナン、その紅茶に入れたのは何だ。色が紫色に変色しているが」
「これ? 『愛の雫・改』よ。飲むと身体が熱くなって、目の前の人を猛烈に愛したくなる……そんな素敵なスパイス。副作用で少し記憶が飛ぶかもしれないけど、些細なことよ」
「毒物混入で逮捕するぞ。あと記憶障害は些細なことじゃない」
「冗談よぉ。ただのビタミン剤とマンドラゴラの濃縮エキス。昨日の疲れが残ってるでしょう? さあ、飲んで?」
ヴネナンは妖艶な笑みを浮かべ、カップを俺の前に差し出す。
液体は不気味な紫色に変色し、ボコボコと泡を立てている。どう見ても劇薬だ。カップの縁が少し溶けている気がするのは幻覚だろうか。
「……遠慮しておく。普通の水をくれ。頼むから」
「つれないわねぇ。せっかく坊っちゃまのために、徹夜で調合したのに」
俺が席に着くと、ようやく朝食が始まった。
だが、それは「優雅な貴族の朝食」とは程遠い、戦場のような光景だった。
「坊主! これ食え! 赤竜のステーキだ! これ食って筋肉つけろ!」
「ティラン、クロノス様の皿に肉を積み上げるな。油分過多だ。栄養バランスが崩れる」
「クロノスさま、あーんしてください! はい、あーん! 甘いですよぉ!」
「あらリゼちゃん、抜け駆けはズルいわよ? 私も坊っちゃまに口移しで特製スープを……」
「却下。ヴネナンの唾液には未知の神経毒および媚薬成分が含まれている可能性が高い」
皿の上には次々と料理が盛られ、俺の口元にはフォークやスプーンが四方八方から差し出される。
俺の手は二本しかないし、口は一つしかない。
なのに彼女たちは、俺に自分で食事をさせる気がない。「食べさせる」ことに至上の喜びを感じ、あわよくば間接キスを狙っている。
これもまた、この世界特有の「男は自分では何もできない」という思い込みの一種なのだろうか。
「……自分で食べるから、放っておいてくれ。頼む」
「ダメです! 男性の手首は細くて弱いんですから、重いカトラリーを持たせるわけにはいきません!」
「そうだぞ坊主! お前は座って口を開けてればいいんだ! 俺たちが雛鳥に餌をやる親鳥になってやる!」
「そうそう。私たちは、坊っちゃまが可愛くモグモグしてる姿を見ながら、白飯を食べるのが日課なんだから。それが一番のおかずよ?」
彼女たちの言い分は理不尽極まりない。俺をおかずにするな。
俺は小さくため息をつきつつ、リゼがキラキラした目で差し出したパンケーキを、観念して一口かじった。
「……おいしいか?」
「……ああ、美味いよ。甘くて」
「やったぁ! クロノスさまと一緒だから、世界で一番おいしいです!」
リゼの花が咲くような笑顔を見て、俺の頬が少し緩む。
まあ、悪い気はしない。
前世では、コンビニ弁当を一人でテレビを見ながら、無言で食べていた。
それに比べれば、こうして騒がしくも温かい食卓を囲めるのは、幸せなことなのかもしれない。
たとえ、肉の山と謎の薬品と、過剰な愛に溺れそうになっていても。
嵐のような朝食を終え、俺は城内の執務室へと向かおうとしていた。
辺境伯としての仕事は山積みだ。
領地の経営、税収の管理、陳情の処理、そして裏稼業である暗殺組織の運営。
レグルが優秀な秘書として大半を処理してくれているとはいえ、最終的な決裁権を持つのは当主である俺だ。
それに、昨夜のベルベット子爵の一件について、王都からの反応も確認しなければならない。
「さて、仕事をするか」
俺が廊下を歩いていると、背後から複数の足音がついてくる気配がした。
振り返らなくても分かる。
五人全員だ。
「……お前たち、それぞれの持ち場はどうした?」
俺が呆れて尋ねると、ノクトがまず口を開いた。
「本日の警備計画は策定済み。……それに、主人のそばにいるのが私の役目。他は仕事に戻って。私が後はやる」
彼女はそうぶっきらぼうに告げ、俺の背後を守るように、他のメンバーを牽制するような位置に立つ。独占欲が見え隠れしている。
「ああん? 何言ってんだノクト! 抜け駆けすんなよ! 俺も暇なんだよ! 坊主の護衛は最強の俺が適任だろ!」
ティランが豪快に笑いながら割り込む。
「今日は患者はいないの。今日は非番にしちゃった」
「配達も終わりましたっ! 平和ですねぇ」
「私は秘書ですから、当然同行いたします。お茶の準備もありますし」
全員が暇らしい。いや、どう考えても俺と一緒にいたいだけだろう。
ゾロゾロとついてくる美女軍団を引き連れて、俺は中庭に面した回廊を歩く。
天気は良く、中庭の花々が咲き乱れている。平和な昼下がりだ。
ふと、中庭の片隅に、以前から気になっていた古びた木箱が積まれているのが目に入った。
庭師が使う道具入れだろうか。雨風に晒されて腐りかけている。
景観も悪いし、つまずいたら危ない。片付けておくか。
「……よいしょ、っと」
俺は何気なく回廊から庭に降り、その木箱に手をかけ、持ち上げようとした。
その瞬間だった。
「「「「「クロノスさまッ!!!!」」」」」
五人の悲鳴が重なった。
まるで俺が爆弾でも踏んだかのような、切迫した叫び声。
俺がビクッとして動きを止めると、風のような速さでティランが割り込み、俺の手から木箱をひったくった。
「危ねぇだろうが坊主!! 何考えてんだ!?」
「は? いや、これを片付けようと……」
「バカ野郎! こんな重いもん、男の細腕で持てるわけねぇだろ! 腰が砕けるぞ! 指が折れるぞ! 爪が割れたらどうする!」
「……ただの空箱だぞ? 重さなんて数キロもない。辞書より軽い」
「関係ねぇ! 男が労働をするなんて、この国の恥だ! 俺たちの恥だ! 俺たちが何のためにいると思ってる!」
ティランは木箱を片手で軽々と粉砕――いや、握りつぶしながら怒鳴った。
バキバキッという音と共に、木箱は見るも無残な木片へと変わった。オーバーキルだ。
すかさずリゼが俺の手に駆け寄り、涙目で指先を撫で回す。
「クロノスさま、痛くないですか? 赤くなってないですか? トゲが刺さってないですか? ふぅー、ふぅーっ! 痛いの痛いの飛んでいけー!」
「リゼ、大げさだ……トゲなんて刺さってない」
「大げさじゃありません! クロノスさまのお肌は絹ごし豆腐より柔らかくて繊細なんですから!」
「誰が豆腐だ。俺の皮膚はそんなに柔くない」
ヴネナンが背後から俺を抱きしめ、耳元で甘く囁く。
「もう、坊っちゃまは無茶ばかりするんだからぁ。そんなに身体を動かしたいなら、夜に私のベッドで……激しい運動をしましょうか? ね?」
「却下。公序良俗に反する。離れろ」
「うふふ、心拍数が上がってるわよぉ?」
レグルが眼鏡を光らせ、手帳に何かを高速で書き込んだ。
「クロノス様の行動履歴に『無謀な肉体労働未遂』を記録。今後の対策として、半径一メートル以内の重量物はすべて自動的に排除する重力結界を設置することを提案します。また、庭師の管理体制を見直し、このような危険物を放置した責任を追及します」
「却下だ! 生活しづらくて仕方ない! それに庭師をいじめるな!」
その喧騒の中で、一人だけ沈黙を守っている者がいた。ノクトだ。
彼女は拳を固く握りしめ、小刻みに震えている。
「……失態」
彼女は呟いた。
本来ならば、専属メイドである彼女が真っ先に危険(?)を排除すべきだった。だが、一瞬の判断でティランの破壊力に後れを取ってしまったのだ。咄嗟に動けなかった自分が許せないらしい。
さらに、彼女の黄色い瞳は、俺に抱きつくヴネナンや、手を握るリゼに向けられ、ゆらゆらと嫉妬の炎を燃やしている。
「……どいて。掃除が必要」
ノクトは低い声で告げると、強引にヴネナンとリゼを押しのけ、俺の前に立った。
「クロノス様、服に木屑がついている。綺麗にしないと」
彼女はそう言うと、パンパンと俺の服を払い始めた。だが、その手つきは埃を払うというより、俺の体の感触を確かめるように、執拗に胸や腹を撫で回しているだけだった。
どさくさに紛れた、明白な独占欲の発露だ。
「……ノクト、もう木屑なんてついてないぞ」
「まだついている。目に見えない微粒子レベルで汚染されている」
「それはもう空気だろ」
「いいえ、私の目には見える。だから、じっとしていて」
俺は頭を抱えた。
これだ。これが、この世界の日常だ。
ちょっと重い物を持とうとしただけで、この騒ぎ。
階段を降りようとすれば手を引かれ、高い所の物を取ろうとすれば抱き上げられそうになり、ドアを開けようとすれば五人が先を争ってドアノブに手をかける。
彼女たちにとって、俺は「最強の主」であると同時に、「ガラス細工のお姫様」なのだ。
前世の俺は、誰にも頼られず、誰にも心配されず、孤独に生きていた。
それに比べれば、今の状況は天国なのかもしれない。愛されていることは間違いないのだから。
だが、男としてのプライドというか、生物としての自立心が危機に瀕しているのも事実だ。このままでは、俺は一人でトイレにも行けない人間にされてしまう。
「……俺は、運動がしたいんだ。身体がなまる」
「運動?」
「そうだ。暗殺者としての勘を鈍らせないためにも、日々の鍛錬は必要だ。このままじゃ筋肉が落ちて、本当にお前たちの言う『弱い男』になってしまう。だから、これから訓練場に行く」
俺の宣言に、五人は顔を見合わせた。
そして、ニヤリと笑った。
その笑みは、獲物を見つけた肉食獣のそれに似ていた。
「訓練……いい響きだ。俺が相手になってやるよ、坊主」
「坊っちゃまの汗ばむ姿、見たいわぁ。マッサージの準備もしなきゃね」
「私がタオルと特製ドリンクの準備をしますね! 応援しますっ!」
「では、スケジュールの『公務』を『体力作り』に変更。直ちに訓練場へ移動。ただし、無理は禁物です。私の監視下で、適切な負荷のトレーニングを行っていただきます」
「……汗を拭くのは、私の役目」
彼女たちの目の色が、ギラリと変わった気がした。
俺は背筋に冷たいものを感じながら、彼女たちに連行されるように訓練場へと向かった。
そこで待っているのは、ただの爽やかな「運動」ではなく、彼女たちの過剰な愛による「甘やかな拘束」と、ハーレム特有の熾烈なアピール合戦であることを、俺はまだ知らなかった。
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