15
次の日、魔王討伐へと向かう俺を見送る彼女の目は泣き腫らして真っ赤だった。
傍からみれば、それは愛する婚約者を送り出すのが辛くて流した涙の跡に見えた事だろう。
あの後、彼女の星のような瞳からは止め処無く涙が流れた。
『俺達の結婚』という言葉は、入れ替わりが一生涯だと気づきながらも、それでもいつか王太子が戻るかもしれないと一縷の希望を抱きつづけてきた彼女にとって、奴との未来がないことを決定的に突きつける言葉であり、これまでなんとか感情を押し留めていた薄氷を踏み抜くものだったのだろう。
一度感情が溢れ出すと、押し寄せる激情を自分でもどうすることも出来なくなったのか、いつもの優雅で泰然とした彼女は見る影も形もなくボロボロと泣き続けた。
それはまるで3年分の悲しみや憤り、苦しみが、一気に噴き出しているかのようだった。
後から後から星のような金の瞳から流れる涙はとまらず、このままでは干上がってしまうのではと心配になるほどだった。
(これほどか……………。)
俺は天を見上げて大きく息を吐いた。
この3年彼女と共にあり、多少なりとも親密な関係を築いてきたが、それでも奴を思う気持ちは一ミリも消えてなかったということだ。
人の心は儘ならぬとはいえ、まったくどうにもやるせない。
泣きじゃくる彼女の涙を拭うため手を伸ばし……僅かに逡巡して代わりに、彼女の鼻をむにゅっと摘んだ。
いきなり鼻を摘まれたフィオーナはビクリと肩を揺らし、ハッとしたように涙で光る瞳を俺に向けた。
「こらフィオーナ、いくら友達の前だからってそんなに泣くな。
誰かに見られて、俺があんたを泣かしたと思われたらどうすんだ。
『俺達の結婚』ってのは、周囲からそんな話が出てるって事を伝えたかっただけた。決まったわけじゃねえ。
あとな………そこまで泣かれると流石に傷つくぞ。」
そう言ってやれは、フィオーナはやっと我に返り、直ぐに自分のやらかしに気づいて真っ青になった。
『俺達の結婚』という言葉を聞いて泣き出したのだ。それは俺とは結婚したくないと言っているのと同義だし、婚約者である自分は魔王討伐の報酬の副産物にすぎないと思っている彼女にすれば、正式な報酬である王太子の地位を渡したくないと言ってしまったも同じと捉えることも出来る。
それも命懸けの戦いを明日に控えた俺に対してだ。
『!!!!!申し訳ございせん!!!こ…これは…あ、あ、あの…………。』
上手い弁明の言葉が見つからないのか、フィオーナはハクハクと口を動かして玉のような汗をかいた。
瞳には申し訳なさ、不安、後悔、心配など様々な感情が浮かんでせわしなく浮かんでは消えていく。
『……………そんなに王太子のことが好きなのか?』
『!!!!!!!!』
これまでどれ程親しくなっても聞くことのなかった質問を彼女にぶつけると、彼女は真っ青な顔色を反転させて、今度は茹でダコのように耳まで真っ赤になった。
それはもう答えを言っているようなものだろう。それでも彼女の口から聞きたかった。
『どうなんだ?』
ニヤリと態とからかうように尋ねれば、彼女は羞恥の表情でオロオロと視線を彷徨わせた。
しかしここで誤魔化しても意味がないと観念したのだろう。
『……私の……片想いでございます……。』
真っ赤な顔のままか細い声で呟いた。
鉄壁だった仮面は完全に粉々に打ち砕かれてしまったようで、恥ずかしさからか涙目でプルプルと震えていた。
『ふっ…………………。』
(随分と感情豊かになったもんだ。)
これが彼女の本当の素の姿なのだろう。
かつて能面のように張り付いた微笑しかなかった表情は完全に打ち砕かれていた。
いつか素の姿を見たいと思っていたが、それすらもあの野郎が引き金とは。
おまけに片想いだと思っていたとは、何ともはや俺もあの野郎も救いがたい。
『……………………そうか。』
『勇者様………………?』
一応笑顔を保っていたつもりだったが、表情が歪になってしまっていたのかもしれない。
俺の不興を買ってしまったのかと、フィオーナはまるでべしょりと濡れた迷子の子猫のように不安そうな顔で俺を見つめた。
俺を見つめるその目は、王太子の事が好きだと聞かされて何故俺の表情が曇ったのか、まったく理解していないようだった。
何かまずいことを言ってしまったのかと、心配そうに俺の顔色を伺っていた。
ここまできたら、もう笑うしかないだろう。
ちょっとばかしの嫌味くらいは言わせてほしい。
『あ〜あ、心配しなくても嫌がる相手と無理やり結婚する気なんて俺にはねえけどよ……まさか結婚の話が出ただけで泣くとはなぁ。
友達として少しは好かれてると思ってたのに号泣とか、本人の前でいくらなんでも酷くねえか?
まあ話を持ち出した俺も悪いけどよ、どうするにせよ先のことは明日の魔王討伐が成功することが大前提だろ。
まずは王太子の野郎と会えなくなるかもって泣く前に、明日俺が無事に魔王を倒せるように心配する方が先なんじゃねえのか?
心配もしてくれねえなんて友達がいのねえやつだなあ。』
そう言えば、フィオーナは憐れになるほど顔色を悪くして狼狽えた。
『!!!!!そ、そんな!!私はもちろん勇者様のご無事を願っております!!
心より心配申し上げております!!!』
『どうだろなぁ……さっきの様子を見ると、明日死ぬかもしれねえ俺の心配なんてまったくしてなかったけどなぁ。
あんた本当は、魔王さえ倒してくれれば俺の事なんてどうでも良いんじゃねえのか?』
『まさか!!!そんな筈ございません!!!
先程は確かに決戦を明日に控えた勇者様に対する態度ではございませんでしたが……ですが勇者様は、私にとって特別に大切な方だと思っております!!!
信じていただけないかもしれませんが、明日のご無事も心から願っております!!!本当です!!!』
それはきっと本心なんだろう。
真っ青な顔で、フィオーナは必死に俺の事が大切だと訴えた。
彼女はこれまでも、いつだって俺を心配して、俺が無事に帰還すること祈ってくれていた。
その気持に嘘はなかった筈だ。
ただ…………恋愛感情ではなかっただけだ。
『ゆ、勇者様………………。』
美しい星の瞳に再び涙の膜が溜まったので、やり過ぎたかと苦笑する。
『ふっ、悪い悪い冗談だよ。ちょっとからかいたくなっただけだ、悪かった。』
『……………勇者様。』
フィオーナは俺が怒っているわけでも、友情を疑っている訳でもないと知ってホッと安堵の息を吐いた。
まったく切ないが仕方ない。
仕方ないが………
『………………なあフィオーナ……一つだけ頼みがあるんだが……。』
俺は一つだけ頼みごとををした。
彼女はその頼みを二つ返事で了承した。
むしろ何故そんな事を頼むのか、当たり前ではないかと心外な様子ですらあった。
そして今
見送る彼女の耳元で、もう一度同じ頼みをすれば、彼女はとうとう泣き出した。
(決戦の間だけでいい………俺の事だけを考えて、俺の為に祈っててくれ。)
最後の悪足掻きみたいなもんだ。
せめてその位の報酬はあってもいいだろ?
『祈っております……ずっと…ずっと…勇者様がお帰りになるまで祈っております。
……だからどうか…………必ず……ご無事に…お戻りくださいませ……。』
普段完璧な淑女であるフィオーナが、ボロボロと大粒の涙を流しながら見送る様は、どこからどう見ても、誰の目にも、愛しい婚約者を死地へと送り出す別れの辛さに耐えかねて溢した涙に見えたことだろう。
さて、これで彼女と最初で最後の約束を果たす為にするべきことは唯一つだ。
気持ちを切り替えて、いつものように軍の先頭に立ち、この3年共に戦い、俺についてきてくれた騎士や兵士達、友軍の将達の顔を見回した。
誰も彼もが、瞬きすら惜しいかのようにじっと俺を見つめていた。
それに頷き、号令をかけた。
『今までよくついてきてくれた!これが魔王軍との最後の戦いとなるだろう!
今日は奇襲も奇策もない総力戦での真っ向勝負だ!各々が全力で自分の判断で好きなやり方で戦ってくれ!
俺がお前達に求めることは唯一つ!必ず戦い抜いて愛する者の元へ帰れ!!!』
俺の号令に地響きのような喊声が上がった。
『勇者様に勝利を!!勇者様に栄光あれ!!』
この瞬間、この場にいる全ての者の心は、間違いなく俺に向けられていたことだろう。
フィオーナも含めて例外なく、全ての者の目に俺への信頼と期待が溢れていたと思う。
魔王軍との最終決戦は朝に始まり、夜をまたぎ明け方まで続いた激しいものとなった。
フィオーナは約束通り、魔王討伐成功の知らせが届くまで、ずっと俺の為に祈り続けてくれていたらしい。
満身創痍だったが、魔王を討ち取り、無事彼女の元に戻ると、フィオーナは俺の姿を見るなり取り縋るように抱きついて、見送りの時よりも更に大きな涙を流した。
これで恋愛感情はまったく無いというのだから勘弁して欲しいが、魔王討伐よりも、俺の無事を心の底から喜んでくれた彼女の心は、真実俺を想ってくれていたと思う。
この3年、俺は俺の持てる力全てを注ぎ込み、やれる事は全てやった。後悔はない。
たとえ魔王討伐の翌日に、
『王太子殿下の地位をどうかお返しください。』
と彼女と側近達に頭を下げられたとしてもだ。




