九話
そこは視界一面に広がる、実に壮観な花畑だった。
広大に彩る名も知らぬ花々は、遠目に見ても彼方にまで続いており、まるで果てがないようにも感じる。似た色彩の花が片面にだけ固まっているかと思えば、統一性もなくバラバラに咲き誇っている花もあり、暫し眺めていても飽きが来なくて目に楽しい。
「お母さま〜。こっちこっち〜」
そんなどこまでも広がる美しい花畑の中を、一人の幼い少女が喜色満面の笑みを浮かべて駆け回っていた。
見た目は五、六歳程度。肩口まで伸びる混じり気のない白髪に、非常に整った顔立ち。低い背に合わせたシックなドレスが、お転婆を垣間見せる少女とはアンバランスでどこか可笑しい。
それだけならば、大変可愛いらしい少女で落ち着くのだが、その頭に生えた小さな角だけが、彼女をただの人間ではない事を証明していた。
「ダメよアリア。そんなにはしゃいだら、ドレスを汚してしまうわ」
キャッキャッと歓喜の声を上げて駆けずり回る少女に、近くで控えていた妙齢の女性が軽く諌めた。
「でもでもお母さま! こんなにお花がいっぱいなの、ありあ初めて! すごいすごい!」
「そうね。私は何度かここに来た事があるけれど、アリアは初めてよね」
アリアと呼ばれた少女は、その場で踊るようにくるくると回り、楽しくて仕方ないと言った風に花と戯れる。
風に吹かれて空に舞う花弁を捕まえようとするアリアに、女性は仄かに吐息を零しつつ、愛おしげに目笑して幼き少女の様子を見守る。
その女性もアリアと同じ、腰まで伸びる美しい白髪を、時に手で梳いて緩やかに流していた。
アリアとは比べ物にならないほどの絢爛豪華な純白ドレス。成熟した身体付きのせいもあり、二十代中頃の年齢には見えるが、その肌はきめ細やかで非常に若々しく、シミ一つ見当たらない。あまりに完成された美に、目にした誰もが魅了されんばかりだった。
花と戯れて少しは気が落ち着いたのか、アリアはトテテテと小走りで母の元へ駆け寄り、上目遣いで訊ねる。
「お母さまはなんども来たことがあるの? ここに?」
「ええ。ドラシェ様――あなたのお父様に連れられて、初めてこの花畑を見たのよ」
「えー! いいないいな! ありあもお父さまといっしょにお花見たかった〜!」
ねぇねぇ、次はいつお父さまと会えるの〜、と母親の裾を掴んで訊ねてくるアリア。
「う〜ん。あの人も色々と忙しい身だから……」
「やだやだ! ありあもお父さまと遊びたい! だってありあ、全然お父さまといられないんだもの! もっとお父さまといっしょにいたい!」
「そう、よね。どうしよう、困ったわね……」
元々ここへ訪れたのも、いつも城にいない父や、公務などで忙しい母と日頃顔を合わせられないアリアの寂しさを少しでも取り除こうと、どうにか時間を作ってこの思い出の花畑を見せに来たのだが、それぐらいでは解消とはいかなかったらしい。
どうしたものかと眉根を寄せて深く考え込んでいると――
「――アリア。それにエリザも……」
と背後の方から、二人を呼ぶ声が聞こえた気がした。
その声に、エリザはまさかと思いつつ、期待を込めて後ろを振り向く。
そこには――
「お父さまーっ!」
父親――ドラシェの姿を見たアリアが、輝くような笑みで一心不乱に花畑の中を駆け抜ける。
「お父さまっ! 会いたかったぁ!」
「おっと。元気そうだねアリア」
胸の中に勢いよく飛び込んできたアリアを優しく抱きとめて、ドラシェは穏やかに微笑んだ。
二十代後半――エリザよりは少し上ぐらいか。重ねた月日を刻むように、とても精悍な顔付きをしている。背に黒い外套を羽織り、将のみが許される上質な軍服を、背の高さも相俟って違和感なく着こなしていた。服の上からでは分かり難いが、所々張った筋肉が傍目からでも視認できる。それなりに鍛えている事は明らかであった。
「ドラシェ様、お帰りなさいませ。いつ頃こちらに?」
アリアの後を追う形で、エリザがゆっくりとした歩調でドラシェの元へと向かい、挨拶も早々に疑問を投げる。
「ただいまエリザ。少し前に着いたばかりだよ。城に帰ってみたら二人の姿が見えなくて捜してたんだけど、ここにいたんだね」
言って、ドラシェはアリアの頭を撫でながら、眼前に広がる花畑に目を細めて微笑する。
「お父さま、今日はずっとお城にいられるの? ありあといっしょにいっぱい遊べる?」
「ごめんアリア。少ししたら、また出掛けなくちゃいけないんだ……」
「え〜! また外国に行っちゃうの? お父さま、そうやってお仕事ばっかりで、ありあつまんない!」
不服そうに頬を膨らませるアリア。本人は至って真面目に怒っているつもりなのだろうが、どこかリスを彷彿させるその表情に、ドラシェは思わず苦笑しつつ、アリアの小さな背に合わせるように腰を屈める。
「本当にすまない。けれど、これはとても大切な事なんだ。決してアリアと一緒にいたくないわけじゃない。これだけは分かっておくれ」
「う〜、でもでも〜っ」
「アリア、あまりドラシェ様を困らせてはダメよ。これも平和の為なんだから」
ぐずるアリアを、ドラシェとエリザが必死に宥める。が、アリアは今にも泣きだしそうな顔で両眼に涙を溜めている。いつ落涙してもおかしくない状態だった。
「そうだアリア。アリアの為にお土産を買ってきてたんだ」
「おみやげ……?」
「ああ。アリアの大好きなクマのぬいぐるみだ。それも限定品だぞ?」
「ほんとうっ? ほんとうにっ?」
つい先ほどまで泣きそうだったのが嘘のように、アリアはぴょんぴょんと跳ねながら驚喜してドラシェに詰め寄った。
「本当だよ。さあ、近くにアリアの侍女が待っているから、すぐにお帰り」
「うん。ありがとうお父さま!」
ドラシェの指差す方向へと、アリアが破顔一笑して一目散に駆けていく。その先にはドラシェの言った通りに侍女が控えており、こちらへと視線を向けて会釈した。
アリアが侍女の元へと無事に辿り着いたのを見届けた後、ドラシェは再びエリザと相対する。
そよ風が花弁を攫い、花吹雪となって青空に散る。さながら色付いた雪のように舞う花弁は、ひらひらと風に乗りながら地へと落ちた。
「…………よお」
と。
静穏とした刻が流れる中、エリザはぶっきらぼうに――ともすれば虫の居所が悪そうな面持ちで、そうドラシェに声を掛けた。
対するドラシェはと言うと――
「ひ、久しぶり。え、エリザさん」
と、こちらも態度を一変させて、それまでの泰然とした雰囲気から、にへらと締まりのない笑みを浮かべて挨拶を返した。
「今回もやけに遅かったじゃねぇか。おかげでアリアもめちゃくちゃ寂しがってたぞ」
「ご、ごめんね! 色々と手間取っちゃって……。え、エリザさんも寂しい思いをさせてごめんね?」
「んなっ! 別に私は寂しがってなんかねぇよバカヤローが! 勝手に決め付けんなこんちきしょうめ!」
「そ、そっかあ……」
「――う、嘘だよ! ちょっとは寂しかったよ! だからそんな捨てられた子犬みたいな顔すんな!」
「そ、そっかあ!」
今度はぱあっと笑みを咲かせるドラシェ。何でコイツはこうもコロコロと表情が変わるんだ。しかもまた妙に可愛らしいもんだから反応に困る。萌え殺す気か。
「で、でも本当にごめんね? あんまり会う事ができなくて……」
「それは……ある程度仕方ねぇよ。アリアも寂しがるけど、平和の為に頑張ってんだからさ。私と夫婦になった時にも覚悟していた事だろ?」
エリザとドラシェが正式に夫婦となった日。
その日は二人が夫婦となった事以外に、とある約束を交わした日でもあった。
それは二人の協力の元、竜王の植民地政策をやめさせる事。
ひいては、全ての奴隷を解放し、世界に平和をもたらすという――とても壮大な計画だった。
エリザとドラシェの戦いは、その時から始まったと称して過言ではない。
エリザは主に城内で竜王の動向などを探りつつ、他の竜人の意識改革の為に要人達と会食(その殆どが接待営業みたいなものだ)して自分達の味方を出来るだけ増やせるよう奮闘中。
一方のドラシェは、植民地やまだ侵略されていない人間の国に赴き、奴隷制度の実態や反乱軍の規模や居所などを調査し、場合によっては説得を試みて問題解決に勤しんでいる。
その甲斐あってか、かつての勢いはなりを潜め、竜王の侵攻は年々減少傾向にある。
あるいは竜王も、薄々とこの政策に無理を感じていたのかもしれない。
ドラシェの報告書やエリザが築き上げた横の繋がりによる包囲網が年数と共に竜王にプレッシャーを掛け、彼の意識を多少なりとも改善させるまでにようやく至ったのだ。
ここまで来るのに、決して平坦だったわけではない。
あのエリザが怠け癖を矯正し、ドラシェも上がり症をどうにか克服してここまで来れたのだ。
もっとも、人はそんな簡単に変われるものではない。
エリザは怠け癖こそある程度直したものの、ドラシェと二人っきりでいる時だけ言葉遣いは以前のように崩れるし、隙あらばだらけようとする。仮に次期竜王であるはずのドラシェに肩を揉ませるなどして、超だらけたりするのだ(ドラシェ本人は何故か楽しそうにしているが)。
そのドラシェにしても、普段こそ落ち着いた物腰の好青年と言った感じではあるが、エリザといる時だけは昔のままの内気な性格へと戻る。
それは、エリザとドラシェにだけ許される絶対の流域。
誰も踏み入れる事のできない、二人だけの世界。
互いをよく知っているからこそ――何より信頼し、深い愛で繋がっているからこそ、こうしてドラシェもエリザも素の自分で接していられるのだ。
ドラシェと出会わなければ――そも竜王家に嫁入りしなければ、おそらくエリザは日々を怠惰に暮らし、それなりに満足した生活を送りながらも、空虚な人生を歩んでいた事だろう。
またドラシェも、エリザと出会わななければ、周りの重圧に負けて己を殺し続け、いつしか精神的に参っていた事だろう。
これはきっと、運命だったのだ。
陳腐な言葉かもしれないが、少しお節介な神様が、二人を巡り合わせた奇跡なのだと思う。
エリザは、そう信じている。
「にしてもお前、またすぐどっか行っちまうのかよ。仕事もそりゃ大切だけどよ、ちょっとはアリアの相手もしてやれよな。あれだ、家族サーブってやつだよ」
「さ、サーブしちゃうのっ? 家族をコートに叩き付けちゃうの?」
「ば、馬鹿野郎ちげぇよ! サーフィンって言ったんだよっ!」
「い、言い直したのにまるで訂正されてない……。か、家族を踏み付けてまで波に乗るのはどうかと思うよ?」
「ふんがーっ! こまけぇこたぁいいんだよ! 少しぐらいはアリアと遊んでやれって言ってんだ!!」
「う、うん。家族サービスって言いたかったんだよね?」
羞恥で荒れるエリザとは対象的に、口ごもりながら冷静にツッコミを入れるドラシェ。ぱっと見、二人で漫才をしているようにしか思えない光景だった。
「そ、それに……」
「…………?」
「私の相手もしろよな。じゃないと、さ、寂しいじゃねぇか……」
「エリザさん……」
ぎゅっと軍服の裾を掴むエリザに、ドラシェは愛おしげに微笑んで、その細い肩に両手を添える。
「そ、それじゃあ、お、お散歩でもする? ちょっとだけなら、じ、時間もあるから……」
「本当か!? あ、いや、しょうがねぇなあ。お前がどうしても言うなら、しょうがねぇなあ」
頬を赤く染めて、ツンデレじみた事を言いながら横目で見つめてくるエリザに、ドラシェは可笑しそうにくすりと口許を綻ばせつつ、そっと片手を差し出す。
そんなドラシェの挙動に、エリザはより頬を紅潮させながら、恋愛初心者さながらぎこちなく腕を出し、ドラシェの手を取って指をしっかり絡める。
世界はまだまだ混迷に満ちている。
けれど、二人なら大丈夫。何だってできる。何処へだって行ける。家族のためなら――好きな人と一緒にいる為ならば、どんなにだって頑張れる。
だから――
「そ、それじゃあ行こうか」
「…………おう」
手を繋いだ二人は、互いに熱く目線を交わしながら、花で溢れる自然の絨毯の上をゆっくり歩き始めた。
……A very very happy end!
【ベリーズF大賞用あらすじ】
見た目は完璧。けど中身は粗暴で怠け者な姫、エリザ。城外では優しく気品ある姫を演じているが、城内では年中ベッドで過ごす自分本位な生活を送っているため、エリザの本性を知る者は皆一様にして「怠惰姫」と揶揄していた。
そんなある日、エリザに敵国の王子との婚約話が持ち上がる。それは竜人と呼ばれる世界最強の種族で、もし婚約を断れば、エリザもろとも自国を滅ぼされる危険性があった。
当初は激しく反抗していたエリザも、国を滅ぼされては元も子もないと考えを改め、しぶしぶ敵国との政略結婚を了承する。
そうして、敵国に嫁ぐ事になってしまったエリザ。しかし諦めの悪いエリザは、敵国の婚約者であり、竜人の王子ドラシェを籠絡させる事で、誰にも文句を言われない自堕落な生活を密かに画策するようになる。
しかし、ドラシェの温和な人柄に触れ、次第にエリザはドラシェに好意を持つようになる。
やがて二人の間に愛が芽生え、エリザとドラシェは人間と竜人の仲を取り持った者として、後世に名を残すのであった。