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遺言パスワード~天才ハッカーはあなたの「消したい過去」を整理する~  作者: 伊達ジン


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21/21

第21話 アメリカからの台風

 秋葉原の中央通りは、週末特有の喧騒と熱気に包まれていた。


 メイドカフェの呼び込みの声や、大型ビジョンから流れる電子音。行き交う人々の波を縫うように歩きながら、北村拓巳は傍らを歩くサーシャ・イヴァノヴァへ静かに視線を向けた。彼女のアイスブルーの瞳は、電子部品のジャンク屋や鮮やかな看板が立ち並ぶ街の景色を、まるで初めて見る世界のように珍しそうに見つめている。


 しかし、その歩みには一切の隙がない。着古したレザージャケットの下にあるしなやかな筋肉は常に臨戦態勢を保ち、すれ違う人々の視線や手の動き、重心の移動を、野性動物のような本能で瞬時に選別している。人混みの中で常に壁を背にするような彼女の歩き方は、東欧の裏社会で培われた生存本能そのものだった。


「サーシャ、少し肩の力を抜くといい。今日は偵察でも護衛でもない」


 北村が穏やかな声で告げると、サーシャは少し驚いたように顔を上げた。


「でも、ボス。クロノスの連中、どこから見てるか分からない。私、ボスの盾になる。約束した」

「サーシャのその覚悟には感謝している。サーシャが話してくれたネオ・サイバー社での証言のおかげで、俺たちはついに敵の中枢を捉えることができた。だからこそ、今は次に備えて呼吸を整える時間が必要なんだ」


 北村は足を止め、路地裏にある小さなクレープ屋の前に立った。香ばしいバニラと焦がしバターの匂いが漂ってくる。ガラス張りのショーケースには、色とりどりの食品サンプルが並んでいた。


「こういうものは好きか?」

「……こういうの?」

「ああ。桜子が好物でね、たまにここで買っていくんだ。サーシャもどうだ」


 サーシャは戸惑いながらも、ショーケースを見つめた。裏社会の冷たい缶詰と硬いパンで育ってきた彼女にとって、それは見慣れない別世界の食べ物だったのだろう。北村は彼女の視線が一番長く留まった、イチゴとホイップクリームがたっぷりと乗ったものを選び、自分の分のブラックコーヒーと一緒に注文した。


 受け取ったクレープを手渡すと、サーシャは両手で大切そうに持ち、そっと端を齧った。途端に、彼女の張り詰めていた表情がふわりと緩み、年相応のあどけない笑顔がこぼれる。


「美味しい。すごく、甘い」

「口に合ってよかった」


 北村はコーヒーを一口飲み、街角の喧騒に紛れるように彼女を道の内側へと誘導した。


 三年前の雨の夜。相棒の健太を奪った罠の一部を、彼女は無知ゆえに担ってしまった。その事実を告白した時の彼女の震えを、北村は忘れていない。罪悪感に押し潰されそうになっていた彼女を、安田つくしが許し、前へ進む決意を共にした。


 だからこそ、北村は彼女をただの戦闘の駒として扱うつもりはなかった。物理的な防壁として彼女の能力は不可欠だが、それ以前に一人の人間として、この街の平穏を知ってほしかったのだ。


「ボス、これ、もしかしてデート?」


 クレープを頬張りながら、サーシャが上目遣いで尋ねてきた。


 北村は微かに口角を上げた。


「ただの息抜きだ。だが、サーシャがそう呼びたいなら構わない」

「ダー! 私、デート好き。ボスの隣、一番安全で、一番安心する」


 サーシャは花が咲いたように笑い、北村の腕に自分の細い腕を絡ませてきた。周囲の通行人が、金髪の可憐な外国人と歩く北村を好奇の目で見るが、彼は気に留めることなく、彼女の歩幅に合わせて静かに歩き出した。


 戦いの合間に訪れた、束の間の平穏。

 しかし、その平穏は事務所の扉の前に立った瞬間に終わりを告げた。


「……ボス、止まって」


 サーシャの声が一段低くなり、北村の腕に添えられていた手が即座に離れた。彼女の視線は、錆びついた事務所のドアノブに釘付けになっている。


 鍵が、開いている。


 北村の事務所は、オートロックなどの電子的な防壁ではなく、物理的なシリンダー錠を採用している。ネットワークから完全に切り離された物理錠こそが、外部からのハッキングに対する最高のセキュリティだからだ。桜子やつくしが訪ねてくる予定はない。そして桜子は、どれほど作業に熱中していようと、このドアの鍵を開け放つほど無用心ではない。


 北村は無言で頷き、サーシャを自身の背後へと下がらせた。彼自身は丸腰だが、いざという時にシステムのメイン電源を落とすためのリモートスイッチをパーカーのポケットの中で握りしめる。


 ゆっくりとノブを回し、ドアを押し開けた。


「オーライ、じゃあそのマザーボードの配列は、計算し尽くされた熱効率を優先してああいう形になってるってわけね。クレイジーだけど、最高に理にかなってるわ!」

「でしょ!? やっと分かってくれる人が現れたよー。ボスなんて、動けばいいって感じで全然この基板の美学を分かってくれないんだから。私が徹夜で組んだ回路の美しさをさあ」


 室内から聞こえてきたのは、陽気な英語混じりの日本語と、桜子の弾むような笑い声だった。


 北村が静かに部屋に入ると、作業デスクの前で桜子と談笑している見知らぬ女性の姿があった。


 豊かなウェービーヘアは赤毛交じりのブロンドで、七十年代を思わせる少しレトロでボヘミアンな柄のブラウスに、着古したジーンズを合わせている。年齢は三十歳前後だろうか。その全身から、好奇心と知性が弾けるようなエネルギッシュな生命力が溢れ出していた。


 北村の足音に気づくと、彼女は立ち上がり、大きな瞳を輝かせて振り返った。


「ヘイ、凄腕ハッカーボーイ! 帰りが遅かったじゃない。可愛い彼女とデートを楽しんでたの?」


「君は誰だ。どうやってここに入った」


 北村の低く落ち着いた問いかけに、女性は悪びれる様子もなく肩をすくめた。


「鍵ならそこの天才エンジニアガールが開けてくれたわよ。私はクロエ。クロエ・ウォーカー。フリーのジャーナリストよ」

「ボスの留守中にドアの前でうろうろしてるから警戒したんだけどさ」


 桜子が立ち上がり、少し興奮した様子で北村に説明を始めた。


「彼女、ドア越しに私が組んだシリンダーの熱効率にノック音だけで気づいたんだよ? 鍵穴の微細な反響音から、内部のピンの素材と配置まで言い当てたの。タダ者じゃないと思って、話を聞いてみようと入れちゃった」


 サーシャが北村の前にスッと立ち塞がり、凍てつくような視線でクロエを睨みつけた。


「この女、隙だらけ。でも、目、笑ってない。警戒する」

「ワーオ、可愛いボディガードね。安心して、武器なんて持ってないわ。私の武器はこれだけ」


 クロエは自分のこめかみを人差し指でトントンと叩いた。


「どうやってここを見つけたのかと聞いたんだが」


 北村はサーシャの肩に軽く手を置いて制し、クロエの目を真っ直ぐに見据えた。


 警視庁のサイバー犯罪対策課でさえ、北村の居場所を特定するのには手間取ったはずだ。ネットワーク上の痕跡は完全に消去している。


「ハッキングなんて野蛮な真似はしてないわよ。私はOSINT(オープンソース・インテリジェンス)の専門家なの。世界中のネット上に転がってる、誰も気に留めない事実の欠片――SNSの何気ない位置情報、衛星写真の微かな変化、不動産登記の公開記録、それから……数年前に警視庁を辞めたあるエリート捜査官の、趣味嗜好から導き出される行動圏」


 クロエは流暢な日本語で、しかし興奮を隠しきれないように早口で語った。


「それらを繋ぎ合わせれば、あなたが秋葉原のこのジャンク街の片隅に潜んでいることくらい、合法的に導き出せるわ。例えば、あなたのご用達のクレープ屋さんの周辺で、特定の時間に監視カメラの死角を歩く長身の男性。そして、近隣の電気代の異常な消費量を示す特定の雑居ビル。すべて公開情報よ。パズルを組み立てるようなものね」


 北村の眼差しが、微かに細められた。

 サイバー空間の深淵に潜り、ファイアウォールの裏側から隠された真実を引きずり出す自分とは全く逆のアプローチだ。現実世界の公開情報という広大な海に網を張り、微小なデータの繋がりから標的を炙り出す技術。


「ジャーナリストが何の用だ。俺は取材を受けるような身分じゃない」

「取材じゃないわ。交渉よ」


 クロエは一歩踏み出し、その瞳に宿る真剣な光を北村に向けた。


「私、元々はアメリカのネットワーク局で記者をやってたの。でも、ある巨大IT企業の不正資金の流れを追っていたら、上層部から圧力がかかって事実上の追放処分。口座まで凍結されかけて、会社をクビになって、単身日本にやってきたわ」

「そのIT企業が、ネオ・サイバー社と繋がっていると言いたいのか」


 北村の言葉に、クロエは満足そうに口角を上げた。


「話が早くて助かるわ。そう、彼らの背後にいるのは『クロノス』よ。アメリカの政財界にも深く根を張っている、顔のない怪物。あなたが三年前の事件で追い続けている連中と、私が追っている連中は同じなの」


 クロエは自分のバッグから分厚いファイルの束を取り出し、北村のデスクの上に置いた。


「あなたがサイバー空間で引きずり出した彼らの不正データを、私が現実のメディアと世論を使って『合法的なスクープ』としてロンダリングする。あなたには強力な拡声器が必要でしょう?」


 北村はデスクの上のファイルを一瞥し、再びクロエの目を見た。


 ファイルには、彼女が独自に収集したであろうネオ・サイバー社の海外におけるダミー法人のリストや、不審な資金移動の記録がびっしりと書き込まれていた。どれも公開情報から自力で手繰り寄せた形跡がある。どれだけ脅されても決して引き下がらない、真実を追い求める者特有の強靭な意志。巨大な権力によってすべてを奪われながらも、単身で海を渡り、ここまで辿り着いたその図太さ。


 警察組織の壁に阻まれる安田つくし、裏社会の情報網を持つ平田雪穂、法的防波堤となる岩田夏美。これまでのチームに欠けていた最後のピース。それは、国境を越えて大衆を動かす「メディア」という力だった。彼女の言葉に嘘はない。観察と判断が、北村の内で一つの結論を導き出した。


「……いいだろう」


 北村が静かに答えると、サーシャと桜子が同時に驚きの声を上げた。


「ボス、正気?」

「いいの、ボス? 腕は立ちそうだけど、かなり強引な人だよ?」


 北村は小さく息を吐き、クロエに向かって僅かに頷いた。


「俺たちが追う敵は、すでに国内の警察組織すら手出しできない領域にいる。クロエの言う通り、世論という現実の力が必要になる局面は必ず来る。俺のサイバー空間の解析と、クロエのOSINTの網を組み合わせれば、クロノスの仮面を完全に引き剥がせる。クロエの網とペンを、このチームに迎え入れよう」

「サンキュー、ハッカーボーイ! 最高のチームになりそうね!」


 クロエは屈託なく笑い、北村に向かって右手を差し出した。


 北村はその手をしっかりと握り返した。


「北村拓巳だ。ボーイと呼ぶには少し薹が立っているがな」

「オーケイ、タクミ。これからよろしくね。さあ、アメリカからの台風が、日本の停滞した空気を吹き飛ばしてあげるわ!」


 エネルギッシュなクロエの笑い声が、焦げたフラックスの匂いが染み付いた事務所に響き渡る。


 サーシャが不満げに鼻を鳴らし、桜子はやれやれと肩をすくめた。

 北村は静かにモニターへ視線を戻す。


 秋葉原の雑居ビルに、新しい風が吹き込んでいた。

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