第20話 引き裂かれた過去
メインモニターの向こう側で、巨大な権力と悪意の城が音を立てて崩れ落ちていく。
星野美雨を死に追いやった所属事務所社長の黒田、そして彼の背後にいた郷田副大臣。北村拓巳が構築したスクリプトは、彼らの裏帳簿や不法行為の証拠を、深夜のネット空間から報道機関のサーバーまで、あらゆる場所へ一斉に拡散させた。SNSのタイムラインは義憤に駆られた人々の声で埋め尽くされ、ニュースサイトは競うように速報を打ち出している。もはや誰にも止めることはできない。トカゲの尻尾切りを目論んでいた郷田も、彼に切り捨てられて自暴自棄になった黒田も、今頃は押し寄せる警察とメディアの波に完全に呑まれているはずだ。
すべてのタスクが「Complete」を示す緑色の文字に変わったのを確認し、北村は静かに息を吐き出してキーボードから手を離した。
事務所の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。機材部屋の奥にある合皮のソファでは、徹夜でデータの物理的保全に努めた服部桜子が、ブランケットにくるまって深い眠りに落ちている。いつも首にかけている派手なヘッドホンは傍らに置かれ、パッツン前髪の下からは規則正しい寝息が漏れていた。足元の段ボール箱にいる子猫のスミも、丸くなって小さな腹を上下させている。
北村はキャスター付きの椅子を後ろに下げ、デスクの脇でいつものもろみしぼり酢をグラスに注いだ。小皿から波照間島産の黒糖の砕片をつまんで口に含み、もろみ酢の強い酸味で一気に流し込む。強烈な甘みと酸っぱさが、酷使された脳の疲労をじんわりと解きほぐしていった。張り詰めていた神経が緩むのを感じながら、北村は静かに目を閉じた。
「ボス」
部屋の隅でタクティカルナイフの手入れをしていたサーシャ・イヴァノヴァが、音もなく立ち上がり、北村の傍らへ歩み寄ってきた。彼女のアイスブルーの瞳は、任務を終えた安堵よりも、次なる警戒の色を強く帯びていた。
「どうした、サーシャ。君も少し休むといい。当面の危機は去った」
北村が穏やかな声で労うと、サーシャは小さく首を横に振った。
サブモニターの隅では、クロノスが残した赤いデジタル数字が、秒針のない時計のようにただ冷たく明滅を繰り返している。郷田と黒田を社会的に抹殺したことで、資金源の一つを絶つことには成功した。だが、それは同時に、巨大な闇の組織『クロノス』の中枢を本気で怒らせたことを意味する。
「あ~。奴らは必ず報復に動く。だからこそ、今は少しでも体力を回復させておく必要がある」
北村がグラスを置いたその時、錆びついた事務所のドアが、控えめに、しかし確かな意思を持ってノックされた。
「入っていい。鍵は開いている」
北村の言葉に応じ、ドアがゆっくりと開く。
そこに立っていたのは、安田つくしだった。
いつものネイビーのパンツスーツは僅かにシワが寄り、目の下には隠しきれない疲労の影がある。雨上がりの湿った空気と、張り詰めた警察署内の喧騒の残り香を纏っているようだった。しかし、その瞳に宿る光は、以前のような迷いや苛立ちではなく、静かで澄んだ決意に満ちていた。
「郷田と黒田の身柄は、先ほど捜査二課と特捜部が動いて確保したわ。あなたのばらまいたデータのおかげで、彼らは言い逃れすらできない状態よ」
つくしは事務所に入り、ドアを静かに閉めた。ヒールの音がコンクリートの床に響く。
「警察機構も忙しい朝を迎えたようだな。つくしも不眠不休だろう。少し掛けてくれ」
北村はパイプ椅子を勧め、新しい紙コップにミネラルウォーターを注いで彼女の前に置いた。つくしは「ありがとう」と短く応え、コップを両手で包み込むようにして座った。冷たい水で喉を潤す彼女の横顔を、北村は静かに見守る。
「……でも、ネオ・サイバー社には届かなかった」
つくしはコップを見つめたまま、絞り出すように言った。その声には、巨大な壁を前にした徒労感が滲んでいた。
「黒田の裏帳簿にあったネオ・サイバー社への資金ルート。あれだけ明確な証拠があるのに、上層部は『証拠の信憑性に疑問がある』として、ネオ・サイバー社への捜査令状を却下したわ。郷田個人の汚職として、すべてを矮小化しようとしている」
「想定の範囲内だ」
北村は落ち着いた声で返した。
「クロノスの根は深い。警察組織のルールの中だけで戦おうとすれば、必ず見えない壁に阻まれる。彼らは法という盾を最も狡猾に利用する連中だ。大林の遺言状偽造の時と同じようにな」
つくしは唇を噛み締め、北村を真っ直ぐに見上げた。
「ねえ、北村。ネオ・サイバー社が、クロノスの日本における中枢だと考えて間違いないのね?」
「確証はない。だが、奴らの資金の流れ、そして大林の遺言状を偽造した手口。すべてがそこへ繋がっている」
二人の会話を静かに聞いていたサーシャが、不意に一歩前へ出た。コンバットブーツが床を擦る小さな音が、部屋の空気を変える。
「私、確証、持ってる」
その言葉に、北村とつくしの視線が同時にサーシャへ向いた。
サーシャは真っ直ぐにつくしの目を見つめ返し、静かに口を開いた。
「私、クロノス逃げる前、ネオ・サイバー社の地下、サーバールーム入った。セキュリティの線、バイパスする仕事。その時、ある男、見た」
「男?」
つくしが身を乗り出す。紙コップを持つ手に力が入るのが見えた。
「背が高くて、氷みたいな目の男。会社の偉い人たち、みんなその男に逆らえない。彼、私に命令した。『システムにネズミが入った。全部のドア、ロックしろ』って」
北村の表情が、微かに、しかし確かに強張った。
グラスへ伸びかけていた手が止まり、室内の空気が一瞬にして凍りつく。サーバーの排気音すら遠のいたような錯覚に陥った。
「それは……いつの話だ、サーシャ」
北村の声は、ひどく低く、張り詰めていた。
「三年くらい前。雨、すごく強い夜。私、言われた通り配線ショートした。ドア、ロックした。そのあと、上で爆発、火が出た。私、怖くて、すぐ逃げた」
つくしの手から紙コップが滑り落ちそうになり、彼女は慌てて両手で握り直した。水面が激しく波打ち、数滴が彼女の膝に落ちたが、彼女は気にする素振りも見せなかった。
三年前の雨の夜。
不正アクセスを追ってアジトに突入し、電子錠で閉じ込められたまま焼夷弾の炎に巻かれて命を落とした、安田健太。
その現場のドアを物理的にロックし、彼を死の罠に陥れたのは、目の前にいる少女の無知な手引きによるものだった。そして、その指示を下した黒幕が、ネオ・サイバー社の中枢にいる。
息が詰まるような沈黙が落ちた。
サーシャは自分の告白が持つ意味の重さに気づき、顔を青ざめさせて北村とつくしを交互に見た。かつて裏社会で生き抜いてきた彼女でさえ、今、この部屋に渦巻く感情の奔流には耐えきれないようだった。
「私……ごめんなさい。あの時、それ、どうなるか分からなかった。命令、聞かないと、私、殺されると思った……」
サーシャの声が微かに震える。
つくしは、俯くサーシャをじっと見つめていた。その瞳には、一瞬だけ激しい感情の波が渦巻いた。兄を奪われた悲しみ、怒り、そして目の前の少女へのやり場のない思い。だが、やがて彼女は深く、静かに息を吸い込んだ。肺の奥深くまで空気を送り込み、感情の波を理性で押さえ込むように。
「あなたを責めるつもりはないわ、サーシャ」
つくしの声は、驚くほど穏やかだった。
「あなたはただ、道具として利用されただけ。本当に裁かれるべきは、あなたにその指示を出した人間よ」
つくしは立ち上がり、北村の方へ向き直った。
彼女の背筋は真っ直ぐに伸び、そこには迷いも葛藤も存在していなかった。あるのは、一人の警察官としての、そして一人の人間としての確固たる決意だけだ。
「北村」
「……なんだ」
「私はずっと、あなたのやり方を否定してきた。法を無視し、闇の中で私刑を下すような真似は間違っていると。でも……警察のルールを守り続けても、兄の命を奪った真犯人には決して届かない。彼らは、私たちの正義が届かない場所から、私たちを嘲笑っている」
つくしは一歩、北村へ近づいた。
「私は警察官のバッジを捨てる気はない。この立場だからこそ守れる命があり、できることがあると信じているから。でも、それだけじゃ足りない。兄の無念を晴らし、これ以上彼らに人生を奪われる人をなくすためには……」
彼女は真っ直ぐに北村の目を見据えた。
その瞳の奥には、かつて北村が共に背中を預けた、あの相棒と同じ、決して折れない強い光が宿っていた。
「私を、あなたの戦いに加えて。法が届かない闇を、あなたが撃ち抜くなら。私は、光の側から彼らの逃げ道を塞ぐ。警察の枠を超えて、あなたと共に真実を暴きたい」
それは、ただの協力要請ではない。
自身のキャリア、人生、そして命さえも賭けるという、切実な誓いだった。
北村は静かに立ち上がった。
彼女の抱える地獄の深さを、誰よりも知っている。警察官としての誇りが彼女にとってどれほど重いものかも。だからこそ、この道がどれほど過酷で、戻れない道であるかも理解していた。
「この先は、取り返しのつかない領域だ。警察官としての君のキャリアも、命の保証もない。……それでも来るか」
「ええ。もう、立ち止まらないと決めたから」
つくしの声に揺らぎはなかった。
北村は彼女の決意を、正面からしっかりと受け止めた。彼の心の中で、三年間燻り続けていた後悔の灰が払われ、確かな熱が宿っていくのを感じた。
もう、一人で暗闇を彷徨う必要はない。
「分かった」
北村は短く答え、静かに手を差し出した。
「つくしの背中は、俺が守る」
つくしはその言葉の重みを噛み締めるように頷き、北村の手に自身の手を重ね、強く握り返した。
その掌の確かな温もりが、互いの孤独を埋め、新たな力を生み出していく。
傍らで見ていたサーシャも、安堵したように小さく息を吐き、姿勢を正した。
「私、ボスの盾になる。つくしのことも、守る」
「頼もしいな。だが、無茶はするなよ」
北村は微かに口角を上げ、モニターへと視線を戻した。
モニターの隅で、[ 44:15:32 ] の赤いデジタル数字が無機質に瞬いている。
だが、その赤が照らし出すのは、もはや過去の亡霊に怯える孤独なハッカーの姿ではない。
「準備を急ごう。クロノスの中枢へ、反撃の狼煙を上げる」
キーボードに置かれた北村の指先が、次の標的を暗闇から引きずり出すため、再び静かな、しかし確かな打鍵音を響かせ始めた。
窓から差し込む朝の光が、北村の鋭い横顔と、その背後に立つつくしとサーシャの影を、冷たい青から暖かな金へと静かに塗り替えていく。




