プロローグ・運命の夜・1
【本作を読む前に】
本作には主人公になる前の悪役令嬢による幼い頃の義弟への残酷な行い(尊厳を踏みにじるような夜の出来事)が背景としてあります。
直接的な描写は避けていますが、ダークな設定や歪んだ関係が苦手な方はご注意ください。
悪役令嬢ものというジャンルがある。
それは普通の現代人女性がヒロインや攻略対象をいじめる憎まれ役の悪役令嬢になって、バッドエンドを回避するというものだ。
ただしそれらの作品の行きつく先の多くは、シンデレラ時代から変わらない。
『お姫様は苦労の末に素敵な王子様と結ばれて末永く幸せに暮らしましたとさ』
女性向け作品において、愛する人との結婚は苦難の終わりを意味する。
でも私デボラ・イヴルハイド公爵夫人の破滅は、結婚から五年後、娘のクレアを授かってから起きた。
「――すみません、デボラ様。実はそれ、ただの栄養剤じゃないんです」
夜、イヴルハイド邸の主寝室。「最近元気が無くて心配だから」と夫が用意してくれた栄養剤。
茶色の小瓶に入った液体を飲んで急激な睡魔に襲われた私に、夫の指示で栄養剤を持ってきた彼女はニヤニヤと告げる。
「あなたの亡くなったお母様が飲んだのと同じ。眠るように死ねる毒ですよ」
彼女の言うとおり、デボラの母は子どもの頃に服毒死していた。苦痛なく命を絶てるからと、永遠の安らぎを求める上流階級がよく自死に用いる毒で。
「ど、どうしてあなたが……?」
薄れゆく意識の中、弱々しく問う私に、彼女は勝ち誇った表情で動機を明かす。
「ルディオン様に頼まれたんです。私たちが結婚するのに、あなたは邪魔だからと。娘がいれば公爵の地位は守られるから、あなたはもう不要だと」
結婚? 彼女とルディが?
ルディことルディオンは私の夫であり、イヴルハイド家の現当主だ。しかし彼が公爵になったのは、イヴルハイド家の一人娘である私と結婚したから。
この国の法では子どもができる前に配偶者が亡くなれば、夫も妻もその家と縁が切れる。つまりそれまでの地位を失い家から追い出される。
けれど本家の血を引く子が生まれた後なら、配偶者の死後も跡継ぎの親として家に残れる。
だから彼女たちは娘が生まれたタイミングで、不要になった私に毒を飲ませたと言う。
外見的にはヒロインよりも美しいその他の悪役令嬢と違い、見目まで悪いデボラと永遠に縁を切るために。
その事実を聞いて、私はどんな顔をしたのだろう?
彼女は床にうつ伏せに倒れた私を見下ろしてクスクスと笑う。
「そんなに意外ですか? ああ、あなたは自分がいちばんルディオン様を分かっていると驕っていらっしゃいましたからね」
そんなつもりはなかったけど、ルディとは彼が十二歳の頃からの付き合いだ。さらに私は読者として原作の彼も知っている。そのせいで確かに、彼を理解している気になっていたかもしれない。
考えている間にも彼女は話を続ける。
「ですがルディオン様は、いつも陰で私に零していらっしゃいましたよ。子どもが必要だから仕方なく相手してきたけど、本当はあなたのような愚鈍で冴えない女、見るだけで吐き気がするほど嫌いだと」
ルディオンは銀糸のようなサラサラの短髪に、宝石のような水色の瞳を持つ美青年だ。陶器のように白い肌には、二十三歳になった今もシミや肌荒れ一つ無い。
恵まれた容姿もさることながら、彼は文武両道かつ水魔法の天才だった。
対する私は顔どころか胸元や背中にまでそばかすが散り、それを隠すために化粧をすれば、一瞬で肌が荒れる不美人。得意なのは料理と編み物くらいで、他は全てにおいて凡庸だった。
初めて出会ってから今日まで、宝石のような彼と石ころのような自分が、お似合いだと思えたことはなかった。
それでも私は時にヒロインにでもなったみたいに、彼の戯れに赤くなったり、ときめいたりしていた。
私のように冴えない女が色恋に翻弄される姿は、どんなに滑稽だっただろう?
その疑問に答えるように、彼女は私への嘲笑を続ける。
「そうとも知らず『彼は純粋な人だから』なんて。分かった気になって彼を擁護して。あまりに滑稽で噴き出さないようにするのが大変でした」
そして最後に、
「では永遠にご機嫌よう。憐れなデボラ様」
と告げて、床に倒れた私の顔の近くに手紙を置いて立ち去った。
二つ折りにされた便箋の隙間から覗いた文字は、私の筆跡と同じだった。
だとすればこれは遺書だろう。私が母と同じ毒で自ら死んだと見せかけるための。
生まれたばかりの娘を、クレアを残して死ねない。
しかし意志とは裏腹に意識は遠のき、抗いようなく瞼が落ちそうになる。
頬に冷たい大理石を感じながら、死の眠りにつこうとする私のもとに、再び誰かがやって来た。
男性用の靴から辿るように顔を見上げると、その人物はルディオンだった。
彼は仕事で数日、家を空けると言っていたのに。でもそれすら嘘で、私の死に様を見に来たの?
妻が床に倒れているのに慌てもしないのは、彼がこの展開を予期していた無言の証明だった。
私は最後に残された力でルディオンを見上げると、
「わ、私のことは憎んでいいから……あの子だけは嫌わないで……」
と泣きながらクレアの無事を願った。
もし私がもっとうまく立ち回れていたら、こんな結末にはならなかったのだろうか?
後悔とともに初めてデボラとして目覚めた日を思い出す。
ただあそこからやり直せたとしても、ルディオンに憎まれないことは不可能だっただろう。
そのくらい私の異世界生活は最初から詰んでいた。




