光の底、深淵の蓋
痛い、とか。悔しい、とか。
そういう安っぽい言葉では、私の喉の奥から溢れ出る泥のような感情を説明することはできなかった。
「——罪人エルシア。お前が悪魔と内通し、我が王国の至宝たる聖杯の力を貶めようとした罪、もはや言い逃れはできぬ」
大聖堂の天井は恐ろしいほどに高かった。
純白の漆喰で塗られた壁には、何百枚ものステンドグラスが嵌め込まれ、そこから差し込む陽光が、私の視界を白々しく焼き尽くしている。
大理石の床は冷たい。そこに両手両足を鎖で縛られ、這いつくばらされているのが、今の私の姿だった。
つい数日前まで、私はこの国の「第一聖女」と呼ばれていた。
生まれながらに強大すぎた私の聖力は、この国を囲む悪意に満ちた霧を払い、作物を実らせ、人々の病を癒やすための道具だった。
毎日、指先がひび割れ、聖力を絞り出しすぎて意識を失うまで、私は神に祈り続けた。それが私の義務であり、誇りであり、そして——隣にいる婚約者のためだと信じていたからだ。
「レイナルド……様……」
私は掠れた声で、祭壇の上に立つ男の名を呼んだ。
金糸の刺繍が施された豪奢な礼服を纏い、腰に国宝の聖剣を帯びた、我が婚約者。第一王子レイナルド。
かつては、私の荒れた手を優しく包み込み、「君の犠牲の先に、我が国の未来がある」と囁いてくれた男だ。
だが今、彼の美しい碧眼に見開かれているのは、底冷えするような侮蔑と、一抹の忌ましさだけだった。
「気安く私の名を呼ぶな、魔女め。お前の欺瞞には、吐き気がする」
レイナルドの声は、大聖堂の静寂に冷たく響き渡った。
彼の傍らには、一人の少女が寄り添っている。私の異母妹である、ミリアムだ。
ミリアムは怯えたようにレイナルドの腕にしがみつきながら、その潤んだ瞳で私を見下ろしていた。
「お姉様……どうしてあんな恐ろしいことをされたのですか? 悪魔と契約し、この私を呪い殺そうとするなんて……。私、お姉様を本当の姉のように慕っていましたのに……っ」
ぽろぽろと零れ落ちる、真珠のような涙。
実に見事な演技だった。大聖堂に集まった高位貴族や司教たちが、一斉にミリアムへ同情の眼差しを向け、私に対しては激しい敵意の視線を突き刺す。
すべては、仕組まれた泥芝居。
生まれつき聖力を持たず、日陰者として育ったミリアムが、ある日突然「奇跡の癒やし」の力に目覚めた。いや、目覚めたのではない。彼女は私の部屋から盗み出した、聖力を強制的に転移させる禁忌の魔道具を使っていたのだ。
私がその事実に気づいたときには、すでに遅かった。
ミリアムはレイナルドの寝所に忍び込み、その身体と引き換えに彼を味方につけていた。そして、用済みとなった「疲れ果てた聖女」である私に、悪魔と通じたという偽の証拠を突きつけたのだ。
「言い訳があるなら聞こう、エルシア。なぜ、ミリアムを害そうとした。なぜ、国を裏切った」
レイナルドが冷酷に問いかける。
私は乾いた唇を震わせ、必死に言葉を紡ごうとした。
「私は……裏切ってなど……いません……。ミリアムが、私の聖力を……王国の結界を維持するための力を、奪って……」
「黙れ!!」
地を這うような私の声は、レイナルドの怒号によって容易く掻き消された。
「まだ見苦しく嘘を重ねるか! お前の部屋からは、悪魔の血で書かれた契約書と、禁忌の呪い人形が見つかっている。ミリアムの衰弱は、お前がかけた呪いのせいに他ならない。彼女はお前の嫌がらせに耐えながらも、健気に国のために祈り続けていたのだぞ!」
違う。ミリアムが衰弱しているように見えるのは、私の聖力を過剰に摂取し、その強大すぎるエネルギーに彼女の貧弱な肉体が耐えきれていないだけだ。
だが、誰一人として私の言葉に耳を傾ける者はいない。
ここにいる全員が、すでに「答え」を決めているのだ。
過酷な祈りの義務に疲れ果て、肌の血色を失った私よりも。
若く、美しく、男たちの庇護欲をそそる、新しい「奇跡の聖女」を求めている。
そして何より、王家にとって私は「英雄になりすぎた」のだ。民衆が王よりも聖女を称える現状を、レイナルドや国王が快く思うはずがなかった。私を合法的に排除し、王家のコントロール下にお行儀よく収まるミリアムを新たな象徴に据える。
それが、彼らの真の目的だった。
「これ以上の審議は無用。神聖なる我が王国において、悪魔の足跡を遺すことは許されん。……大司教、儀式を」
レイナルドが冷たく手を挙げると、大司教が重々しく頷いた。
大司教の背後から、黒い法衣を着た神官たちが、いくつかの不気味な道具を持って近づいてくる。
それを見た瞬間、私の背筋に凍りつくような恐怖が走った。
それは、通常の処刑道具ではない。
「エルシア。お前のその忌まわしき『聖力』は、悪魔から与えられた不正な力だ。神の光を冒涜したお前には、それに相応しい罰を与える」
レイナルドが冷酷に微笑んだ。その笑みには、私という存在を完全に消し去るという、確固たる悪意が宿っていた。
「お前は生贄となるのだ。我が王国の地下深く、世界の裂け目たる『大奈落』の封印を維持するためのな」
息が止まった。
大奈落。
この世界の底にあると言われる、光が一切届かない絶対の闇。かつて神々が、世界を滅ぼしかけた異形の怪物や旧き神々を封じ込めたとされる、生きては戻れない極夜の深淵。
そこに、生贄として落とされる。
「待って……お待ちください、レイナルド様! 私が、私がどれだけこの国のために……っ!」
「五月蝿い。その汚らわしい口を閉じろ」
神官たちが私を組み伏せた。
鎖が激しく擦れ合い、大理石に私の血が飛び散る。
一人の神官が、怪しく紫色の光を放つ液体の入った小瓶を取り出した。
「聖力を暴走させぬよう、まずはその声を封じる。……飲ませよ」
「いや……嫌……っ、放して!」
頭髪を掴まれ、無理やり上を向かされる。
私の口がこじ開けられ、冷たい、どろりとした液体が喉奥へと流し込まれた。
——熱い。
次の瞬間、内臓を直接火にかけられたような、凄まじい激痛が私を襲った。
「あ、が……っ!? ぁ……あ……っ!!」
喉が焼ける。声帯が、肉が、じゅくじゅくと音を立てて融解していくのが分かった。
声にならない悲鳴が、大聖堂の天井に虚しく吸い込まれていく。
涙と、血混じりの唾液が溢れ、床を汚した。私の声は、完全に奪われた。
だが、彼らの残酷さはそれだけでは終わらない。
「次に、神聖なる力を悪用できぬよう、四肢の自由を奪う」
大司教の合図とともに、二人の神官が細く、鋭い銀のメスを構えた。
彼らは私の手首、そして足首の皮膚を容赦なく切り裂き、その奥にある『腱』を、的確に断ち切っていった。
「っーーーーーーーーー!!」
声が出ない。だから、叫びをあげることもできない。
ただ、白目を剥くほどの痛みに、私の身体が魚のように跳ねるだけだった。
プツン、プツンと、私の身体の中で、何か大切な繋がりが切れていく感覚。
指先が冷たくなり、足の感覚が消えていく。私はもう、自分の意志で立ち上がることも、何かを掴むこともできない、ただの『肉の塊』に成り下がった。
床に転がる私を、ミリアムは愉悦に満ちた目で見つめていた。
彼女の唇が、声を出さずに動く。
(さようなら、お姉様。あなたの席は、全部私のものよ)
レイナルドは、そんな彼女の肩を優しく抱き寄せ、私には目もくれずに言い放った。
「連れて行け。奈落の蓋を開けろ」
────
私は引きずられていた。
引きずられる私の身体が床に遺していく赤黒い一筋の線が、大理石の白さを汚していく。
どれだけの階段を下りただろうか。
王宮の地下、さらにその奥。かつて初代国王が世界の裂け目に築いたという、禁忌の儀式場。
空気は次第に冷たくなり、地上の陽光の暖かさは完全に消え失せた。漂うのは、濃厚な死の臭いと、湿ったカビの気配だけだ。
やがて、神官たちは私を巨大な円形の空洞の前で放り出した。
そこは、底が見えないほど深い、文字通りの『穴』だった。
下を覗き込んでも、ただ純粋な、底なしの暗黒が広がっている。吸い込まれそうなほどの重力が、そこから立ち上っていた。
大司教が古めかしい呪文を唱え始める。
穴の周囲に刻まれた魔法陣が、鈍く血のような赤色に発光し始めた。
これが、大奈落の封印を維持するための生贄の儀式。強大な聖力を持つ者を、生きたままこの闇に叩き落とすことで、封印の楔とするのだ。
動かない身体。焼かれた喉。
私はただ、涙で歪む視界の中で、呪文を唱える大司教たちの足元を見つめることしかできなかった。
神様。
私は何か、悪いことをしたでしょうか。
毎日、あなたに祈りを捧げました。自分の身体が壊れても、人々の幸せを願いました。
その結果が、これなのですか?
これが、あなたの言う『正義』なのですか?
大司教の呪文が最高潮に達した。
私の身体を縛っていた鎖が、ひとりでに解け、魔法の力によって私の身体が宙に浮き上がる。
穴の真上へと、移動させられる。
下を見れば、ただ、闇。
すべてを拒絶し、すべてを貪り尽くす、漆黒の深淵。
「神の御加護が、我が王国にあらんことを。……落ちよ」
大司教の冷徹な声とともに、私を支えていた不可視の力が消えた。
私の身体は、重力に従って、まっさかさまに暗闇へと落下していった。
地上のはるか上方、円形の穴の淵から見下ろす神官たちの姿が、急速に小さくなっていく。
やがて、そのわずかな光さえも、巨大な鉄の蓋が閉まるように、完全に閉ざされた。
完全な闇。
風を切る音が、私の耳元でゴウゴウと鳴り響く。
手足は動かず、声も出ず、ただ落ちていくだけの恐怖。
どこまで落ちれば底に着くのか、あるいはこのまま永遠に落ち続けるのか。
死の恐怖が、私の心を狂わせようとする。
いや、死ぬこと自体は、もう恐怖ではなかったかもしれない。
私を支配していたのは、もっとドロドロとした、濁った感情だった。
レイナルド。ミリアム。
私を裏切ったあの国の人々。
私のすべてを搾取し、都合よく使い捨てた、あの光の世界。
許さない。
絶対に、許さない。
もしも私がここで死に、幽鬼となって這い上がれるなら、彼らの肉を一人ずつ剥ぎ取り、私と同じ痛みを、いや、その万倍の絶望を与えてやる。
光など、クソ喰らえだ。
神など、最初からいなかったのだ。
——ドサッ。
どれほどの時間が経っただろうか。数分か、数時間か、あるいは数日か。
私の身体は、ついに『底』へと激突した。
凄まじい衝撃。
骨が砕ける不快な音が、暗闇の中に響いた。
本来なら、この高さから落ちれば、肉片ひとつ残さずに即死しているはずだった。
だが、皮肉にも私の体内に残っていた強大すぎる聖力が、無意識のうちに私の命の核を守ってしまったのだ。
死ねない。
全身の骨が折れ、内臓が破裂しているというのに、私はまだ、生きている。
激痛の嵐が、容赦なく私の意識を覚醒させ続ける。
「あ、ぐ……、ぁ……」
声にならない呼吸が、血を吐き出させる。
冷たい。痛い。暗い。
誰もいない。誰も助けてくれない。
私はここで、誰に知られることもなく、ただ腐り果てていくのだ。
その絶望が、私の心を完全に壊そうとした、その時だった。
『……おや』
暗闇の奥から、声が聞こえた。
いや、それは耳で聴いた声ではなかった。私の脳裏に、直接響き渡った、地響きのような、しかし酷く艶やかな『音』。
『光の家畜が、また何かを放り込んできたかと思えば……これはまた、ひどく香ばしい絶望だ』
何かが、いる。
この絶対の闇の中に。何かが潜んでいる。
私の動かない身体の周囲で、空気がうねりを上げた。
どろりとした、まるで液体のような、濃密な『圧』が私を包み込む。
それは、地上で感じていたどんな悪魔の気配よりも、遥かに巨大で、遥かに悍しく、そして——圧倒的だった。
闇の向こうから、何かが近づいてくる。
擦れるような音。巨大な質量が移動する気配。
やがて、私の目の前の暗闇の中に、ぽつりと『光』が灯った。
いや、それは光ではない。
それは、爛々と輝く、巨大な金の瞳だった。縦に裂けた瞳孔が、じっと私を見つめている。
続いて、もう一つ。さらに、もう一つ。
暗闇の中に、数え切れないほどの異形の『眼』が開き、そのすべてが私をロックオンした。
生物としての本能が、最大級の警鐘を鳴らしている。
出会ってはいけないもの。見てはいけないもの。世界から消し去られた、狂える旧き存在。
だが、私は恐怖を感じなかった。
ただ、その異形を見つめ返した。私の残された片方の目で。
『声を取り上げられ、手足を奪われ、それでもなお、これほどの殺意と怨嗟を燃え上がらせるとは。愛らしい。実に見事な、黒い魂だ』
くすくすと、闇が笑った。
その異形の群れの中から、ふわりと、何かが這い出てくる。
それは、驚くほど端正な、人間の少年のようでもあり、青年のようでもある『美貌』だった。
だが、その背後からは、無数の黒い触手や、鱗に覆われた四肢が、不規則にのたうち回っている。
彼は人間を模したその美しい顔に、おぞましいほど深い笑みを浮かべ、私の方へと近づいてきた。
そして、私の血塗られた頬に、冷たい、しかし絹のように滑らかな指先を添えた。
『愛しい人よ。君の願いは何か? その潰れた喉で、動かぬ身体で、何を望む?』
声は出ない。
けれど、私の心の中の叫びは、彼に完全に筒抜けだった。
——復讐を。
私を裏切ったすべての人間に、復讐では足りないほどの、絶望と恐怖、そして破滅を。
私の心の声を聴いた異形は、歓喜に震えるように、その美しい顔を歪ませた。
『素晴らしい。実によい。神に捨てられた聖女よ、私と契約しよう。君のその極上の絶望と、濁りきった魂を私にくれるのなら……私は君の四肢となり、君の声となり、君の敵のすべてを、骨の髄まで貪り尽くしてあげようぞ』
彼は私の額に、そっと自身の額を合わせた。
彼の金の瞳が、私の至近距離で怪しく明滅する。
『私の名は——。さあ、私を受け入れろ、我が愛しき魔女よ』
その瞬間、私の体内に、地上のどんな聖力をも凌駕する、冷たくて昏い『混沌』が流れ込んできた。
私の死にゆく肉体が、内側から作り変えられていく。
激痛。だが、それは心地よい新生の痛みだった。
こうして聖女エルシアは奈落の底で死んだ。
そして、世界を滅ぼす魔女が静かに産声を上げたのだった。




