新生活(3)
ある日の遅番明け。
帰宅時間も日付をまたぎ、朝日が昇ろうかという時間の日が続いた。
家に帰れば布団に突っ伏すという日が続いているのに、家の中は少しばかり散らかっていて、娘が大声で泣き続けていた。
「ただいま」
けれど返事が無くて、何事かと思えば雪がソファーで眠りについている姿が見えた。
奥のベビーベッドでは娘が相変わらず泣き叫んでいて、それでも起きない雪。
疲れもピークに来ていた俺は、思わず彼女を強く揺すって起こしてしまった。
「おいっ!」
「ーー陽くん?」
「何やってんだよ、小雪泣いてるぞ、部屋も散らかってるし何してたんだよ」
「ごめんなさい、片付けるつもりが寝てしまってた。急いで片付けるね」
飛び上がるように起きた彼女は、泣き叫ぶ小雪を抱き上げあやしながら、散らかる服やチラシを片手で片付けていく。
「ご飯は?」
「ごめんなさい、すぐ用意するね」
シンクにも食器が積まれ、一日中いったい彼女は何をしていたのだろうかと、溜め息が出てきた。
「先にお風呂にするから、時間かかるようならいいよ、もうそのまま寝るし」
「間に合うところまでしておきます」
あやされても泣き続ける小雪の様子にもイライラしてしまって、乱暴に浴室の扉を閉めた。
そんな日が半年ほど続いた頃、俺は仕事で大きなミスをしてしまった。
言い訳をするならば連日の残業に伴う睡眠不足。家に帰れば娘が泣き叫び、雪はダラダラと家事をこなしている。
食事は用意してくれているけれど、質素な内容が続き、ここの所は牛丼と野菜炒めの繰り返しが続いていて、そんな小さなことにもイライラしてしまっていた。
発注ミスでお客様が楽しみにしていた商品が届かなかったのだ。
なんでも久しぶりに帰省する孫へのプレゼントだったらしく、ガッカリして帰る背中に申し訳ない気持ちが溢れ、謝罪しても許されない気持ちと、取り返しのつかない現実に気持ちが落ち着かない。
許されるはずのない大きなミスを耳にした上司にもこっぴどく注意され、その日は早退を余儀なくされた。
と言ってもそれは上司の優しさというのか、連勤と連続残業をさせてしまったことへの気遣いだったけれど、結局帰宅しても休まることは無い。
「ただいま」
意気消沈で帰宅してみれば、家の中は相変わらず散らかっていて、飲んだあとの哺乳瓶がテーブルに転がって、ソファーで小雪がグズグズしているのに、その隣では雪が寝息を立てていた。
俺は一体なんのために頑張ってるのだろうか。
その光景に俺の何かが切れた。
「何やってんだよ!」
「ひゃ!?」
カバンを投げ捨てるようにして声を荒らげた。
と同時に飛び上がるように起きた雪、その全てに驚いて泣き叫ぶ小雪、やってしまったという後悔の念を少しばかり抱きながらも、この時ばかりは自制心も効かなくて、あれこれと不満を爆発させるように彼女を座らせ、話を続けてしまった。
「一日中家にいるんだろ! どうしてそんなにだらけるんだ! 小雪に恥ずかしいと思わないのか!」
「……そうだよね、本当にごめんなさい」
ボロボロ涙を流す彼女の顔が、疲れ切っているように見えなくも無い。でもそれは俺だって一緒で、お互い頑張っていこうって話し合った上でのこの生活じゃないか。
ギャンギャン泣き続ける小雪をあやしながら、雪は本当に申し訳ないと何度も何度も謝ってくる。きっと謝るべきことなんかじゃないはずだと、俺の頭も理解しているはずなのに、収まらない気持ちがそれを許さない。
「俺がなんのために身を削って働いてるのか、わかってくれよ」
「私たちのために働いてくれてありがとう。本当にごめんね、今すぐご飯の支度するね」
「もういいよ」
まだグズグズしている小雪を抱き上げ、あやしながらそんなことを言うものだから、自分の情けない発言とそれでも目の前で謝り続ける態度にイライラが収まらず、さっさとシャワーを浴びてインスタントラーメンを自分で作った。
「具材だけでも用意」
「良いって、寝てろよ。明日から頑張ればいーじゃん」
「……ごめんね」
「謝るなよ」
素直に悪かったといえば少しでも和らぐ話だったはず。
小雪が産まれてから彼女は、女性と言うよりは母親になり、俺の存在が小さくなっているような気がして、ヤキモチにも似た感情なのか余計に胸が苦しかった。
だけどそんなことを言ったところで彼女はきっと『ごめんなさい』と言うだろうし、何よりこんな気持ちは父親としてあってはならないと、その位の自制心や反省はしているつもりだ。
だけどだ。だけどーーーー。
彼女のその笑顔は、仕事で疲れて帰った俺へではなく、確実に小雪に向いているわけで、それが一日だけでも俺に向いてくれれば、きっとこのモヤモヤした心は救われていたかもしれない。
がちゃんとシンクに食べ切った鍋を置き、さっさと寝室へ向かう。
彼女が何か言いかけていた事に気づいていたけれど、そのときの心には耳を傾けてやるほど余裕がなかった。
俺が一番赤ちゃんかもしれないな。
隣室から聞こえる小雪の電磁波かと言わんばかりの泣き叫ぶ声。
疲れた体には物凄く響き、それだけでうんざりしてしまう。
「あぁくそっ!」
現実逃避するように頭まですっぽり布団へ入り込み、遠くに泣き声を追いやっている内に、いつの間にかしっかりと眠りに落ちた。




